何も書き込まれていない空白の電子メールがすべての始まり
であった。アカウントとホームページのアドレスだけがきちん
と書かれていたその空白のインターネットメールは、何とも奇
妙な感覚を純子に植え付けた。
「何なんだろうこのメールは?」
「いたずら? それとも、何か?」
どうということのないメールについての疑問と興味が終日純
子にまとわりついて離れない。本名らしきものも書き込まれ、
中央に見事に整理されて記されているアドレスアタッチメント
を見る限り、いたずらとも思えないし、といって本文のない空
白だけのメールが何を意味しているのかも謎のままであった。
ぐるぐると頭の中で回り続ける空白の手紙に対するいらいら
をどうしても打ち消すことが出来ないままコンピューターの画
面に映し出されているメールを見つめていた純子の背後に夫の
気配が忍び寄ってきた。まるで秘密の手紙を覗かれるのを隠す
かのようにあわててそのメールを閉じる。
「あなた、何か?」
「ウン、コーヒーでもいれて貰おうと思って・・・」
「はい、今いれますから」
「ああ・・・何か気になることでも?」
一瞬の狼狽が純子を襲った。その手紙を夫に見られたとして
も、別段どうということはないはずである、しかも中味のない
空白のメールである。しかし純子の胸は早鐘のように打ち、か
すかに足下にも震えがあった。
思い切ってその手紙の差出人に返信を出すことにする。いっ
たい何のために白紙のメールを送ってきたのか、問いただすこ
とでしか純子の中に宿ってしまった訳の分からない苛立ちを消
し去ることはできないように思えた。とはいえ、全然面識もな
く正体すら分からない未知の人へのメールをどう書けばいいの
か、またひとつ問題をかかえ込んでしまった。
・・・本文のないメールを受け取り、いったいどうしたのだろ
うと困惑しています。そこでアタッチメントに書かれていたア
ドレスを頼りに、ホームページを訪問いたしました。
しかし、一度の訪問で、あの膨大な内容を読むことはできま
せんでした。書かれておりました内容はとても感動的で、心を
揺り動かされました。
今夜もう一度そちらのホームページを訪問いたすことにして
おります・・・
空白のメールに対する質問を書くために訪れたそのホームペー
ジの内容は、ただ膨大な量の物語が記されていただけではなかっ
た。その物語は、一つ一つ哀しく心を打つ内容であった。
純子の心に宿っていた「いたずら」という疑念は跡形もなく
消えていた。
空白のメールに対する質問に答えて、丁重な詫びを添えたメー
ルが純子のメールボックスに届いていた。原因はただの操作ミ
スであった。疑念が消え去ったあと、訳の分からない寂しさが
純子の心に残った。
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判明した理由のあとの空白が埋められないまま、ぽっかりと
風穴が空いたような虚ろな感覚だけの数日が過ぎていった。
何一つこだわる理由のないメールに、心の内の殆どが拘束され、
呪縛に掛かっているような日々が虚しく過ぎて行くのが純子に
はたまらなく苦しいものに代わろうとしていた。
何故という理由がないだけに、その呪縛から解き放たれるこ
とは困難であった。ただの白紙のメール、間違って送られてき
ただけの中味のないメールがこれほどまでに心の奥底深く絡み
ついてくるなどということは、純子がかつて考えることもでき
なかった不可思議な葛藤であった。
書き記されていたアドレスを訪ね、そこに掲載されている膨
大な量の物語を読み続けた。時間はあっという間に通り過ぎて
行く。幾夜かの訪問を終わり物語のおよそ半分を読破した頃か
ら、純子の心の中を占めていた理由のない疑問という呪縛の形
が変化し始めていた。メールに対する苛立ちは、そのホームペー
ジの作者に対する興味へと移り変わっていたのである。
山に捨てられた犬たちと作者との交流を淡々と書き記したそ
の物語は、感情をほとんど打ち出していない書き方のせいでも
あるのであろう、心の中を揺り動かされ、時には涙でその先が
読めなくなるほどの哀しさを伝えてくる。
「いったい何なんだろう、この作者は?」
「どうしてこんなに素直な気持ちのまま大人になることが
できたんだろう?」
「どんな環境で育ったんだろう?」
疑問が疑問を呼び、純子の中の作者に対する興味は時と共に
ますます大きく膨らんできたのであった。問いただす手段のな
い疑問は、ますます純子の心を縛り付け、物語から想像する作
者の姿を不鮮明なまま形作ろうとしていた。そしてその背後で、
「こんな風に書いていても所詮はただの大人! どこかで本音
の出てくることが・・・・・」
「自分だけのことしか考えない風潮の現代社会に、こんなに犬
たちを純粋に愛している人がいるはずが・・・・・」
という黒い声が聞こえてくるのにも逆らうことができないで
いるもう一人の純子の姿もあった。
途方もなく大きな感情のうねりの中で純子は進路を失いかけ
ていたのである。自分の中に芽生えたどうということのない疑
問、そしてその疑問が消失したあとの虚しさ。その空白を埋め
るために迷い込んだのであろう迷路は、純子がかつて持ってい
た朝露のように透明な優しさで溢れているように見える。しか
しその透明感が本物なのか、それとも表面だけの見せかけなの
か・・・判別することはできない。
判別できないことへの苛立ちも手伝ったのであろう、ますま
す深みに落ち込んで行く自分自身をもはやコントロールするこ
とすらできないままに、純子はなんとかその作者とのコンタク
トをとる方法を探し出そうとしてもがき始めたのであった。
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