第二章



(五)夢 舞 台
 午前七時、目覚めた純子は朝食の支度を始める。コーヒーと 
トースト、ハムエッグを手早く造り食卓に並べる。午前八時、
夫を送り出す。一樹との約束の時間まであと一時間であった。
食事の後片づけを済ませ自室に戻りクローゼットを開ける。前
夜から決めていた洋服に着替え、入念に化粧を整える。鏡に映
った純子が、「なんて大胆なことをしているの!」と問いかけ
てくる。

 昨日から今日にかけて、そして今から起こるであろうことを
想像すると、確かに大胆すぎるほど大胆な行動であった。自分
が何をしようとしているのか、どこに行こうとしているのか、
分からない。純子自身の熱情が、種を蒔き、その芽をここまで
育ててきたことは確かであった。しかし、その先に起こること
が何であるのか、純子自身が何を求めているのか、分からなか
った。

 何時間もかけて純子の元にやってきた一樹の優しさに対し今
更「行けない」などということもできない。できれば、今まで
のことは全て夢の中の出来事であって欲しい、とも思った。一
樹の元に行けば純子は自分がどうなるのか、分かっていた。そ
のことが純子を躊躇わせたのである。躊躇いながら一樹を訪ね
る支度を整え、支度をしながら躊躇っている純子が、鏡に映っ
ていた。

 ガレージに置いてある車に乗り込んだ頃から、躊躇いは嘘の
ように純子の中から消えて行き、ただ一樹に会いたいという気
持ちだけで満たされてきていた。と同時に、昨日からの自分が
一樹にどう映っているのか、そしてまた、一樹に逢った後起こ
るであろうことに対しての期待とで、殆ど何も考えることがで
きない状態になっていた。

 どこをどう走ったのであろうか、気がつくと純子はホテルの
駐車場に来ていた。入り口近くの木の下に一樹が立っていた。
約束の時間に待ってくれていたのだろう、胸が熱くなる。


 再び一樹に逢えた歓びで純子はまた自分を失った。一樹の後
ろにぴったりくっつきエレベーターから部屋に入る。椅子に座
り一樹の顔を見ているが、緊張と興奮とで頭の中は真っ白にな
ったままであった。上着をクローゼットのハンガーに掛けた一
樹が純子の正面の椅子に座ろうとしたとき、純子は立ち上がり、
両腕を大きく広げて一樹の分厚い胸の中に崩れるように飛び込
んでいった。


 もう言葉は欲しくなかった。純子の手の届くところに一樹が
いる。一歩前にでれば、全てが始まる! 純子の緊張と興奮が
極限に到達したのであった。受け止めてくれた一樹の厚い胸の
中で、純子はなおも叫びつづけていた。「もっと強く、もっと
強く抱きしめて!」温かい一樹の体温が純子の胸に伝わってく
る。純子はもう何も考えることができなかった。


 歓びに打ちふるえ半ば虚脱状態の純子を一樹は優しくベッド
に横たえた。目を閉じて唇を微かにふるわせながら横たわって
いる純子から、優しいローズのにおいが漂ってきていた。

「純子!」
「はい、・・・・・嬉しい! 名前を呼んで下さって・・・」
「純子!」
「一樹さん・・・・・」

 溶け合った心と心が重なり、一樹の背中に回された純子の腕
から力が抜け落ちて行く。間近に感じる一樹のにおいと息づか
い! 純子の夢の舞台がくるくると回り、甘美な香りと共に風
の中で舞い踊る木の葉のように舞い上がり、舞い落ちた。
一樹 様

 あなたに実際にお逢いして私のどうしていいか分からないほ 
どの心身の昂まりを鎮めてもらうはずでした。でもあなたに対
する思いは鎮まるどころか余計に昂まってしまいました。あな
たがお帰りになったその夜には、もうあなたの胸の中に飛び込
みたくて泣いていました。泣きながら私はあなたと逢うために
今日まで生きてきたのだと思いました。心と体が一つになった
とき、私は私の人生の頂点にいることをはっきり確信しました。


 あなたにつけて貰った乳房の印は七日間消えませんでした。
そのためもありますが、長い習慣であった夫と一緒の入浴を止
めました。消えない赤い小さな跡を一人バスタブに浸かって見
る時、ホテルでの夢のようなひとときが蘇り、目を閉じてその
再現された感覚に溺れました。あなたのことを二十四時間、ずっ
と思い続けて他のことはどうでも良いように思うことさえあり
ます。


 夫が寝静まるのを待ち、深夜声を顰めてあなたに電話をする
時、このままではいけないといつも思いました。「跳ぶのが怖
い」というエリカ・ジョングの小説を大学時代に読んだのを思
い出します。内容はもうはっきりとは思い出せませんが、現実
を捨て、新しい現実を選択する時、跳ぶのを怖がっていては何
も変わらない。そして私はすでに助走を終わろうとしていまし
た。もう跳ぶしかありませんでした。いつ跳ぶか? どのよう
に跳ぶか? 着地点は決まっていました。


 一樹さん! あなたは私を変えてしまわれました! 私の中
にあった全ての価値観だけでなく、もう一人の私という存在も
変えてしまったのです。今ここにいる私は、私であって私では
ありません! あなたの目の中で、あなたの腕の中で、為す術
もなく心も身体も委ねていた純子、それが本当の私なのです。
何も欲しいものはありません、どんな贅沢もしたくありません。
あなたのお側にいられれば、あなたと共に残された人生の刻を
過ごすことさえできれば、他に欲しいものはありません。


 あなたのためなら、私はどんなことでも、何でもできるよう
な気がします。こんな気持ちになることさえなかった私が今で
は不思議です。面倒なこと、やっかいなことそしてトラブルに
なりそうなこと、全て見て見ない振りをして避けてきました。
自分の心の中を覗くことも、いつの間にか止めていたのです。


 一樹さん! あなたの残された時間を私に下さい! あなた
と手をつないで、あなたがいつも仰っている夕焼けの空の中に
行きたいと思っています。あなたがいない純子の人生を考える
ことはもうできません!
あなたに出逢えた人生に感謝しています!

                          純子