早 春 賦



 幅三メートルほどの簡易舗装された散歩道は、片方が川、も
う片方は山であった。所々に杉並木があり、川向こうは高さ十
何メートルもあろうかと思える竹林の連続である。道から十メー
トルほど下がった川面は透き通った水が浅く流れている。山肌
には植物園でしかお目に掛かることがなくなった野生のスミレ
が群生しており、山野草がつぼみを膨らませていた。

 リードの先二メートルほどに繋がれたロビンが小躍りを繰り
返しながら力一杯牽いてゆく。一日に一台の車も通ることのな
い国道に抜けているその道がロビンと蘭たちの運動場である。
敷地の中の竹林で筍を掘っている側にきて、川砂にまみれた長
い顔をさも親しそうにすり寄せ、目線が合うと嬉しそうにニャ
ッと笑いまた竹林の中を徘徊し始めるロビンも、この道ではウ
サギやイタチそして狸たちが落とした匂いを拾うのに懸命のよ
うである。山と川とに挟まれた一キロほどを過ぎると急に目の
前が明るくなり次の集落の何軒かの家々が見えてくる。

 畦道を抜け、大きな仏壇工場の横を通り、繋がれている犬た
ちから威嚇の吠え声を浴びせられながら急な坂を下ると橋の袂
に出てくる。マホービンからの冷たい水を全員で飲みながら休
息をとる。およそ二キロの行程である。帰路は先ず川沿いの細
い畦道である。左手に真竹の群落、右に段々畑の石垣を見なが
ら急な坂道を滑らないように登る。ロビンの長い肢の間を蘭が
素早く抜けて舗装された元の道に出る。来たときと同じ道をゆ
っくり引き返す。

 同じ番犬に威嚇され、低くこもった唸り声とも驚いた声とも
判別できない、それでいて知らない人が聞けば少々怖い籠もっ
た声を発しながらロビンがその番犬たちの横をすり抜ける。蘭
は繋がれているその番犬たちの鼻の先まですり寄って威嚇する。
小さな橋を渡り神社の祠の横を通り過ぎると畦道である。風が
静かに通りすぎ木の葉が空から降ってくる。
 ロビンたち以外に遮る者もない細い川沿いの道を、今度はゆ
っくり山荘に向かう。杉木立を通り抜ける風は冷たく澄み切っ
ている。ロビンの大きな爪先から出る「カッカッ」という音と
風が小枝をすり抜ける音、そして川のさざめき以外の音は届い
てこない。ゆったりと歩くロビンの引き締まった臀部が右に左
に揺れ、リードを外してもらった蘭がこれ見よがしにロビンの
鼻先を走り抜ける。

 小さな蕗の葉が路傍から眼に飛び込んでくる。ロビンが鼻先
をくっつける。鉛筆よりも細い蕗の茎の間から小さな蕗の薹が
顔を出していた。植物図鑑でしか見たことのない蕗の薹を摘ん
でみる。五メートル四方もあるかないかというその蕗の群落に
腰を落とし次に腰を上げたときには、両の手のひらに一杯の蕗
の薹が乗っていた。ロビンと蘭が不思議なものを見るような目
線を手のひらと私の顔に送ってくる。散歩の時間がホンの少し
だけ長くなる。

 山荘の庭に佇み落ちてゆく陽の光を追いかけながら眼の中に
入ってきた紅く染まった雲を眺める。ふっと空白の心の中に亡
くなったベンジャミンの顔が浮かぶ。純白の長毛で短足、全て
を悟り尽くしたような優しさをたたえていたベンジャミン。そ
れとは正反対に、真っ黒い体毛と長足、引き締まった体躯に爛々
と光る両の眼、そして父親である私の体調を絶えず気遣い甘え
ることさえ控えていたベンジャミンの分まで精一杯甘えるロビ
ン。ベンジャミンの匂いが漂ってきた。
散 歩 道