第二章



(四)湿  風
 ホテルに帰っても何もすることも、予定もないのでしばらく 
散策を楽しみながら時間をつぶすという一樹を社叢に残し、純
子は車のエンジンをかける。バックミラーに見送る一樹のがっ
しりした体躯が映っていた。午後四時を回ろうとしていた。

 生真面目を絵に描いたような純子の夫光男は、毎日判で押し
たように会社から自宅に帰ってくる。どんなに遅くても午後五
時を過ぎることはない。急いで帰らなければ外出していたこと
が夫に分かる、しかも普段着ではない。ハンドルを握る手に力
が入る。今夫に何かを知られてしまったら、明日の一樹との逢
瀬が消えてしまう! 一樹と初めて過ごした甘美な数時間が純
子を支配し、明日のために用意すべき全てのプランを正確に弾
き出していた。そのプランのためにも、夫より先に家に着いて
いる必要があった。社叢から自宅までの十五分という時間が恐
ろしく長く感じられた。夫はまだ帰宅していなかった。

 普段着に着替えるのもそこそこに、手早く夕食の支度を済ま
せる。すでに前日から用意していた惣菜類を冷蔵庫から出し、
テーブルに並べる。五時五分前になっていた。車庫から夫の車
の停まる音が聞こえてきた。


 子供のいない純子たちにとって夫と二人だけの夕食はいつも
のことである。しかし、この日の食卓は何かが違っていた。買
い物以外にはほとんど家から出ることのない純子にとって、夕
食のとき、夫が話してくれる会社での出来事や友人たちとの何
でもない会話、それらが唯一の外界からの情報であった。いつ
もの通り会社での出来事や友人たちとの面白い会話について話
しながら食事を進めている夫が、まるで別の世界の人のように
思えた。

 話しの内容もほとんど耳に入ってこない。適当に相づちを打
ち夫の話を聞いているふりを続けるのが面倒に感じてくる。早
く食事を終わらせ自室に戻りたい! その想いだけが純子を支
配していた。いつものように食事をしている夫に対し罪悪感の
かけらも感じていない自分が怖くなりながらも、心の中は一人
で夕食を食べているであろう一樹のことで一杯であった。


 ホテルまでのわずか十分少々の距離を埋めることができない
ことへの苛立ちも混じって、純子は次第に不機嫌になり、夫の
言葉にも反応しなくなりはじめていた。自分が時々怖くなりな
がらも純子の心は一樹のことで占められていた。あと十四時間、
あと十四時間経てばまた一樹に逢える! しかしこれからの十
四時間は、電話もかけることができない、車に跳び乗ってホテ
ルの一樹のところに駆けつけることもできない!

「おい、どうした?」
「はいっ! 何か?」
「コーヒーをいれてくれないか・・・・・」
「あっ、はい」

 一樹のことで占められていた心の一角に夫が侵入してきた。
ミルにコーヒー豆を入れスイッチを押す。豆が細かく砕かれる
音が何故か今夜は耳障りであった。食後のコーヒーの味がほと
んど分からない。苦みだけが舌を刺激してくるようであった。
やっと夫が二階の書斎に上がる。手早くあと片づけをすませた
純子は、よろめくように自室に戻る。

 神経がずたずたに切り刻まれたような気怠さに襲われ、ソファ
ーに沈み込む。夫を騙していることに対する後ろめたさと、一
樹のことだけを考えていたいという二つの歯車に挟まれて、暑
い夜が余計に暑く純子を責め立てていた。
 純子の帰ったあとの社叢には何もなかった。木立を吹き抜け 
る風の音も、時折聞こえてくる参拝客の踏みしめる玉砂利の音
も、一樹の耳には届いてこなかった。

「明日朝九時にお部屋に参ります!」

 別れ際に耳元で囁いた純子の声がぐるぐると頭の中で回転し、
止めようとしても止まらなかった。純子の囁きに追いかけられ
るように社叢を通り抜け、一段広い通りに出る。まるで広野を
切り開いて造られたようなその道の両側には何も建っていない。
そこここに手入れの行き届いていない田圃が点在し、その所々
に周囲の風景とは不釣り合いな近代的な建物が点在しているだ
けであった。

 何を求めて一樹はこの地にやってきたのであろうか? 自分
自身にもう一度問いかけてみる。何も求めていない! ただ風
に吹かれて、純子の姿を見るためだけにやってきたような気が
する。それ以上の何の願望もなくこの地を訪ねた。この先何を
望んでいるのだろうか? やはり答はない! 「何かが起これ
ばそれも良し、何も起こらなくてもまた良いではないか!」一
樹の中の一樹が答える。

 一樹にとって、この地を、純子の住んでいるこの場所を訪ね
ることが全てであった。そのあとのことは何も考えていなかっ
たのである。


 ホテルに戻りシャワーで汗を流す。午後六時前であった。こ
れから一人で夕食をとるのかと思うと、それだけで気が滅入り
そうになり食欲がなくなる。方角さえ分からない初めての土地
を、しかも一人で散策する元気もない。とにかくホテルを出て
しばらく当てもなく歩いてみることにする。時間だけは嫌とい
うほどある。

 ホテル前の歩道を百メートルぐらい進んだところに、落ち着
いた佇まいの喫茶店が一軒だけあった。普段から一人で喫茶店
などに入ることのない一樹は、窓の外から店内を伺い、躊躇っ
ていた。もう少し前進してみることにする。見るべきものは何
もなかった。来た道を引き返し先ほどの喫茶店に思い切って入
ることにする。

 円形画廊のように設計された店内は、思った通り落ち着いた
デザインのテーブルと椅子で心地よさそうな空間を形作ってい
た。客の姿は殆どないようである。ウェートレスから手渡され
たメニューに眼を通す。ステーキ料理に始まり、若者の好みそ
うな洋食から和食、軽食に至るまで、店構えからは想像できな
いほど盛りだくさんの内容であった。

 食欲がないままテーブルに着いたものの、ホテルで味気ない
夕食をとるよりは何か軽い食事をと考えた一樹は、冷たいミル
クとプレーンピザをオーダーする。何とか食事を流し込んだ一
樹が、食後の煙草に火をつけ、コーヒーに手を伸ばそうとした
とき、携帯電話が低く鳴った。純子からの電話であった。

「お食事はなさいましたか?」
「ええ、今終わったところです」
「これから、どうなさいますの?」
「何も! ホテルに帰ります」
「分かりました。また、チャンスを見てお電話を差し上げます」

 辺りをはばかるような純子の声であった。おそらく夫の目を
盗んでの電話であったのだろう! 一樹の心の中に海からの冷
たく湿った風が吹き込んできた。