<第6回>
 ・歩いた所:マイントピア別子
 ・語 り 部:マイントピアを楽しく育てる会
       ガイド部会長 石川 勉さん


 今回は、マイントピアを楽しく育てる会 ガイド部会長の石川勉さんに、ひうち灘歴史文化道エリアにあるマイントピア別子(新居浜市)を案内していただきました。

 
 それでは、石川さん、よろしくお願いいた
します。

マイントピアを楽しく育てる会
 石川ガイド部会長

そもそも「マイントピア別子」とは、どんな施設ですか。

(石川さん)
 「『マイントピア別子』とは、マイン(鉱山)とユートピア(理想郷)を合わ
せて作られた言葉です。日本3大銅山の1つであった別子銅山の産業遺産を活か
して作られたテーマパークで、別子銅山の歴史を紹介するための施設として平成
3年にオープンしました。」


 「別子銅山は昭和48年に閉山となりまし
たが、マイントピア別子は最後の採鉱本部が
あった場所で、別子銅山の概要を紹介する
“観光坑道”や、昔の銅鉱石運搬用鉄道跡を
利用した“鉱山鉄道”のほか、砂金取り体験
や温泉、バーベキューコーナーなどの施設を
揃えています。」

 「私の所属する「マイントピアを楽しく育
てる会ガイド部会」では、メンバーが交代で
毎週日曜・祝日の10時〜15時の間、この
マイントピア別子に来ており、ご希望の観光
客の皆様をご案内しております。」


「マイントピア別子」本館全景
 「通常は、まず本館前から鉱山鉄道(観光坑道とセットで大人1人1,200円)に
乗っていただいた後、観光坑道→第4通銅(旧坑道)→泉寿亭(市内にあった住
友の旧接待館を移設したもの)の順に1時間程度かけてご案内しています。」


それでは、最初に鉱山鉄道に乗車します。


(石川さん)
 「この鉱山鉄道は、本館から観光坑道まで
の約400mを時速10km/hでのんびり
走ります。この線路は、明治26年に日本初
の鉱山鉄道として開業し、山で採掘された銅
鉱石を新居浜港まで運搬していたもので、ト
ンネルや鉄橋も当時のままです。途中にある
赤い鉄橋は、ドイツ製の部材を使って建設さ
れたピントラス橋です。この時代に造られた
鉄橋が現存するのは珍しく、また、岸に対し
て少し斜めに橋が架かっているため、左右の
トラスが非対称の橋として、学術的に貴重な
ものと言われています。機関車も当時走って
いた蒸気機関車を一回り小さくして復元して
います。」


当時使用されていた赤い鉄橋
(鉱山鉄道)

赤い鉄橋を渡ると、間もなく観光坑道前に着きました。


(石川さん)
 「観光坑道は、もともとダイナマイトの保
管庫として使われていた坑道でした。
全長333mのトンネルの中に、江戸時代の
採掘の様子を復元した人形模型や、鉱石の展
示コーナー、鉱夫の体験コーナーなどがあり
ます。それでは、観光坑道をご案内します。」


観光坑道入口

 「江戸時代には、採掘から製銅まで、全て
山中で人力により作業をしていました。鉱石
は槌とのみで掘られ、鉱石は運搬夫が籠に入
れて、坑道の外にある砕女(かなめ)小屋ま
で運搬します。」


 「小屋では、“砕女”と呼ばれる女性達が
鉱石を3cm位の大きさに砕いていました。」


 「砕いた鉱石を炭火で溶かして、銅分が80
〜90%の粗銅(あらどう)に製錬していまし
た。できた粗銅は山役人によって検査され、
銅山税として生産量の13%が幕府に納められ
ていました。」


 「これらの様子を人形模型で復元していま
す。なお、粗銅は大阪に送られてさらに製錬
され、純度99%の精銅(せいどう)にしてい
ました。」



 採掘場の様子(観光坑道)


 鉱石を砕く砕女(観光坑道)


 銅の製錬風景(観光坑道)


電気のない時代に、坑道の中はどうやって灯りをとっていたのですか?



サザエの殻の灯り(観光坑道)
(石川さん)
 「大変いい質問ですね。坑道内は真っ暗な
ので、サザエの殻に入れたクジラの油に火を
灯し、それを持って坑内に入っていました。
実物はマイントピア別子から少し下った別子
銅山記念館にあります。」

 
さらに坑道内を進むと、パネルによる別子銅山の紹介や鉱石を展示している
 「学習コーナー」に出ます。
(石川さん)
 「ここでは、パネル展示により江戸時代から閉山するまでの別子銅山の歴史や
坑道の断面図などが紹介されています。坑道は鉱床に沿って採掘が進むに連れ、
水平・垂直に何本も掘られました。掘られた坑道の長さは、合計するとどれくら
いだと思いますか?合計で700km東京〜岡山間とほぼ同じ距離になります。
また、その深さは閉山前には、海面下約1000m、銅山の山頂からだと2300m近く
にも達しました。」
さらに進むと、「体験コーナー」に着きました。

(石川さん)
 「ここは、江戸時代の人達の苦労を追体験
していただけるようになっており、湧水の汲
み上げや“仲持ち”の体験が出来ます。」

 「採掘場所が地中深くなるにつれ、湧き水
も多くなります。そこで箱樋(はこひ)と
ハコニガイという手動ポンプを使って、地中
深くから何段階もつなげて、人夫が2時間交
代で昼夜を問わず、水を外へ汲み出していま
した。汲み上げは24時間休みなく行う大変な
作業でした。」

 「また、“仲持ち”とは別子の山の上と新
居浜の町の間の運搬係です。製錬して出来た
粗銅を担いで降り、登る時は山中に住む人々
の生活用品を担いで上がります。男性で45kg
女性で30kgの荷物を担ぎ、足元の悪い山道を
10km近く歩いていました。明治時代になる
と道が整備され、牛が引く牛車に代わりまし
たが、それまでは大変な仕事でした。」


湧水の汲み上げ作業(観光坑道)




湧水の汲み上げ体験(観光坑道)

水の汲み上げ作業、仲持ちと同じ30kgの重りを担ぐ体験をしてみました。
 きつい労働で、当時の労働者の大変さがよくわかりました。


(石川さん)
 「明治になると、鉱石の掘削には削岩機やダイナマイトが使われるようになり、
また、鉱石運搬用の鉄道や索道も建設され、労働環境は格段に改善されたのです。」
観光坑道を出ると、山の斜面に水路らしきものがありました。

鉱毒水を処理場に集めていた煉瓦水路の跡

 
(石川さん)
 「これは明治38年に造られた坑水路の跡
です。坑内から出る排水(鉱毒水)を鉱山
から川へ流さないよう、煉瓦水路を伝って
1箇所に集めて中和処理をし、鉄道に並行
して作られた坑水路を利用して海へ流して
いました。別子では100年以上前から環境
問題に取り組んでいたのです。」

帰りは鉱山鉄道には乗らずに、散策しながら川沿いを歩いていると、
 右前方に煉瓦造りの建物が見えてきました。

(石川さん)
 「これは、明治45年(1912年)に完成し
た水力発電所の建物跡で、別子銅山の南を
流れている吉野川の支流の銅山川から水を
ひいてきて、当時東洋一の落差(596m)を
利用した水力発電を行っていました。この
建物は、愛媛県を代表する西洋建築の一つ
で、マイントピア別子本館のモデルにもな
りました。

 旧端出場水力発電所
先人の苦労がいろいろあったようですが、そもそも日本3大銅山の1つと
 言われる別子銅山は、どのように発展していったのですか?
(石川さん)
 「別子銅山の歴史は、元禄3年(1690年)、この先の標高1200mの山中で、“切上り
長兵衛(きりあがりちょうべえ)”という鉱夫が銅鉱石の露頭を発見したことに始ま
ります。翌年、大坂の泉屋(住友の古い屋号)が幕府に許可をもらい、銅を掘り始め
ました。別子銅山の鉱床は世界でも稀に見る大鉱床で、標高1000mを超える別子の山
頂から一枚の板のように、厚さ2.5m幅約1000mの鉱床が地中に向かって延びていまし
た。掘り始めて間もなく1690年代後半には世界最大の産銅量を誇ったと言われています。
江戸時代には、銅は外国貿易の代金支払いに使われていましたが、別子銅山は日本の
全産銅量の約1/3を産出しており、銅山税は幕府財政の重要な担い手でした。」

鉱石運搬に使われていた蒸気機関車
(近くの大山積神社境内に保存)

「明治になると、別子銅山の総責任者・広瀬
宰平によって外国の技術が導入されました。削
岩機やダイナマイトの導入のほか、鉱石運搬の
ため日本で最初の山岳鉱山鉄道が建設され、採
掘量・輸送量が飛躍的に拡大しました。さらに
鉱石を求め地中深く掘り進んで行ったのですが、
海面下約1000mに達すると地圧の増大と地熱の
上昇のために、それ以上掘り進められなくなり、
閉山することとなりました。昭和48年(1973年)
に閉山するまで283年もの長い間、銅鉱石が掘ら
れ、その間掘り出された鉱石は焼く3000万トン、
銅にして約72万トンを産出しました。」

 「ここ新居浜は、もともと小さな漁村でしたが、銅山の採掘が始まると人口が増え、
今見てきた観光坑道の上の方の山には、作業員用の宿舎が作られました。当時は、
一旦山の上に上がると町まで降りるのは大変なため、山に宿舎を作って家族ごと移住
して生活していたのです。江戸時代には、別子銅山全体で家族を含めて約4千人、明
治時代には約1万2千人もの人々が暮らしていて、学校などの公共施設のほか、娯楽
施設もあり、演劇なども上映されたりしていました。まさに1つの大きな町が高い山
の中にあったのです。特に、明治以降は別子銅山の開発とともに関係する仕事が増え、
新居浜は四国屈指の工業都市へと発展していきました。」

 「現在も市内には住友グループの会社がたくさんありますが、それらのほとんどが
銅山の仕事から派生したものです。例えば、住友化学は製錬から発生する亜硫酸ガス
で肥料を作る仕事から発展しました。住友重機械工業は、銅山で使う機械の製造・修
理をする仕事から発展し、住友林業も、燃料の木材を扱う事業や煙害で枯れた山に植
林する事業から発展するなど、まさに、住友グループの原点がここ別子銅山、新居浜
というわけです。」
ここマイントピア別子以外にも、別子銅山に関係する施設はあるのですか?
(石川さん)
 「ここから少し離れた山の方へ行くと、大
正時代に採鉱本部が置かれていた東平(とう
なる)という所があります。東平にも歴史資
料館があり、当時の宿舎や学校の様子を再現
したジオラマや写真などを展示しているほか
銅細工が出来る工房や索道跡などの産業遺産
が多数あります。」

 「また、マイントピアから少し下った所に
住友グループが建築・管理し、別子銅山の歴
史資料を展示している『別子銅山記念館』が
あるほか、そこから西へ行くと、銅山の近代
化に功績のあった広瀬宰平の遺品を展示する
『広瀬歴史記念館』があります。これらの記
念館も回ってみれば、別子銅山に相当詳しく
なると思いますよ。」


別子銅山記念館
(近くの大山積神社境内にある)
マイントピア別子や別子銅山のことが大変よくわかりました。
 どうもありがとうございました。

ところで、石川さんはどのようなきっかけでボランティアガイドに
 なられたのですか?
(石川さん)
 「以前から鉄道や旅行が好きで、全国各地
を訪れたりしていました。マイントピア別子
の建設時に 設備工事を担当したのがきっか
けで、別子銅山に興味を持ち、地元の人をは
じめ、全国の人に新居浜や別子銅山の歴史を
紹介したいと思い、ガイドになりました。」

 「人前で話すのは苦手でしたが、ガイドを
するうちに話すことが楽しくなりました。質
問をしてくれた方には、さらに詳しく話して
あげたくなります。また、来訪者の出身地を
お聞きして、そこと新居浜とが関係する話題
も話すようにしています。」

 「マイントピア別子には、別子銅山の紹介のほか、砂金取り体験や温泉施設もあり、
 家族連れで楽しめます。ぜひ、別子・新居浜にお越しいただき、その魅力に触れて
 いただければ幸いです。」
※マイントピアを楽しく育てる会ガイド部会の利用方法などは、こちらをご参照下さい。

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