<第3回>
  ・歩いた所:脇町うだつの町並み(徳島県脇町)
  ・語 り 部 : 脇町うだつの町並みボランティアガイド 小田完二さん


 今回は、脇町うだつの町並みボランティアガイドの小田完二さんに、阿波歴史文化道エリアにある徳島県脇町のうだつの町並みを案内していただきました。
 通常は、東西に延びる430mの通りを、1時間程度で案内されているそうです。
 小田さんは、この町並みの中にお住まいで、お宅にはご自分で描かれたうだつの町並みの絵が飾られています。

 それでは、小田さんにうだつの町並みを案内して頂きましょう。


そもそも「うだつ」とは何のことですか?「うだつが上がらない」という言葉のもとになったと聞いていますが。

(小田さん)

 「うだつというのは、2階の壁から突き出した小さな屋根付きの袖壁(そでかべ)のことです。日本の家屋は木造なので火に弱い。そこで、江戸時代に裕福な商人達が、火事の延焼を防ぐために、火が軒下を這わないよう隣家との境界に防火用の壁を設けたのが始まりです。耐熱性を高めるため、荒壁(あらかべ)、中塗り壁、漆喰(しっくい)など10層で塗り固めており、厚さは40〜50cmにもなります。」


 「明治以降になると、次第に防火用としての性格が薄れてきます。うだつの建築には多額の費用がかかることから、商人達は自らの財力を誇示するために、より高く、より立派なうだつを上げるようになります。いわゆる『化粧うだつ』と呼ばれるもので、うだつが富の象徴になったのですね。」
 「ここから転じて、『うだつが上がらない』とは、立派なうだつを上げるだけの甲斐性のない人、つまり、『いつまでもぐずぐずして一向に出世できない人』のことを指すようになったのです。」

町並みを見学する際のポイントは?

(小田さん)

 「国が選定した保存地区には伝統的建造物が88棟あります。このうち、観光の中心になっている430mの『うだつ通り』には、江戸時代の建物が12棟、明治時代の建物が20棟あります。一番古いのは、1707年(寛永4年)に建てられた『国見屋』さんで、今でも人が住んでいます。」
 「江戸時代の建物は、二階部分の軒が低く、いわゆる中二階(ちゅうにかい)になっています。中二階には物置しかなく、人は生活していませんでした。これは江戸時代の厳しい身分制度を映したものです。当時は、町人が二階から下を通る武士を見下ろすのはけしからん、ということで、今のような二階建ての家を建てられなかったのです。」

 「明治時代になると、二階でも人が住めるようになり、軒が高くなります。ただ、部屋の窓は格子戸や虫籠窓(むしこまど)になっており、人が窓から顔を出して外を見ることができません。当時は、二階の窓から身を乗り出して外を見るという習慣がまだなかったのでしょう。」
 「大正時代になると、現在の建物と同じように、二階に手すりテラスがつくようになります。脇町のまちなみは、このように、江戸、明治、大正の各時代の建物を一箇所で見ることのできる、全国的にも大変珍しい通りなのです。」
 「また、同時代の建物が隣り合っている場合でも、新しい家のうだつが高くなっています。昔の人は、隣の家への対抗意識から、少しでもうだつを高く豪華にしようと張り合っていたのですね。」
 「うだつの町並みに来たら、それぞれの建物を見比べて、いつの時代に建てられたのか、また、どちらが新しく建てられたのか、推測してみると面白いと思います。」

建物の内部は見学できますか?
(小田さん)

 「町並みの中のほとんどの建物には今でも人が住んでおり、この場合は家の中に入れません。ただ、郷土料理のそば米雑炊や、地元銘菓、藍製品、竹細工、地酒などのお店になっているところもありますので、買い物がてら覗いて見て下さい。」
 「建物内部をじっくり見学したい方には、吉田家住宅『藍商佐直(さなお)』が良いと思います(有料。佐直というのは藍商の屋号)。これは江戸時代中期の寛政4年(1792年)に建てられた、この地域一番の藍屋敷です。この家を町が買い取り、約6億円の費用と3年の歳月をかけて修復しました。」
 「この藍屋敷には、かつて全国各地から藍を扱う業者が商談に訪れており、部屋数は彼らの宿泊用を含め25もあります。玄関は3つあり、特別待遇の賓客用、一般客用、使用人用と、それぞれ使い分けていました。」
 「建物内部の柱は驚くような太さですし、蔵の扉は防火防鼠のため4重に作られています。また、屋根の上には、『あっかんべえ』と舌を出した珍しい鬼瓦もあります。」


藍商の話が出ましたが、そもそも脇町には、どうしてこのような藍屋敷の町並みができたのですか。
(小田さん)

 「脇町がある吉野川流域は、江戸から明治にかけて我が国最大の藍作地帯だったのです。『四国三郎』の異名を持つ吉野川は、“板東太郎”利根川、九州の“筑紫(つくし)次郎”筑後川とともに、我が国の三大暴れ川に数えられました。毎年秋の台風シーズンになると、川が氾濫を繰り返し、米作には余り適さない土地柄でした。」
 「しかし、上流からは絶えず肥沃な土が運ばれてきましたから、連作がきかない1年草の藍でもよく育ちました。また、春先に苗を植え、7月には刈り取りますから、台風の影響もありません。その上、吉野川の水運も藍の運搬に大変便利でした。」

「18世紀以降、木綿栽培の発展と大衆着の普及で、染料となる藍の需要が高まる中で、阿波藩主の蜂須賀公が藍栽培を奨励したこともあり、阿波徳島は全国有数の藍産地となり、藍商人の手によって全国に積み出されました。脇町も良好な川港(かわみなと)を持つ県西部の拠点として栄えたのです。」
 「因みに、藍がもたらす富のお陰で、徳島市は、明治初めには全国第10位の人口を擁する地方でも指折りの大都市でした。しかし、大正時代になると、化学染料の普及により、次第に藍は廃れてゆくのです。」

ところで、古い建物を町並みごと維持してゆくのは、さぞ大変でしょうね。
(小田さん)

 「今のうだつのある景観は、地域の伝統的な町並みを後世に残したい、との諸先輩方の努力の賜です。地元の熱意が実り、うだつの町並みは昭和63年(1988年)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。これにより、建物の修復には国と自治体から1棟当たり600万円を限度に補助が出るようになりました。」
 「しかし、全部の費用は到底賄えませんから、家屋の修復は家主にとってかなりの負担になります。それでも、年間3棟のペースで修復が行われています。」
 「また、最近は、町内あちこちの公共施設などでうだつが上がっています。例えば、中学校の校舎や銀行、郵便局、スーパー、さらには高速道路のインターチェンジにも、うだつがあります。」
 「初めは観光を意識して町並み保存に取り組んだわけではないのですが、古い町並みを大切にしてきたことで、結果的に、脇町の名前が全国に広く知られ、多くの観光客が訪れるようになりました。それによって、住民の心にも地域への誇りや町づくりへの自信が深まってきているように思います。」


最後に、観光ボランティアガイドの活動について
(小田さん)

 「私どものガイドは、原則として団体を対象としており、観光バス1台(もしくは1グループ)につき2千円の賛助金を頂戴しています。このお金はガイドの研修費用や備品の購入費などに充てており、私どもガイド個人は一切報酬を頂いておりません。」
 「一応、ガイド向けの説明マニュアルはあるのですが、基本的には、各ガイドが自分なりに勉強し工夫して案内をしています。ですから、ガイドによって話の内容が多少違うかもしれませんが、私どもはそれで良いと思っています。ガイド自身が楽しんで案内することが大切であり、それが長続きの秘訣だからです。」
 「また、私が案内した団体客の方が、後日、家族や友人を連れて、マイカーでお越しになり、今度はその方がガイド役になって、町並みを説明して歩いている、そんな光景を時折見掛けます。いわゆる『リピーター』になって頂いたということであり、ボランティアガイドとしての喜びを実感する瞬間です。」
 「是非、より多くの方に、『うだつの上がる町』脇町にお越し頂ければ幸いです。」

 ※ 脇町うだつの町並みボランティアガイドの利用方法などは、こちらをご参照下さい。

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