第一章



(六)細 さざなみ 波
 逢いたい、どうしても逢って言葉を交わしたい! 現実の橋 
詰一樹という人物に触れて、その声を、その体躯を、自分の目
で、耳で確かめてみたい! 一樹からの返事を画面の中で読み
終えた次の瞬間から純子の思考は一点に集中し、一樹に会うた
めの方法を模索し始めていた。

 感情のままに書き送ったメールに対し果たして返事が来るの
であろうかという危惧が全くの杞憂に終わったあとの静けさは
一瞬の内に吹き飛び、新しい、身を捩るような感情が再び純子
の中に芽生えてしまった。

 電子メールに記載されているヘッダー情報から、一樹の住ん
でいる地域は簡単に割り出すことができる。正確な住所は、聞
けばいい。なんとしても一樹の住んでいるところまで辿り着き
たい、そして言葉を交わしたい、車をとばせば何とかなるので
はないだろうか! 

 激流にも似た感情が純子の中を駆けめぐり、その奔流は時間
の経過と共にさらに激しく、より大きなうねりとなって純子を
弄び始める。逆らうことなど考える余裕さえ与えられない。激
しく乱れ、一点を目指して急降下する流れの中で純子の思考も
また、ただ一点を目指して大きく揺れ動いていた。


 昂った気持ちを抑える術を見つけだせないまま、純子はまた
神社に出掛けた。鬱蒼と茂った社叢に立つことで、一樹に会う
ための方法が見つけだせるような気がしたのである。外界と遮
断されたようなその神社の森は、はっきりと夏の終わりを告げ
ていた。いつもの場所に座り、いつものように目を閉じる。蜩
の声と木の葉をすり抜けるかすかな風の歌声以外の音はなかっ
た。きりきりと胸を刺すような痛みが純子の中を走る。消えた
と思った次の瞬間、その痛みはまた胸を刺してくる。


 かすかに開かれた純子の唇から苦悶の呻きが漏れる。二度、
三度、低い呻きを漏らしたあと純子は閉じていた目をゆっくり
と開けてみる。樹々の間から斜めに差し込んでくる陽光も、そ
の陽光の中を歩いてくる一樹の姿も、そしてそのにおいも、そ
こにはなかった。終わりの刻を目指して鳴き続ける蜩と、立ち
上がるだけの力も、幻を追い求めることさえできなくなった空
っぽの純子だけが取り残されていた。
 何という虚しさであろうか! どうしてもっと優しく書くこ 
とができなかったのであろうか! メールを出したあとの後悔
だけが一樹を責め続ける。人と交わることの苦しさから逃れる
ために閉じた心をいとも簡単に開き、いつの間にか心の中にぴ
ったりと張り付いてしまった純子からの電子メールに、一樹も
また翻弄されていたのである。


 形通りの文言に、感情を抑えられるだけ抑えた文章、丁寧に
書かれた一樹のメールには表面上一点の非の打ち所もなかった
はずである、そして優しさのかけらも・・・・・。海岸通りの
遊歩道を歩いている一樹の心はさまよい続けていた。何かは解
らないままに、純子からのメールが心の奥底深くで漂っていた。
消し去ることができないほどの深さに、純子というまだ見ぬ女
性の姿が浮かんだまま動こうとしない。


《今日の午後、近くの社叢に理由もなく出掛けて参りました。
涼しそうな木陰のベンチに座っております内に、つい微睡んで
しまったようです。その微睡みの中で、私は橋詰様、貴方にお
逢いしました。そして言葉を交わしたのです。

 貴方の汗のにおいと、懐かしいコロンのにおいも、まだここ
に漂っています。低く、優しい声で私の名前を呼ばれました。
耳の奥でその声が響いています》


 純子からのメールが耳元で囁き続ける。はっきりとした優し
い声が一樹に語りかけてくる。大きな瞳を精一杯見開き、真正
面から一樹に挑むように語りかけてくる純子の姿が見えるよう
な錯覚に陥る。青い空の所々に浮かんだ夏の雲から風が舞い降
りてきた。

 防波堤の先端に着いた一樹はいつものように遠くの島影を追
い、海と空との境界に視線を走らせる。ギラギラと暑さの中で
輝いている波間を縫うようにカモメの一団が飛び交い、時折外
界を覗く小魚が小さな波紋を残してまた水の中に消えて行く。
いつもと変わらない海の風景がいつもの通り目の前に存在して
いた。一樹の心の中のうねるような感情だけが、青い水の中で
激しく揺れ動いていた。風の止まった海面に一瞬細波が走った。