ドーベルマン・ドペ



来 訪


 一つの偶然が次の偶然を呼び、新たな出会いと闘いの火蓋が
切って落とされることになった。山荘からおよそ三十分の距離、
隣町にドペ君は住んでいたのである。

 四国三郎・吉野川の河川敷は、見渡す限りの草原のようであっ
た。しかし一歩河原に降りると、遠くから眺めていた印象とは
違い、大きな石が足下を不安定にし、草原は家畜の糞と、上流
から流れ着いたゴミが所々に堆積し、ドペ君を自由に遊ばすこ
とができる環境とは言い難い雰囲気であった。ちょっといい場
所は、近隣から車で犬たちを運動に連れてくる愛犬家たちによっ
て占拠されていたのである。

吉野川河川敷
 他の犬とうまく交わることが出来ればいいのだが、一つ間違 えると小競り合いや喧嘩に巻き込まれる。体のどの部分を強打 しても、また、他の犬とぶつかることででも、ドペ君は出血す る危険を抱えているのであった。その上に上下肢共に、関節炎 というか滑膜炎症状が明白に出ている。足下の石は危険が並ん でいるようなものであった。  単独で、しかも、オフリードで足下に優しい地面の上で遊ば せる場所・・・犬としての好奇心を満足させ、かつ、軽度の運 動を兼ねたリハビリテーションが出来る場所探しが急務であっ た。  五十メートルの散歩で出血が起こるというドペ君が、果たし てアップダウンのある山道を走破できるのであろうか。人間の 血友病治療のように出血傾向が診られた場合、直ちに輸血や血 漿製剤の投与ということができない日本の獣医療の現状では、 危険との隣り合わせとなる適度な運動によるストレスの解放、 などということが果たしてどこまで可能なのであろうか!  「犬として精一杯楽しませてやりたい、たとえそれが原因で 寿命を縮めることになっても・・・じっと室内で何もせず暮ら させるよりは・・・」  母親の胸の内から絞り出すような願いであった。  「ドペの生命力に賭けてみよう・・・」
 翌週、ドペ母子が山荘を訪ねてきた。山荘には町から連れて
きている小うるさい権力者「ビーグル犬・蘭」とその従者「ドー
ベルマン・ロビン」がいる。

 蘭はともかく、同じ雄同士のロビンとドペの折り合いがうま
くつくかどうか・・・ドペの病気を考えると、「犬たちのこと
は犬たちに任せて・・・」などと、セオリー通りに構えている
わけにはいかない。

 とりあえず、ロビンはいつも通り家の中で、ドペ君は庭に設
えてある大きな犬舎で過ごしてもらうことにする。

 ワゴン車に乗ってドペ君が山荘にやってきた。案の定、蘭が
来客に対して小うるさく警戒の声を挙げる。従者のロビンも、
室内を左右に走りながら、姿の見えない闖入者に対し訳も分か
らずけたたましく威嚇と警戒の大合唱である。

 往復六キロほどの渓谷沿いの林道を、オンリードのままドペ
君と一緒に歩いてみる。リードを持つ母親が引きずられながら
緩やかな山道を登ってゆく。途中何回か休憩を挟み、やっと折
り返し地点に到着。リードを牽く力はロビンよりも強い。初め
ての山道であることも、ドペ君の興味をそそったのであろう。
女性がコントロールできる以上の力でドペ君は母親を引っ張っ
ていた。

 二時間以上をかけてドペ君の初めての山登りは成功裏に終わっ
たように見えた。大きなサークルを独り占めして犬座位で風を
楽しんでいるドペ君に異変は起こっていないようであった。食
欲も、「ドーベルマン食い」と勝手に名付けたいわゆる「狼食
い」そのもので、元気いっぱいである。

 問題はただ一つ、警戒心が強くよく吠える。ロビンとの初対
面の挨拶も威嚇と警戒のための吠え声だけであった。吠えられ
ると闘争心が急激に膨らんでくるロビンとの距離を縮めること
は難しくなる。折り合いがつかない。

 庭に植えられた五本杉の枝の下で遅い食事をとりながら母親
にドペ君のことをいろいろと尋ねる。犬はドペ君が初めてであ
ること。血友病であることで処分されることが解り、本来の飼
養主である父親から譲り受けたこと。ドペ君のために、九州か
ら四国に引っ越してきたこと。度重なる輸血により「バベシア
症」に感染していること等々・・・

 治療の経過は想像以上にひどいものであった。血液型が判定
できないせいであろう・・・出血があり、貧血が限界点に達す
るまで輸血はしてもらえず、八ヶ月近くも連続してバベシア感
染の治療薬ジミナゼン製剤を投与されていた。虫体を確認する
ためのギムザ染色検査もしてもらっていない。血友病もバベシ
アギブソニ症も、ともに重度の貧血をもたらす・・・

 サークルの中で休んでいるドペ君の様子を診ながら血友病や
バベシア症についてもう一度病理と治療について母親に説明し、
ドペ君の闘病のために家庭で何を一番にやればいいのかという
ことを模索する。とにかく室内でじっとしているだけではスト
レスが貯まる。といって過激な運動をさせることはできない。
犬としての好奇心を満足させ、適度な運動を与えること・・・

 山荘の山道をリハビリテーションの拠点にすることしか思い
つかない。とりあえず、私が山荘に滞在する週末毎にドペ君に
来訪してもらい、一緒に山道を歩きながら闘病について、また、
主治医の選択について考えてみることにする。

 西の空が茜色に染まりはじめ、ドペ君の帰宅時間が迫ってき
ていた。サークルから外に出し、庭の中を周回し始めたとき、
異変に気づく。右大腿二頭筋と四頭筋のあたりが微妙に膨らん
できていた。触診してみる。筋肉内出血! 五十メートルの壁
が立ちはだかり、血友病の現実が大きな口を開けて笑っていた。