事 てんらく 故



 日中の暑さは想像を絶するものであった。三百メートルだけ
太陽に近い分暑いのであろうかと思えるほどジリジリと真夏の
太陽が照りつけてくる。夜は窓を閉め毛布にくるまっていない
と寒さで目が覚めるほどだというのに・・・・・!

 山荘の夏は、蝉の合唱に始まり蛍の乱舞の中で一日が終わる、
都会では絶対に味わうことのできない清々しいものであった。
クーラーのない生活というものがこんなにも快適で健康的なも
のであったのかということを実感しながら刻を過ごしていた。

 反面、ワン君たちの運動場は一面の大草原状態になり、草刈
り機などというものを扱ったことのないものにとっては、思案
投首どころの状態ではなくなっていた。「草枯し」などという
薬品の助けを借りることは絶対にできない。しかしぼうぼうに
生えた大草原のまま放って置くと、周辺に棲息しているといわ
れている「まむし」が入り込む危険があると近所の人からの忠
告も受けている。事実、山荘の玄関脇で蜷局を巻いていた・・・
まむしではなかったのだが・・・蛇君には何度もお目に掛かっ
ていた。


 蘭とロビンを連れての散歩からの帰途、ロビンの元の飼養主
とばったりと顔を合わせ、そのまま立ち話となる。だらだらと
首筋を汗が伝い落ち、ワン君たちは長い舌を出して早い息を繰
り返している。百メートルほど離れた山荘の方からエンジン音
が聞こえてくる。「どこかで草刈りをしているのだろう・・・」
と思いながら立ち話を終えて山荘に戻ってきた。ロビンの生家
のすぐ前の家のご主人が見るに見かねたのであろう、運動場の
草刈りをしてくれていたのであった。



 ワン君たちが散歩のあとのお昼寝タイムに入ったあと、つい
最近貰ってきたというゴールデンの様子と草刈りのお礼をかね
て裏のお宅を訪問することにする。はじめての訪問だった。袋
にいっぱいペディグリーの缶詰を入れ、門のないお宅の勝手口
に回る。日陰に縁台と車の後部座席が置かれ、ご主人とお嬢さ
んそして奥さんがお茶を楽しんでいた。

 リードに繋がれた生後三ヶ月ぐらいの丸々と太ったゴールデ
ンの仔犬が、目尻を垂らして歓迎してくれる。尻尾をぶんぶん
回し、膝に前肢をかけて甘えてくる。ご主人と奥さんそれにお
嬢さんが口々に「はじめて逢ったのに、どうして?」と不思議
そうな顔つきで尋ねる。はじめて犬を飼養するということらし
く、質問に次ぐ質問であった。

 冷たい飲み物で喉を潤しながら簡単に仔犬の生態などについ
ての説明をしているとき、隣の集落の郵便局長だという人が訪
ねてきた。雑種犬を二頭飼っているという。犬談義の始まりで
ある。

 まとわりついてくるゴールデンのリードをご主人が放し、ま
た犬談義が続いた。広い裏庭で元気良くそのゴールデンの仔犬
は遊んでいる。カメラを出して仔犬を撮影。今度はデジタルカ
メラに質問が集中する。説明のしかたも良くないのだろう、解
ったような解らないような、何とも形容の仕様のない顔つきで、
その郵便局長とご主人が頷いていた。



 「ギャ〜ン、ギャイン、ギャイン」ものすごい叫び声が庭の
外れの下の方から響いてくる。立ち上がって声の方に向かう。
庭の端は絶壁であった。十メートル下を川が流れている。その
川面の手前に僅かに張り出している幅三十センチほどのコンク
リート製の擁壁の支えの部分に仔犬が倒れ、叫び声をあげてい
た。


 助けに行こうとしたが川に下りる道が解らない。降り口を捜
しておろおろしている内にご主人がぐったりとなった仔犬を抱
きかかえて戻ってきた。バスタオルを縁台に敷いて貰い怪我の
状態を調べる。外傷はなく出血もないようであった。呼吸とシ
ョックで少々早くなってはいたが脈拍も規則正しく、大腿動脈
から伝わってくる血圧もしっかりしている。
 山荘に電話をかけて貰い救急医療ケースを取り寄せる。体温、
三十八・三度。対光反射、正常。嘔吐、なし。腹部膨張、なし。
受傷部位以外の四肢反射、正常。痙攣発作及び意識障害、なし。


 どうやら庭から三メートルほど下の土手の中腹から垂直に近
いのコンクリートの擁壁を転がりながら落ちたようである。右
肩胛骨から右前肢にかけて激痛があり、肩関節の打撲による一
過性の脱臼あるいは軽度の骨折の疑いが濃厚になってきた。 


 山荘から療養用の大型ゲージを運びそのゴールデンの仔犬を
横臥させ、獣医院に緊急連絡を入れる。いつも病院にいる院長
先生が電話に出ない。緊急用にと教えてくれていた自宅に電話
をしても、誰も出てこなかった。近隣の獣医院にも連絡を試み
たが、何処も日曜日ということで電話に出ない。

受傷前のマル
 転落による骨折は疑いようがなかった。ご主人には告げてい ないが、骨折前肢の末梢神経の麻痺症状がすでに出ている。右 前肢の骨折だけであることを祈りながら、内臓破裂による腹腔 内出血、頭部の強打に起因する脳挫創などの緊迫した症状の出 現の有無を見守る。幸い呼吸は正常であり、脈拍なども異常を 示すようなことはなかった。経口投与した消炎鎮痛剤が効いて きたのであろう。仔犬は痛みを訴えることもなく静かにゲージ の中で横たわっている。  電子聴診器から伝わってくる心音も、落ち着いた綺麗な音に 戻っていた。注射筒からの水をごくごくとおいしそうに飲んで くれるが、たくさん与えることはできない。嘔吐もない。気が かりは外傷性ショックによるアシドーシスである。幸運なこと に体温も呼吸数も心音も極めて正常であった。目の色が仔犬独 特の優しさを取り戻していた。  症状が落ち着き、仔犬がうとうとと眠り始めたのを確認し、 夜の間に注意しなければならないこと、そして翌日必ず獣医院 で手当を受けるように家人に伝えその家を辞したとき、すでに あたりは真っ暗になっていた。仔犬が川に落ちてから八時間が 経過していた。  ゴールデンの仔犬「マル」は、末梢神経の麻痺症状もとれ、 軽いびっこはひいているものの、「二階堂さんの山荘の前を通 ると必ず中に入ろうとするんですよ・・・」と、顔中皺だらけ にして話してくれるご主人とともに、大きくなった体をゆさゆ さと揺らしながら田舎道を散策している・・・・・