第一章



(四)手 メール 紙
 風が運んできた夕立に追いかけられながら帰宅した純子の脳 
裏には、社叢で垣間見た束の間の幻が張り付いたままであった。
蝉時雨の音が耳の中で木霊し、樹々の間を駆け回る小さな木の
葉の妖精たちのざわめきと風の歌声、そして鼻孔に甘く香る一
樹のにおいは現実のものとして純子の胸の中をまだ駆け回って
いた。

 落ち着かないままにシャワーと夕食をすませた純子は、自分
の部屋のコンピューターの前で何をするというでもなく、画面
に映し出される映像をぼんやりと遠くを見つめるような眼差し
で眺めていた。昼間の幻覚が時折胸の中で暴れる。におうはず
のない一樹の汗とコロンの入り交じった甘い香りが、純子の身
体全体を押し包んで離れようとしない。掌がじっとりと汗ばん
でくるのが解る。胸が動悸を打ち、呼吸が乱れ始める。

 思い切り口を開けて深く息を吸い込んでみても、空気が十分
に胸の中に届いてこない。身体全体がじっとりと汗ばみ、心臓
の鼓動がはっきりと耳に届いてきた。じっと椅子に座っている
ことができないぐらい身体がぐらぐらと揺れているような感覚
に襲われた純子が、コンピューターデスクから蹌踉けるように
立ち上がりソファに崩れ込む。目を開けていることができない。

 ほんのわずかの間、時間にすればおそらく一、二分の間、無
意識に微睡んだのであろう、その間に眺めた夢の世界は、あま
りにも現実的であり、純子の深層心理をものの見事に写し出し
ているものであった。姿形の解らない橋詰一樹のことをどうし
ても知りたいという妄想にも似た感覚に純子は襲われ始めてい
た。

「おーい、純子っ」
「純子ーっ」

 二階から夫の光男の呼ぶ声が響いてくる。全身を包み込んで 
いた気怠さを押しのけるようにして純子は声の方に立ち上がっ
ていった。

「何かご用ですか?」
「ウン、ちょっとプリンター用紙を買ってきてくれないかなー」
「普通の用紙ですね!」
「ウン、頼む」

 夕立が上がったあとの空にはもう小さな星たちが乱舞してい
た。表通りのコンピューターショップまでの道のりをゆっくり
歩きながら、純子はまた社叢での幻影のことを考えていた。考
えても出てくるはずのない答えを求めて、純子の心は走り続け
ようとしていた。自分でも理解することのできない、それまで
の自分の人生の中で出会ったことのない不思議な感覚をどうし
ても消し去ることができないままに、暗い住宅街の道を歩き続
けた。

 夫以外の男性と会話を交わすことも、まして、一、二回のメー
ルの交換だけで、その相手に興味を持つということなど、今ま
での純子の歩いてきた人生にはかつてなかったことである。そ
れどころか、その相手の姿形を、たとえ微睡みの中であっても、
脳裏に浮かべるなどということは決して起こり得ないことでも
あった。

「どうした! 遅かったじゃぁないか!」
「すみません! ちょっと散歩をしていましたから・・・」
「そうか・・・どこか具合でも悪いの?」
「いいえ、どこも・・・」
「そう・・・」

 夫との会話を断ち切りながら純子は階下の自室に駆け込むよ
うに降りてきた。心の中に刻み込まれて消えようとしない一樹
の幻影を夫に見られたくないという突き上げるような強さが、
無意識のうちに純子の行動を定めたのである。昂ぶった心の内
の声に逆らえないままに、純子は一樹宛の電子メールを認め始
めた。
橋詰 一樹様

 突然このようなメールを差し上げますことを先ずお許し下さ 
い。先日来、橋詰様のホームページを拝見させていただいてお
りますが、その内容は私の心をひどく揺り動かし、その鮮烈な
印象は胸の中に大きな感動と興味を刻みこんでしまいました。

 橋詰様がいったいどういう人なのか! また何故こんなにも
鮮烈にそして清々しく生きられるのか!
私の中の物差しでは到底推し量ることができません。

 答えを探し出そうと、書かれている物語を読み進むに連れて、
疑問が疑問を呼び、私の中のお目に掛かったこともない橋詰様
に対する興味がどんどん広がって参りました。

 正直に書かせていただきます。結婚以来、私は夫以外の男性
と話をしたことも、あるいはしたとしても、意に添わない表面
だけの会話の連続という生活を送って参りました。もちろん人
と話をすることが嫌いなわけではありませんが、異性と話をす
ること自体、面倒ですし興味の湧くようなお話をしたような経
験もありません。

 もちろん夫以外の男性に目を向けるということも、関心を持
つというようなことも、決してありませんでした。でも、今は
違います。橋詰様の生きてこられた道筋、そして考えていらっ
しゃること、全てのことを知りたいという強い願望に押し潰さ
れそうになっています。

 どうしてこんな激しい感情の波に巻き込まれているのか、自
分でも解りません。何故なのか・・・でも知りたいのです。

 今日の午後、近くの社叢に理由もなく出掛けて参りました。
涼しそうな木陰のベンチに座っております内に、つい微睡んで
しまったようです。その微睡みの中で、私は橋詰様、貴方にお
逢いしました。そして言葉を交わしたのです。

 貴方の汗のにおいと、懐かしいコロンのにおいも、まだここ
に漂っています。低く、優しい声で私の名前を呼ばれました。
耳の奥でその声が響いています。

 目を開けたとき、貴方はもういませんでした。私にはそれが
微睡みの中の幻影であったとは思えません。どうしてなんでしょ
うか? まだお逢いしたことも、お姿を拝見したこともない貴
方のことがはっきりと心の中に生きているのです。貴方の声も
はっきりと覚えております・・・・・。

 この感情がいったい何なのか! どうしてこんなにも激しく
貴方のことを知りたいと思うのか! 解りません!
 そしてもう一つ、どうしても貴方のことが、一面識もない、
逢ったことも、お話をしたこともない人だという感じがしない
のです。ずっと昔から知っているような・・・・・待ち続けて
いた人にやっと巡り会えたような・・・・・そんな感覚を持ち
つづけております。

 突然このような不躾なメールを目にされてお怒りになること
も、あきれられることも、あるいは困惑されるかもしれないと
いうことも十分承知いたしております。でも、今の私の気持ち
を本当に正直に書かせていただきました。

 ご迷惑を承知のこのメールにお目を通されましたら、どうか
悪ふざけの悪戯ではないということをご理解下さり、ご返事を
頂けますことを鶴首してお待ち申し上げております。

                      小早川 純子