輸血による副反応の影響もほとんどなく、ドペ君は山荘の山
道を楽しんでいるようであった。風が頬を心地よく撫でる季節
がやってきていた。
「この子を走らせてみせます」
二度目に山荘でドペ君と会ったとき約束した言葉である。
山荘からの林道は人こそ通らないものの、どういう行動をと
るか皆目見当がつかないドペ君のリードを外すにはあまりにも
危険であるように思えた。広くて肢に優しい場所・・・思いつ
くところは一カ所しかなかった。五色台の野生児たちが住んで
いた「芝生広場」である。しかし難問でもあった。ドペ君の家
から五色台まで片道およそ二時間半、往復五時間の車中になる。
病弱なドペ君に耐えられる行程であろうか!!!
考えれば考えるほど迷路に落ち込んでゆく。同時に、背骨を
大きく湾曲させ、小股で歩くドペ君のか弱そうな姿を目にする
につけ、「何とかしたい、何とかしなければ」という半ば強迫
観念にも似た哀しみの感情に突き上げられるのであった。
血友病について調べて行けば行くほど壁に突き当たる。臨床
データーは犬については皆無であり、結局人間の病理を基礎に
考えて行くことになる。海外の文献もほとんどないに等しい状
況であった。自己出血の予防策も、「安静に!」しかないよう
である。安静を保っていてもどこからか出血が起こる・・・・
血友病の現実からは逃れられない。
ひもじい思いをしないように願いながら軒下にフードを置い
た古いコンクリート造りの公衆トイレが新しく建て替えられて
いるほかは何も変わっていない。赤いとんがり帽子の建物も、
その前にある水道も・・・何も変わっていなかった。訪れる人
もなく、駐車場に停まっている自動車もない。
冷たい木枯らしの音は耳の中だけで木霊し、目の前の風は淡
い紫。青々とした芝生広場に一歩二歩足を進め、いるはずのな
い野生児たちの面影を追う。
風が止まり、初秋というには暑い日差しが頭の上から降って
くる。音がなくなる。リードの先のドペ君が勢いよく前に進み、
幻想が今の時間を呼び戻してくれた。誰もいない芝生広場で初
めてドペ君のリードを外す。リードを外してくれるのを待って
いたかのようにドペ君が走り出す。
全力で芝生広場を駆け下りるドペ君・・・信じられない光景
であった。飛ぶように駆けている。ドペ君の前方十メートルほ
どの所を二頭の野生児が懸命に逃げていた、芝生広場を駆け下
り駆け上がりながら。三角屋根の建物の横に回り込み、昔の遍
路道に通じる細い径があったところに二頭の野生児が逃げ込む。
かまわず二頭を追いかけるドペ君。何事が起こったのか瞬時
には理解できなかった。こんなに素早く、こんなに華麗にドペ
君が目標を追跡するということが信じられないまま、目の前の
追跡劇に心を奪われてしまっていた。
「ドペーーーーーーッ、バァァァックゥゥゥッ」
「ドペーーーーーーッ、帰っておいでぇぇぇぇっ」
野生児たちをドペ君が追いつめても、決して攻撃することは
ないであろうという自信はあった。しかし、初めての山道で何
が起こるのか、またアクシデントに見舞われて出血の原因になっ
ては困る・・・等々の想いと共に声を張り上げたのだった。
何事もなかったかのように、少し息を弾ませたドペ君が三角
屋根の向こうから、短い尾を振りながら手元に帰ってきた。目
が優しく笑い、体全体が喜びと興奮で一回り大きくなったよう
に見えた。ベンジャミンとそうしていたように、芝生広場を少
し下った所にあるポールの根本に腰を下ろし、ドペ君の体を撫
で回す。
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見通しの悪い芝生広場ではドペ君をオフリードで思い切り遊
ばせてやることができそうになかった。場所探しである。観光
客とキャンパーがいなければ、平らで広い場所が一カ所だけあ
る。その上小さな自然探索路が網の目のように広がっている。
ドペ君にとっては最高の場所かもしれない。
芝生広場からおよそ十分、五色台の中でも瀬戸内海の景色が
パノラマのように眼前に広がる場所、キャンプ施設、テニスコー
ト、自然探索路等々の諸施設が整備された五色台の中心的な場
所の一角にある広場に着く。小さな学校がすっぽり入ってしま
うぐらいの広場は、一面芝生が生い茂り、真ん中に一カ所キャ
ンプファイアーの跡が残っているだけで、人一人いなかった。
オフリードのドペ君が早速周囲の情報集めに走り出す。周囲
を椿や山茶花などの樹々で囲ったその広場は、景色こそ見えな
いものの、ドペ君の運動療法には最適の場所のようである。そ
ういえばベンジャミンや奈々を連れて何度か遊びに来たことが
あった。晩秋の頃であった。やはり観光客もキャンパーも来て
いなかった。ドペ君の嬉しそうに走る姿を見つめながら、広場
のそこここに残っているベンジャミンや奈々、ちびたちの姿を
探す。
広場の端にある東屋風の建物に入り、ドペ君の食餌であった。
母親が持参したドペ君大好物のステックパンと生肉、そして水
よりも大好きというポカリスエット、芋の天ぷら・・・豪華版
の遅い昼食を涎を垂らしながらぱくつくドペ君! 自動販売機
で買った大きなペットボトルに入ったスポーツ飲料で喉を潤し
ながらドペ君の健啖ぶりを見守る。朝食を食べなかったという
ドペ君の朝の状態はどこにも診られない。やはりストレスが原
因なのであろうか・・・・・
食後の運動はオンリードでゆっくり広場を周回する。落ちて
いる匂いを一生懸命探しながらドペ君が力強くリードを牽く。
やはり正解であった。「きっと野生児たちが教えてくれる。五
色台の風が何かを教えてくれるはず・・・」そう思いながら訪
れた広場で、ドペ君はか弱いながらも犬としての本能を少しず
つ少しずつ出してくれている。
椿のトンネルを潜り、階段を上ると駐車場に出る。眼下の瀬
戸大橋が夕日の下に浮かび、海面が優しく輝いていた。一瞬海
からの風が通り抜ける。座席に戻ったドペ君は犬座位で休息の
態勢である。四肢に腫脹や出血の様子は診られない。前日から
続いているという口腔内からの僅かな出血もほとんど止まって
いた。「ありがとう・・・また来る」見えない野生児たちに向
かい語りかける。茜色に染まり始めた海と空の間から野生児た
ちの声が聞こえてきた。
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