<第1回>
  ・歩いた所:道後温泉周辺(愛媛県松山市)
  ・語 り 部:松山観光ボランティアガイド 肥後政幸さん

 今回は、松山観光ボランティアガイドの肥後政幸さんに、松山歴史文化道エリアにある道後温泉周辺の歴史文化遺産を案内していただきました。
 通常は、10数カ所の史跡を、観光客の都合や興味に合わせて、1〜2時間程度で案内されていますが、その中から、道後温泉のシンボルである「道後温泉本館」と、四国八十八カ所巡りのルーツとされる衛門三郎(えもんさぶろう)の逸話で有名な「第51番札所石手寺」を中心に案内して頂きました。

 右の写真の黄色い上着の方が肥後さんです。(明治調の衣装を身につけた他の3人は、「街角案内人」と呼ばれる人たちで、道案内や記念撮影に気軽に応じてもらえます。)


語り部の肥後さん(左から二人目)
(「坊っちゃんカラクリ時計」の前で)

<道後温泉にまつわる伝説>

道後温泉には沢山の伝説や神話があるそうですね。

(肥後さん)

 「はい、そうなんです。例えば、道後温泉は、白鷺(しらさぎ)が発見したと言われています。その昔、足を痛めた白鷺が谷の岩間から湧き出している温泉を見つけ、毎日その温泉に足を浸しているうちに、傷が癒えて勇ましく飛び去ったと言われています。」
 「そのとき、白鷺が休んでいたと言われる石が、「鷺石」(さぎいし)として今でも、坊っちゃんカラクリ時計の近くに残っています。ですから、白鷺は道後温泉の象徴になっており、道後温泉本館入り口の暖簾(のれん)などにも、白鷺が描かれています。」(右写真)


白鷺の暖簾がかかる道後温泉本館入り口

<道後温泉本館のいわれ>

道後温泉本館は、明治27年(1894年)に建てられた非常に立派な木造建築で、国の重要文化財にも指定されていますが、その歴史は?


「お城」を思わせる道後温泉本館の造り

(肥後さん)

 「昔、温泉の各宿には内湯がありませんでしたから、湯治客は外湯として今の道後温泉本館だけを利用していたのです。明治に入り、道後湯之町の初代町長となった伊佐庭如矢(いさにわ ゆきや)氏が、道後を「温泉の町」としてもっと発展させようと考え、この外湯の建物を今の立派なものに建て替えたのです。」
 「斜めから見ると分かりますが、雰囲気が『お城』のようだと思いませんか。実は、松山城を建てた城大工の子孫が棟梁をしたのです。約20ヶ月の工期 をかけ、選りすぐりの建材や石材を使って建てていますから、大衆浴場として100年以上も使われながら、今も当時のままの姿をとどめています。」

道後温泉本館は夏目漱石の小説「坊っちゃん」にも登場しますね。

(肥後さん)

 「実は、この建物が完成した翌年(1895年)に、夏目漱石が松山に英語教師として赴任します。漱石は松山に1年しか滞在していないのですが、その時の経験をもとに、10年後(1906年)に小説『坊っちゃん』を発表します。これが大ベストセラーになり、道後温泉の名を広く全国にPRすることになりました。」

なるほど。漱石は絶妙のタイミングで松山に来たのですね。


 この他、本館の中にある皇室専用のお風呂「又新殿」(ゆうしんでん)や、湯あみで元気になった少彦名命(すくなひこなのみこと)が石の上で踊り出したという「玉の石」の神話など、道後温泉に関する興味深い話を次々に聞かせていただきました。続いて、四国霊場51番札所石手寺に行きます。

<石手寺と衛門三郎(えもんさぶろう)伝説>

石手寺には、どのようないわれがあるのですか

(肥後さん)

 「石手寺の入り口に「衛門三郎」の像がありますが、この人が四国遍路のルーツだと言われています。
 天長年間(824〜834年)の古い話ですが、伊予の国に衛門三郎という強欲非道な長者がいて、農民たちを苦しめていました。その強欲ぶりが余りにひどいので、農民たちが弘法大師(空海)に助けを請うたのです。そこで弘法大師が改心させようと彼の家を尋ねてゆくと、怒った衛門三郎は大師の托鉢(たくはつ)の鉢をクワで叩き割ってしまったのです。すると、その日から、衛門三郎の8人の子供が次々に亡くなりました。自分の行為を悔いた衛門三郎は、弘法大師に直接会って許しを得ようと、 家を捨て大師の後を追って四国霊場順拝の旅に出る。・・・というわけで、彼が四国遍路を初めてした人だと言われています。」


四国遍路のルーツ「衛門三郎」の像

 「彼は20回まわっても大師に会えませんでした。そこで、逆にまわることを思いつき、その21回目の途中、阿波の国の第12番札所焼山寺で病気になり、亡くなる間際にやっと弘法大師に会え罪を許されます。そののち、伊予の豪族の河野氏に嫡男が生まれますが、その子は掌を握ったまま開かないので、安養寺(石手寺の前身)で祈願したところ掌が開き、中から「衛門三郎再来す」と書かれた小石が出てきました。そこで892年に寺号が石手寺に改められたのです。その石が今でも寺にありますから、是非ご覧下さい。」

 「この伝説は有名ですので、ご存じの方も多いと思います。ただ、『衛門三郎が何故これほどまでに強欲非道になったのか。』という、この伝説の前半部分は余り知られていないのです。
 実は、先ほどの河野家は衛門三郎の父親の家系なのです。彼の父親である河野三郎は、若かりし頃、御所の門の警護役という非常に名誉ある役目を仰せつかり、 一人で京都に赴くのです。当時、この職は「門衛」と呼ばれていましたので、彼は字を逆さにして「河野衛門三郎」と名乗るようになったと言われています。
 彼は、都のお茶屋で働いていた伊予出身の女性と恋仲になります。やがて二人の間に男の子が生まれますが、身分の違いから彼の親に結婚を反対され、彼女は乳飲み子を抱えて泣く泣く伊予に戻ってくるのです。


石手寺の二王門(国宝)

 故郷で母子二人ひっそりと暮らしていたのですが、彼女はもともと病気がちでした。しかし、貧しさ故に、薬も買えないし、医者にも診て貰えず、挙げ句の果てに、彼女が亡くなった時には葬式に来てくれると約束したお坊さんにも「別に金持ちの葬式ができたから、行けなくなった」と断られてしまうのです。こうした出来事を通じて、彼女の息子は、「この世で一番大切なものはお金だ。他には何も信じられない。」と確信を持つようになります。そして、父方の家を見返すつもりで、勝手に衛門三郎と名乗り、働きづめに働いて村の長者になるのです。  その後、彼は結婚して8人の子持ちとなるのですが、子煩悩の彼は、子供のために財産を残してやろうと、ますますお金に執着するようになったと言われています。」
<石手寺>

石手寺には他にどのような見所がありますか



 「国宝の二王門、重要文化財の鐘楼や三重塔などがあり、古い建築物の好きな方には非常にお勧めのお寺です。また、寺の奥にある洞窟は、八十八カ寺全てのお砂踏みができる「ミニ四国」になっています。」


石手寺の境内



 「さらに、洞窟を出て少し歩いた所に1メートル四方の小さなお堂があります。これが、安産の神様を祀る「訶梨帝母天堂」(かりていもてんどう)で、重要文化財になっています。訶梨帝母天はインドの神様で、日本で言えば子供を護る「鬼子母神」(きしぼじん)です。ここの石を持ち帰って安産を祈れば無事出産すると言われています。安産の暁には、借りた石に子供の名前と年を書き、それ と何も書いていない新しい石を持ってお礼参りすることになっています。」


安産の神様を祀る訶梨帝母天堂


 石手寺にはこの他にもいろいろな見所がありました。また、石手寺を見た後、重要文化財の伊佐爾波(いさにわ)神社や、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」に登場する秋山好古の墓なども案内していただきました。


最後に、観光ボランティアガイドについて、一言お願いします。

(肥後さん)

 「私自身も、旅行に行った時には、ボランティアガイドの方に案内してもらっています。ガイドさんに説明していただくのと、ただ観るのとでは、旅の印象が全く違ってきます。」
 「そこで私も、観光客の方には、『道後温泉で体を温め、ガイドの説明で心を温めていただきたい。』をモットーに、「お接待の心」でご案内しています。松山にお越しの際には、是非、私ども松山観光ボランティアガイドに声をお掛け下さい。」

 ※ 松山観光ボランティアガイドの利用方法などは、こちらをご参照下さい。




手作りの資料で熱心に説明する肥後さん


TOPページへ戻る