<第6回>
・歩いた所:マイントピア別子
・語 り 部:マイントピアを楽しく育てる会
ガイド部会長 石川 勉さん
今回は、マイントピアを楽しく育てる会 ガイド部会長の石川勉さんに、ひうち灘歴史文化道エリアにあるマイントピア別子(新居浜市)を案内していただきました。 それでは、石川さん、よろしくお願いいた します。 |
マイントピアを楽しく育てる会 石川ガイド部会長 |
☆そもそも「マイントピア別子」とは、どんな施設ですか。☆ |
(石川さん) 「『マイントピア別子』とは、マイン(鉱山)とユートピア(理想郷)を合わ せて作られた言葉です。日本3大銅山の1つであった別子銅山の産業遺産を活か して作られたテーマパークで、別子銅山の歴史を紹介するための施設として平成 3年にオープンしました。」 |
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「マイントピア別子」本館全景 |
| 「通常は、まず本館前から鉱山鉄道(観光坑道とセットで大人1人1,200円)に 乗っていただいた後、観光坑道→第4通銅(旧坑道)→泉寿亭(市内にあった住 友の旧接待館を移設したもの)の順に1時間程度かけてご案内しています。」 |
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☆それでは、最初に鉱山鉄道に乗車します。☆ |
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(石川さん) 「この鉱山鉄道は、本館から観光坑道まで の約400mを時速10km/hでのんびり 走ります。この線路は、明治26年に日本初 の鉱山鉄道として開業し、山で採掘された銅 鉱石を新居浜港まで運搬していたもので、ト ンネルや鉄橋も当時のままです。途中にある 赤い鉄橋は、ドイツ製の部材を使って建設さ れたピントラス橋です。この時代に造られた 鉄橋が現存するのは珍しく、また、岸に対し て少し斜めに橋が架かっているため、左右の トラスが非対称の橋として、学術的に貴重な ものと言われています。機関車も当時走って いた蒸気機関車を一回り小さくして復元して います。」 |
当時使用されていた赤い鉄橋 (鉱山鉄道) |
☆赤い鉄橋を渡ると、間もなく観光坑道前に着きました。☆ |
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(石川さん) 「観光坑道は、もともとダイナマイトの保 管庫として使われていた坑道でした。 全長333mのトンネルの中に、江戸時代の 採掘の様子を復元した人形模型や、鉱石の展 示コーナー、鉱夫の体験コーナーなどがあり ます。それでは、観光坑道をご案内します。」 |
観光坑道入口 |
「江戸時代には、採掘から製銅まで、全て 山中で人力により作業をしていました。鉱石 は槌とのみで掘られ、鉱石は運搬夫が籠に入 れて、坑道の外にある砕女(かなめ)小屋ま で運搬します。」 「小屋では、“砕女”と呼ばれる女性達が 鉱石を3cm位の大きさに砕いていました。」 「砕いた鉱石を炭火で溶かして、銅分が80 〜90%の粗銅(あらどう)に製錬していまし た。できた粗銅は山役人によって検査され、 銅山税として生産量の13%が幕府に納められ ていました。」 「これらの様子を人形模型で復元していま す。なお、粗銅は大阪に送られてさらに製錬 され、純度99%の精銅(せいどう)にしてい ました。」 |
採掘場の様子(観光坑道) 鉱石を砕く砕女(観光坑道) 銅の製錬風景(観光坑道) |
☆電気のない時代に、坑道の中はどうやって灯りをとっていたのですか?☆ |
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サザエの殻の灯り(観光坑道) |
(石川さん) 「大変いい質問ですね。坑道内は真っ暗な ので、サザエの殻に入れたクジラの油に火を 灯し、それを持って坑内に入っていました。 実物はマイントピア別子から少し下った別子 銅山記念館にあります。」 |
| ☆さらに坑道内を進むと、パネルによる別子銅山の紹介や鉱石を展示している 「学習コーナー」に出ます。☆ |
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(石川さん) 「ここでは、パネル展示により江戸時代から閉山するまでの別子銅山の歴史や 坑道の断面図などが紹介されています。坑道は鉱床に沿って採掘が進むに連れ、 水平・垂直に何本も掘られました。掘られた坑道の長さは、合計するとどれくら いだと思いますか?合計で700km東京〜岡山間とほぼ同じ距離になります。 また、その深さは閉山前には、海面下約1000m、銅山の山頂からだと2300m近く にも達しました。」 |
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| ☆さらに進むと、「体験コーナー」に着きました。 | |
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(石川さん) 「ここは、江戸時代の人達の苦労を追体験 していただけるようになっており、湧水の汲 み上げや“仲持ち”の体験が出来ます。」 「採掘場所が地中深くなるにつれ、湧き水 も多くなります。そこで箱樋(はこひ)と ハコニガイという手動ポンプを使って、地中 深くから何段階もつなげて、人夫が2時間交 代で昼夜を問わず、水を外へ汲み出していま した。汲み上げは24時間休みなく行う大変な 作業でした。」 「また、“仲持ち”とは別子の山の上と新 居浜の町の間の運搬係です。製錬して出来た 粗銅を担いで降り、登る時は山中に住む人々 の生活用品を担いで上がります。男性で45kg 女性で30kgの荷物を担ぎ、足元の悪い山道を 10km近く歩いていました。明治時代になる と道が整備され、牛が引く牛車に代わりまし たが、それまでは大変な仕事でした。」 |
湧水の汲み上げ作業(観光坑道) 湧水の汲み上げ体験(観光坑道) |
☆水の汲み上げ作業、仲持ちと同じ30kgの重りを担ぐ体験をしてみました。 きつい労働で、当時の労働者の大変さがよくわかりました。☆ |
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| (石川さん) 「明治になると、鉱石の掘削には削岩機やダイナマイトが使われるようになり、 また、鉱石運搬用の鉄道や索道も建設され、労働環境は格段に改善されたのです。」 |
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| ☆観光坑道を出ると、山の斜面に水路らしきものがありました。☆ | |
鉱毒水を処理場に集めていた煉瓦水路の跡 |
(石川さん) 「これは明治38年に造られた坑水路の跡 です。坑内から出る排水(鉱毒水)を鉱山 から川へ流さないよう、煉瓦水路を伝って 1箇所に集めて中和処理をし、鉄道に並行 して作られた坑水路を利用して海へ流して いました。別子では100年以上前から環境 問題に取り組んでいたのです。」 |
| ☆帰りは鉱山鉄道には乗らずに、散策しながら川沿いを歩いていると、 右前方に煉瓦造りの建物が見えてきました。☆ |
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| (石川さん) 「これは、明治45年(1912年)に完成し た水力発電所の建物跡で、別子銅山の南を 流れている吉野川の支流の銅山川から水を ひいてきて、当時東洋一の落差(596m)を 利用した水力発電を行っていました。この 建物は、愛媛県を代表する西洋建築の一つ で、マイントピア別子本館のモデルにもな りました。 |
旧端出場水力発電所 |
| ☆先人の苦労がいろいろあったようですが、そもそも日本3大銅山の1つと 言われる別子銅山は、どのように発展していったのですか?☆ |
| (石川さん) 「別子銅山の歴史は、元禄3年(1690年)、この先の標高1200mの山中で、“切上り 長兵衛(きりあがりちょうべえ)”という鉱夫が銅鉱石の露頭を発見したことに始ま ります。翌年、大坂の泉屋(住友の古い屋号)が幕府に許可をもらい、銅を掘り始め ました。別子銅山の鉱床は世界でも稀に見る大鉱床で、標高1000mを超える別子の山 頂から一枚の板のように、厚さ2.5m幅約1000mの鉱床が地中に向かって延びていまし た。掘り始めて間もなく1690年代後半には世界最大の産銅量を誇ったと言われています。 江戸時代には、銅は外国貿易の代金支払いに使われていましたが、別子銅山は日本の 全産銅量の約1/3を産出しており、銅山税は幕府財政の重要な担い手でした。」 |
鉱石運搬に使われていた蒸気機関車 (近くの大山積神社境内に保存) |
「明治になると、別子銅山の総責任者・広瀬 宰平によって外国の技術が導入されました。削 岩機やダイナマイトの導入のほか、鉱石運搬の ため日本で最初の山岳鉱山鉄道が建設され、採 掘量・輸送量が飛躍的に拡大しました。さらに 鉱石を求め地中深く掘り進んで行ったのですが、 海面下約1000mに達すると地圧の増大と地熱の 上昇のために、それ以上掘り進められなくなり、 閉山することとなりました。昭和48年(1973年) に閉山するまで283年もの長い間、銅鉱石が掘ら れ、その間掘り出された鉱石は焼く3000万トン、 銅にして約72万トンを産出しました。」 |
「ここ新居浜は、もともと小さな漁村でしたが、銅山の採掘が始まると人口が増え、 今見てきた観光坑道の上の方の山には、作業員用の宿舎が作られました。当時は、 一旦山の上に上がると町まで降りるのは大変なため、山に宿舎を作って家族ごと移住 して生活していたのです。江戸時代には、別子銅山全体で家族を含めて約4千人、明 治時代には約1万2千人もの人々が暮らしていて、学校などの公共施設のほか、娯楽 施設もあり、演劇なども上映されたりしていました。まさに1つの大きな町が高い山 の中にあったのです。特に、明治以降は別子銅山の開発とともに関係する仕事が増え、 新居浜は四国屈指の工業都市へと発展していきました。」 「現在も市内には住友グループの会社がたくさんありますが、それらのほとんどが 銅山の仕事から派生したものです。例えば、住友化学は製錬から発生する亜硫酸ガス で肥料を作る仕事から発展しました。住友重機械工業は、銅山で使う機械の製造・修 理をする仕事から発展し、住友林業も、燃料の木材を扱う事業や煙害で枯れた山に植 林する事業から発展するなど、まさに、住友グループの原点がここ別子銅山、新居浜 というわけです。」 |
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| ☆ここマイントピア別子以外にも、別子銅山に関係する施設はあるのですか?☆ | |
| (石川さん) 「ここから少し離れた山の方へ行くと、大 正時代に採鉱本部が置かれていた東平(とう なる)という所があります。東平にも歴史資 料館があり、当時の宿舎や学校の様子を再現 したジオラマや写真などを展示しているほか 銅細工が出来る工房や索道跡などの産業遺産 が多数あります。」 「また、マイントピアから少し下った所に 住友グループが建築・管理し、別子銅山の歴 史資料を展示している『別子銅山記念館』が あるほか、そこから西へ行くと、銅山の近代 化に功績のあった広瀬宰平の遺品を展示する 『広瀬歴史記念館』があります。これらの記 念館も回ってみれば、別子銅山に相当詳しく なると思いますよ。」 |
別子銅山記念館 (近くの大山積神社境内にある) |
| ☆マイントピア別子や別子銅山のことが大変よくわかりました。 どうもありがとうございました。☆ ☆ところで、石川さんはどのようなきっかけでボランティアガイドに なられたのですか?☆ |
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| (石川さん) 「以前から鉄道や旅行が好きで、全国各地 を訪れたりしていました。マイントピア別子 の建設時に 設備工事を担当したのがきっか けで、別子銅山に興味を持ち、地元の人をは じめ、全国の人に新居浜や別子銅山の歴史を 紹介したいと思い、ガイドになりました。」 「人前で話すのは苦手でしたが、ガイドを するうちに話すことが楽しくなりました。質 問をしてくれた方には、さらに詳しく話して あげたくなります。また、来訪者の出身地を お聞きして、そこと新居浜とが関係する話題 も話すようにしています。」 |
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| 「マイントピア別子には、別子銅山の紹介のほか、砂金取り体験や温泉施設もあり、 家族連れで楽しめます。ぜひ、別子・新居浜にお越しいただき、その魅力に触れて いただければ幸いです。」 |
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| ※マイントピアを楽しく育てる会ガイド部会の利用方法などは、こちらをご参照下さい。 | |