第二章



(六)黄 たそがれ 昏
一樹 様

 この電子メールが、私がこの地からあなたにお送りする最後 
の手紙になります。明日の朝、私はあなたの元へ出発ます。あ
なたと共に残りの人生を静かに、優しく過ごすために、私はあ
なたの腕の中に参ります。いろいろなことが去来します。本当
にいろいろなことを今想い出しています。全ての思い出と全て
の過去をこの地に置いて、私は参ります、あなたの立っている
ところへ・・・・・


 一樹さん! 何時の頃だったのかはっきりしません、気がつ
いたとき、私はあなたを愛していました。心身共にあなたの虜
になっていました。あなたは少年のまま時間が止まったような
人でした。信じられませんでした、そんな人が存在しているこ
とが。力強く社会生活を営んでいるあなたという男性が、少し
も摩滅することなく少年の心を持ったまま大人になったなんて!


 あなたは徹底して一貫した人でした。全く嘘のない人でした。
誠実で力強く信頼出来る人でした。私が時々見せる躊躇や不安
に、適切にアドバイスもしてくれる大きさも感じました。


 一樹さん、あなたに比べて私はとてもだらしない人でした。
ぐずぐずしてみたり、突然発作のように湧き出てくるあなたと
の思い出に一人浸りきってみたり、深夜、支離滅裂な電話をか
けてあなたを困らせてみたり・・・・・それらのことをあなた
はいつも優しい笑顔で許してくれました。私をいつも大きく包
み込んでくれていました。時々叱られることもありましたが、
あなたのお話はいつも素直に聞くことができました。あなたが
仰ることは全て素直に聞けたのです。一つ一つの言葉が心地よ
く耳に響き、心の中まで素直になれたのです。


 迷いがなかったわけではありません。迷い続けていました。
迷いながら、私は出発のための準備もしていたのです。その日
のためにやっておかなければならないことのリストを作り、状
況を見計らって、少しずつ作業を続けて参りました。この地で
の十数年を過去として消し去るための作業は重いものでした。
心の動揺を伴う作業でもありました。でも、いつの間にか、迷
うことも動揺することもなくなっていたのです。

 「正直に生きて行きたい! あなたの側でなら、それができ
る!」この思いが私の迷う心を救ってくれたのです。迷いを持
っているときは、何をしても後ろめたく、罪深いものを感じて
いました。その罪深く後ろめたい思いが、私を疲れさせ、苦し
めました。でも、今自分のいるところ、そしてこれから向かお
うとしている方向が見えたとき、その悩みは消え去ったのです。

 私はギャンブルをしたことがありません。でも、もしかする
とこれは私にとって一生に一度のギャンブルかもしれない! 
やり直しのきかないたった一度だけの賭け! 臆病な私の最初
で最後の賭けかもしれません。

 あなたの下さった愛に賭けて、もし負けることがあったとし
ても、それはそれでいいと思えるようになりました。「賭け」
は賭けてみないと「勝ち」はないし、賭けるときに「負け」は
考えない! 「負け」は負けたときに考えればいい! 
いつも「負け」を考えて賭けない人生だったから・・・・・

 小さい頃、私には「負け」という言葉はありませんでした。 
いつも「勝ち」しかなかった子供でした。 何時の頃からか、
「負け」ばかりを心配する小心な大人になっていたような気が
します。あなたは教えて下さいました「自分が自分に負けなけ
れば負けにはならない」と・・・・・もう賭ける前に負けてい
る純子には戻りません。

 一樹さん、もうすぐです! 待っていて下さい・・・・・

「純子!」 「・・・・・」 「純子! 起きなさい! 風邪をひくから」 「うーーーん、 あらっ、あなた! ずいぶん眠りました?」 「ウン、二時間ぐらいかな、よく眠ってた!」 「そうですか・・・、私夢を見ていました・・・」 「ウン、どんな夢だった?」 「・・・・・二十年前の夢・・・・・」 「二十年前?」 「ええ、あなたと初めて逢った頃の夢・・・・・」 「へえー」 「楽しい夢でしたわ!」 「二十年か・・・・・」 「そう・・・もう二十年も経ったんですね・・・」 「そうかぁ・・・・・」  白髪を風になびかせながら優しい笑顔の一樹が、傍らの揺り 椅子に座っている純子のショールを肩に掛け直していた。読み かけの本を膝に置いたまま純子は微睡んでいたのだった。  ログハウスのベランダでの昼食の後、一樹は近くの小川まで 純子の大好きな水草を摘みに出かけ、純子は一樹が大好きだと 言っていつも書斎のデスクに置いている、ジョン・ゴールズワー シーの「林檎の木」という短編小説を読んでいた。  学生時代からの一樹の愛読書であったその本は、何度も何度 も読まれたのであろう、原書の所々に鉛筆で書き込まれていた 一樹の注釈が見えなくなっている。純子ももう何度もその本に 眼を通していた。  細い金のチェーンで首からぶら下げられた眼鏡が純子の胸で 微かに揺れる。初秋の風が吹き抜けていった。  茜色の夕陽が山肌を秋色に染め、ベランダの二人を紅く照ら し出していた。             1997年01月10日(金)     執筆             1997年01月22日(水)午前2時 脱校