第二章



(一)激 げきりゅう 流
小早川 純子様

 この電子メールを私は何のために、そしてなにを求めて認め 
ようとしているのか、よく分かりません。そしてこの手紙を受
け取った貴女が、どんな感情を抱かれるのか、想像することも
できません。でも書かずにはいられないのです。


 貴女のメールは、私が力一杯閉じた私のパンドラの箱をいと
も簡単に開けてしまいました。何十年にもわたって、ほとんど
自分でもその存在を忘れてしまっていた箱のふたを開けてしま
ったのです。決して責めているのではありません、何人をして
も開けることは不可能であろうと信じていた私の心の扉を、苦
もなく開けてしまわれたのです。

 いったい何のために! まだお目に掛かったことも、身近に
そのお声を聞かせて頂いたこともない貴女が、何のために私の
眠らせていた心の二重の扉を開けられたのでしょうか!
解りません!

 人と交わり、人を愛し、人を信じ、そして全てに裏切られた
ときの血のにじむような痛みから抜け出すために、もう二度と
そんな思いをしないようにと、力の限り閉めて、二度と開くこ
とのないように封印をした私の心の中の秘密の扉を、どうして
そんなにも簡単に開けることができるのでしょうか! そして
貴女はなにを私に求めていらっしゃるのでしょうか!
どうか答をお教え下さい!

                       橋詰 一樹


 静かで落ち着いたいつもの一樹からは想像もできない激しい
感情の揺れのままに書かれた電子メールであった。人一倍正義
感が強く、何物にも妥協しない確固たる自分という信念をもち、
それでいて寡黙に静かに日々を過ごしていた自分のなかに、こ
れほどの激流が隠されていたことが一樹自身信じられなかった。



橋詰 一樹様

 お手紙読ませて頂きました。どうして私があのような激しい
メールを差し上げたのか、私自身ちゃんと説明ができません。
何故なのでしょうか! 自分でも説明のできない感情が私を支
配しているようです。

 もう一度自分の中の幻影ともいえる貴方の姿を求めて神社の
森に出かけてみました。そして貴方の幻を探そうとしてみまし
た。でも、貴方は私の前に出てきてはくれませんでした。

 幻覚の中の楽しい夢、そう思って忘れることにしました。忘
れる努力をしようとしてみたのです。でも無理でした。私の中
の貴方は、消し去ることはおろか、ますます大きくはっきりし
た形を取って私の心を支配してしまっていたのです、まるで魔
術にかけられたように!

 私は貴方になにを求めているのでしょうか! 一生懸命その
答を探してみました、でも分かりませんでした・・・・・。
私は貴方の中になにを見ているのでしょうか! 自分でも一番
知りたいことなのです・・・・・。


 今の境遇に不満があるわけでも、何かから逃げ出そうとして
いるわけでもありません。何一つ追い求めなければならないも
のは、私の中には存在していないはずです。でも、私は貴方に
何かを求めているような気がします。そして今はそれがどうい
うものなのか、私自身でも説明ができないのです。


 勝手なことばかり申し上げているようですが、どうかもう少
しだけ私の前で止まっていて下さい。消え去ることだけはどう
かやめて下さい! お願いします!

                      小早川 純子
 自分でもどうしてこんなに激しい内容の手紙を書いたのか理 
解できない。今の生活に何一つ不満があるわけでもない。結婚
以来不思議なほど平穏に日々が流れていっていた。何一つ不満
を口にすることもなく、怒りを表面に出すこともない優しい夫
との十五年間は、理想の生活でもあった。いったい何が純子を
激情に駆り立てるのであろうか! 探しても探してもその答は
出てこない。

 反対に、まだその姿さえ見たことのない一樹という人物の何
が純子をこれほどまでに引きつけるのであろうか! その答も
また探し出すことはできなかった。ただ一つ分かっていること、
今一樹との連絡がもし途絶えることがあるとすれば、それは純
子にとって決して耐えられることではないということ、このこ
とだけは何故かはっきりと純子の脳裏に一つの形として刻み込
まれていたのである。

 一樹を失いたくない! この想いだけが純子を過激とも言え
る行動に走らせようとしていた。決して自分たちの小さな家庭
から外の世界を伺うことをしようとしなかった純子がその動機
がわからないままに、いま橋詰一樹という人物に自分の方から
必死にアプローチを試みようとしていたのである。何故という
動機が不鮮明なままに、純子の心はすでに走り出していたので
あった。


 驚きの連続である。自分の中にこんな激しさが隠されていた
ことが自分自身でも未だに信じることができない。しかし、現
実の純子は全速力で平穏な人生の道から外れていくかもしれな
い、十分に危険なにおいのする未知の世界へ向けてその歩みを
徐々に速めていたのである。後ろを振り返ることすらできない
ほどの強さで引きつけられてゆく自分を押しとどめることさえ
できないままに、自分を引きつけているものの実体さえ分から
ないままに、純子は走り続けた。

 ひき返すことはできなかった。何故引き返せないのか、その
理由は分からない、しかし引き返すことができなかったのであ
る。恐ろしいほどの一樹に対する想いが純子をぐんぐん引っ張
って行くのが分かる。その想いがだんだん形を創り上げて行く。
どうしても一樹の実体をこの目で見てみたい! 一樹の何が自
分をこんなにも引きつけるのか、その正体を突き止めたい! 

 一樹に対する想像が時間と共に膨れ上がり、実体のない一樹
が純子の心を覆い尽くしてしまう。何もできない! 想像とい
う激流の中で翻弄され続ける自分の姿をかき消そうと、純子は
忙しく立ち働いてみた。しかし、純子の中で轟々と音を立てて
流れる一樹への想いは消し去ることができなかった。それどこ
ろか、刻の経過と共に息苦しささえ伴って純子を翻弄し続けよ
うとしていた。

 掃除も、洗濯も、買い物に出ても、何をしていても一樹への
自分でも理解することのできない想いが湧き上がり、様々な形
の流れを創り、やがて一本の大きな急流を形成して純子の中を
ぐるぐると回り始めるのであった。急流に浮かぶ小さな木の葉
のように純子の心の内は乱れ、苦しみ、切ない思いを伴って激
流の中へと飲み込まれていったのであった。