残 のこりゆき 雪



 小さな集落にもやっと遅い春が息吹始めていた。平成九年三
月、香川県の県都高松市から南に三十二キロ、阿讃山脈に周囲
を囲まれた標高三百メートルの盆地の一角に念願の土地を購入
することが出来た。

 敷地の裏には四国三郎吉野川に注ぐ源流の一つが流れ、全集
落合わせても五軒、総勢十四、五人がひっそりと暮らしている。
その集落のはずれにポツンと建っている敷地面積三百坪ほどの
土地が「ベンジャミンの小さな楽園」と名付けた犬たちと共に
暮らすためのまさに小さな小さな楽園であった。

 わずか五軒の集落の内の一軒の家に、姿を見せたこともなく、
ただその吠える声だけで住民から恐れられていた犬がいた。週
末毎に自宅の犬たちを連れて訪れていた私の耳に届くその威嚇
に満ちた吠え声は時がたつにつれ悲鳴のように聞こえ始めたの
であった。田舎の家々には門扉がない。家人も殆どの家がそう
であるように朝早くから各々の職場に出かけ夜遅く帰ってきて
いるようであった。

 その家にも門扉はなく、家人も職場に出かけていて留守のよ
うである。いつもそうするように、犬たちのための救急医療セ
ットを片手にその家の庭に無断侵入を試みたのである。太い鎖
に繋がれた真っ黒い犬が一頭、吠えるのを忘れたのであろうか、
じっと私の方を見つめて砂利を敷き詰めた庭の一角に立ってい
た。四月の半ばのことであった。

 空っぽになった食餌用の金属ボウルと木の葉が浮かんだ水桶、
陽射しを避ける場所もない庭の一角でその犬は両目に多量の眼
脂を浮かべて不思議なものを見るような、それでいて表情のな
い能面のような顔で私を見つめていたのであった。犬の目線ま
で腰を落とし空っぽの心でその犬と暫く向かい合っていた。救
急ケースから眼科用テラマイシン軟膏を取り出してその犬の両
目に点眼し、カット綿でゆっくりと目をマッサージした。大人
しくされるままになってくれている。浮き出ているあばら骨が
目と手に訴えかけてくる。山荘にとって返し大急ぎで赤身の牛
肉をボイルしてもらい再び無断侵入である。息もつかずがつが
つと食べる土埃で汚れた一頭のドーベルマンピンシャー・・・!

 週末にしか行くことのなかった山荘の土地に、ドーベルマン
用の食餌を携えて二日に一回は訪れる日々が続き、家人の許し
を得て治療と散歩に連れ出すことが出来るようになっても、山
荘に行くことができない日の夜は寝付きが悪かった。いっこう
によくならない目の治療を理由に家人にそのドーベルマンを町
の家で預かることを打診したところ二つ返事で了承してもらう
ことが出来た。その日からもう七ヶ月近くが過ぎ、週末は他の
愛犬たちと共に山荘にお供、ウィークデーは局から帰る私を待
ちかねて散歩のおねだりという日々を過ごしているドーベルマ
ンのロビン!
残 雪
 先輩のビーグル犬「蘭」の行動を見ているのであろう、長い 首筋をすっと伸ばし、ピンと立った耳の間に少ししわを寄せて あたりを睥睨するかのように歩くときはまさにドーベルマンそ のものである。しかし、普段はそうではない。地面近くに鼻を すりつけ、右に左に落ちている匂いをかぎながら歩くその姿は 超大型の色違いのビーグルそのものであった。もちろん甘えん 坊である。体重三十キロのロビンが後ろ肢で立ち、両前肢を肩 に回して頬をすりつけて甘える仕草は、奥歯をしっかり噛みし め後ろに倒されないように全体重を前方に掛けて踏ん張ってい る私にとっては、嬉しい拷問であった。  甘咬みで肩や手の皮が傷つくのは日常茶飯、噛みしめた歯が 鈍い音と共に欠けることも致し方のない幸せの実感とでもいう のであろう・・・・・