海 うみかぜ 風



第一章



(一)出 たびだち 発
 海からの湿った風が首にまとわりついて離れない。時間がい 
つもよりゆっくり流れていく。住み慣れた街を離れようとして
いる実感よりも、目に見えない鎖でつながれていた長い歳月の
積み重ねが純子の背中にのしかかるように襲いかかってくる。

 街はようやく動き始めたばかりであった。忙しく行き交う通
勤の車の間を縫うように、視線をせわしく動かしながら純子は
アクセルを踏み込み、ハンドルを回す。いつも通っている道が、
まるで初めて通る道のような違和感で目に飛び込んでくる。昨
夜から何度も何度も頭の中でリハーサルを重ねた別離の刻のシ
ナリオを忠実に実行しているはずであった。どこにも狂いはな
いはずである。バックミラーの中に純子を追いかけてくる車の
姿は映っていない。

 不思議に悲壮感はなかった。シュミレーションの時は、突然
吹き出すように沸き上がってくる悲壮感に何度も何度も行く手
を阻まれ、その度に自分の心の中をおそるおそる覗かなければ
ならなかったことがまるで嘘のように静かであった。突然純子
の背中に戦慄が走る。思わず振り返った視線の中には何もなか
った。自分で創り上げた鎖の重さも、そこにはなかった。視線
を前に戻した瞬間、背後からの戦慄が電流に変わっていた。徐々
に強くなっていく電流の流れが体中を駆けめぐりやがて一点に
集中してくる。

「一樹さん!」

 純子の唇から声が漏れた。この数ヶ月、必ず襲ってくる甘美
な電流の中に身をゆだねるとき、背後にもそして視線の移る全
てのところに一樹の姿があった。目を閉じるとその姿は更に輪
郭を際だたせた現実の姿と重なって純子の全身を押し包んでい
た。体中の力が抜けていく気配に身を任せたかった。

 信号が青に変わり周りが動き始める。純子の中に流れていた
甘美な感覚が引き、ハンドルを持つ手に力が入る。あと五分、
あと五分で全てが終わり全てが始まる。右手に見える高層ビル
がまるでそれまでの純子の生活を埋めるための墓標のようにそ
びえ立っていた。

 あと一回ハンドルを右に切り、駐車場のゲートをくぐり抜け
る。そこがこの地での歳月を捨て去るための終着駅であり、出
発のための始発駅でもあった。


「ねぇあなた! もし私が急にいなくなったらどうする?」
「なんだい、また急に?」
「ねぇ、どうするの?」
「そんなこと言われたって、返事のしようがないじゃぁないか!」
「どうするのよぉ・・・」
「どうするったって、・・・・・ウン、でもどうしてそんなこ
 とを訊きたいんだ?」
「・・・・・」
「そうだなぁ、どうしようか・・・・・」


 三日前の夫との会話が蘇ってきた。次のターミナルに向かう
バスの中でも純子の思考はほとんど停止したままであった。
次々に流れてゆく窓外の田園風景も、いつもはその暖かさを体
中で受け止めていた朝の陽の光も、純子の目には映っていない。
 目を閉じても、開けていても、静かに微笑みながら純子を見
つめている一樹の姿以外は見ることがなかった。鮮烈な感覚と
映像が全身を暖かく包み込んでいるのがはっきりと感じられる
以外、全ての感覚が麻痺し続けているのが解る。
 何が自分をここまで駆り立てているのか純子には解らなかっ 
た。ただ一樹の元にゆきたいという想いだけが体中を駆けめぐ
っていた。それはこの数ヶ月、変わることのない感覚として純
子を翻弄し続けてきたのであった。

遠ざかる街の墓標を左手に見つめながら別れの言葉を探そうと
していた純子の中に突然稲妻のような衝撃が走った。別れを告
げるべき何ものも純子の中には存在していなかったのである。
通りすがりの名も知らぬ土地に視線を走らせる旅人の目と同じ
目をした純子がそこにはあった。

 何故なんだろう? どうして? 疑問を反芻してみても答え
は湧いてこなかった。

「あなた、これでいいのね!」

 窓外に視線を追いやりながら見えない一樹に向かって純子が
つぶやく。

「これでいいんでしょ! ねっ、あなた!」

 返ってくるはずのない答えを求めて純子のつぶやきは続いて
いた。すれ違う車が押し分けた風が窓をたたき、いつの間にか
雲の間に姿を隠していた早朝の太陽が一段と暖かさを増して純
子の顔を照らしていた。

「ねぇあなた、何とか言って下さい!」

 一樹の口調である静かで低い声を求めて視線をさまよわせな
がら流れてゆく景色と、追いかけてくる陽の光の間でさまよっ
ている自分の姿をもう一度確認するかのように静かに目を閉じ
てみる。

「そう、それでいいんだ! 何も考えなくてもいいんだ」

 頭の中心に一樹の声が返ってきた。

「よかった! もうすぐあなたのところへ参ります!」

 瞼の中に写る一樹の姿に語りかけた純子は座席に深く沈み込
みながら再び目を閉じた。規則的に響いてくる路面からの騒音
と、時折聞こえてくる風を切り裂く鋭い音がなければ、そのま
ま夢の中の一樹に強く抱きしめてもらえそうな感覚が純子を襲っ
てきた。

 長い夜がやっと通り過ぎ、陽光の中に出発ってゆく純子の脳
裏にはもう何の不安も、迷いもなかった。