第二章



(二)茜 あかねぐも 雲
 純子からのメールは一樹の心を余計に惑わせるものであった。
妻との二十年を越える結婚生活を何の波風もなく過ごしている 
一樹が、同じように夫との穏やかな日々を送っている純子に、
どんな感情を持てるというのであろうか! たとえ好意に似た
感情を持ったとしても、それを口に出すことができるはずがな
いことは、分かりすぎるほどよく分かる年齢でもある。純子が
求めているものが何にせよ、分かち与えることができるものは
ほとんどないに等しい。それでも純子は何かを求め続けている。
そして一樹も、頭の中で理解していることとは別に、純子の中
に何かを求めていたのである。

 しかし、そのことを口にすることはできない。青年の日夢見
た淡い恋心、その昔日の甘くほろ苦い感覚が鮮やかに蘇り、純
子という女性を対象に鼓動を始めたことに一樹はすでに気付い
ていた。そして純子からのメールは、一樹のその甘酸っぱい想
いをすでに見抜いているかのようでもあった。

 禁断の木の実を口にすることは容易いことかもしれない! 
しかしそのあとに何が残るのであろうか! 後悔と寂しさだけ
の虚しい日々が残る。残された虚ろな日々を乗り越えるだけの
力が自分に果たして残されているのだろうか! 自問自答の中
で一樹は、どんどん深みに入って行く自分の姿をはっきり認識
していたのであった。一方で、「意気地なし、そうやっていつ
も自分から逃げ続けてきたじゃあないか! 自分に正直に生き
てみたらどうなんだ! 意気地なし・・・」と叫ぶ声をはっき
り耳に受けていた。


 見てはいけない心の奥底に潜む封じ込められた幻影を見てし
まった一樹は、その幻影から逃れるように車に乗り、いつも訪
れる郊外の山を目指した。標高四百メートルの山頂からは、瀬
戸内海の美しい景色がパノラマのように眼下に広がるのを楽し
むことができる。ほとんど人の来ない山頂で、自分自身の姿を
もう一度鋭く観察してみることもできる。そして、山の霊気に
触れることで、自分の中で息を吹き返した幻をひょっとして消
し去ることができる、いや、消し去ることができなくても、再
び心の奥底深くしまい込むことができるのではないだろうかと
考えたのである。

 山頂はすでに初秋のたたずまいであった。有料道路を行き交
う車は全くなかった。山頂の一角に造られた駐車場に車を止め
た一樹は、細い遊歩道を下り始めた。山肌を削って造られた遊
歩道脇には、名もない草花に混じって黄色い花を精一杯咲かせ
たタンポポの群落がかすかな風の中で、右に左にと丁寧なお辞
儀を繰り返していた。鳥の声が聞こえてくる。


 小径を覆っていた松林が終わり、目の前に突然海が広がる。
額から汗が落ち始める。遊歩道脇のベンチに腰を降ろし、ゆっ
くりとタバコをくゆらす。かすかに海のにおいが漂ってきてい
た。草いきれと微かな海からのにおい、ほとんど垂直に立ち上
るタバコの煙、目の前にある全てのものがまるで午睡の中にい
るかのように動かない。時間も止まったのであろうか! 左手
の人差し指と中指の間にタバコを移した一樹はゆっくり目を閉
じる。音が止まった。


「一樹さん!」
「一樹さん! 逢いたい!」

 突然純子の声が頭の中に木霊してきた。目を開けた一樹はあ
わてて周囲を見回してみる。誰もいない! 松林を渡る風の音
が微かに耳に響いてくるだけであった。目を閉じる。

「一樹さん!」
「一樹さん! 逢いたい!」

また純子の声が風の音に混じって届いてきた。
 ベルトの携帯電話をもどかしく取り上げ、メールに書かれて 
いた純子の電話番号を頭の中で反芻しながらキーを押し、耳に
押し当てる。呼び出し音と心臓の拍動が耳を襲ってくる。
二回、三回、純子は果たして受話器を取り上げてくれるだろう
か! 鼓動が激しくなってきた。五回目のコールでも純子は出
ない。
 接続を遮断して煙草に火をつける。上気した顔から汗が噴き
出してくるのが分かる。午後三時過ぎであった。リコールボタ
ンを押して電話機を再び耳に押し当て呼び出し音を確認する。
相変わらず心臓が踊っていた。


「はい・・・」
「・・・・・」
「もしもし・・・」
「小早川さんのお宅でしょうか?」
「はい、小早川ですが・・・・・」
「小早川純子さんですか?」
「はい・・・・・?」
「橋詰です・・・橋詰一樹です」
「えっ・・・・・」
「すみません、突然電話を差し上げまして・・・」
「・・・・・」
「ご迷惑だったでしょうか?
 ご迷惑でしたら切りますが・・・・・」
「あっ、切らないで下さい!」
「今、いつも来る山の中からかけています」
「はい・・・」
「どうしても貴女の声が聞きたくなってかけてしまいました」
「私も何度かそちらに電話をかけようとしてダイアルに指を
 かけました、でもできなかったんです」
「そうですか! 電話をかけて良かったんでしょうか?
 ご迷惑ではなかったんですね?」
「いいえ、迷惑だなんて、うれしいです」


 耳障りの良いやや早口の純子の声が受話器の中で飛び跳ねて
いた。初めて話をする相手のような気がしなかった。もう何度
も電話で話をし、気心の知れた友人と話をしているのと何一つ
変わらない会話のようであった。


「山の中と仰いましたけど、高い山ですか?」
「いいえ、四百メートルほどの山岳公園です」
「山岳公園?」
「瀬戸内海国立公園の中にある景色の良い山です」
「そうですか、じゃあ海が見えますね・・・」
「ええ、目の前に」
「暑くはありませんか?」
「いいえ、山の上はもう秋が来ていますから」
「もう秋ですか・・・・・」
「ええ、赤トンボが飛んでいます」
「まあ、懐かしい」
「そうでしょう・・・・・」


 ぎこちない会話であった。心の中ではすでに何度も何度も会
話を交わし、その声もその姿も熟知しているはずであった。
しかし実際には初めての会話であり、お互いの姿形はもちろん、
詳しい年齢さえも知らないままの電話での会話が続いていた。


とりとめのない話が続き、時間が性急に流れていった。

「純子さん!」
「はいっ?」
「お逢いできますか?」
「・・・はい、私も一樹さんにお目に掛かりたいと思っていま
 すし、ずっとお逢いしたいと思っていました」


 早い山の夕暮れが樹々の影を長く落とし、一樹の目の前の海
に浮かぶ雲が茜色に染まっていた。