第二章



(三)風 の 声
 定刻に空港を離陸したジェット機は、雲の上の青い空を切り 
裂いて順調に飛行を続けていた。琵琶湖を通り過ぎ名古屋の上
空であった。あと三十分の飛行で羽田に着く。狭いシートに深々
と沈み込んだ一樹は、眼下に広がる名古屋の街並みを見るとも
なく眺めていた。純子は羽田に来るであろうか? 漠然とした
不安がふと頭をかすめる。左前方に富士山が見え始める。ゆっ
くり下降を続けているジェット機の小さな窓一杯に焦げ茶色の
山肌をむき出しにした富士山が広がる。時間が恐ろしくゆっく
り、まるで止まってしまうのではないかと思えるほどゆっくり
流れていた。

 紺のサマースーツに身を包んだ一樹が到着ロビーに出てきた。
がっしりとした体格、やや長めにカットされた髪の毛、日焼け
した精悍な顔立ちの一樹は、ぞろぞろと出てくる他の乗客とは
全く遊離した空間を形作っていた。小型のアタッシュケースを
左手に、ゆっくりと辺りを見回している一樹の姿は、純子の想
像通りであった。コンコースの物陰に立ち、降りてくる乗客た
ちの中から一樹を捜し出していた純子が二、三歩前に出る。
十メートルほどの距離を置いて一樹が立っている。人の流れが
純子の姿を一樹から隠す。立ち止まったまま目線を下に落とし
ていた純子の前に誰かが止まる気配を感じ、目線を上げる。

「純子さん?」

一樹の声であった。微かなコロンの香りが純子の鼻孔に届いて
くる。優しい顔が純子を包んでいた。

「一樹さんですね!」
「ええ」
「お疲れになりませんでしたか?」
「いいえ、大丈夫です」
「早くからこちらに?」
「はい、三十分ぐらい前に・・・」
「そうですか・・・」


 純子の運転する紅い小型のメルセデスが高速道路を滑るよう
に走る。助手席の一樹にはどこをどう走っているのか見当もつ
かない。外に出ることが嫌いな一樹は、東京をほとんど知らな
い。何度か料金所を通り抜け、純子の車が太陽に向かって走り
続ける。東関道路を走っていた。都心の高速道路に比べ走行し
ている車両はぐっと少なくなっていた。ほとんど景色らしい景
色のない道を走り続けていた。成田空港へのインターチェンジ
を過ぎ、しばらく退屈な景色が続いたあと急に目の前が開けて
くる。「水郷潮来」の案内板が目に飛び込んできた。

 東関自動車道を降り水郷道路に入る。右手に湖のように満々
と水をたたえた外浪逆浦を見ながら二車線の有料道路を東進、
十分前後で料金所のゲートに。景色が急に街に変わる。
辺りを睥睨するように高いビルが一つだけそびえ立っていた。
ビルの裏にある駐車場にメルセデスが吸い込まれ、ほとんど車
の停まっていない広い駐車場の一角に停まった。


「お部屋をとってありますから、少しお休み下さい!」
「貴女は?」
「一度着替えてから、お昼をご一緒にと思っています」
「分かりました」


 クロークで名前を告げ、部屋のキーを受け取る。直ぐとなり
にあるエレベーターで十三階の部屋に直行する。広くもなく、
狭くもない、ベッドと応接椅子が置かれただけの簡素な部屋で
あった。
「橋詰様でいらっしゃいますか? お電話が入っております」 

 フロントからの電話であった。

「もしもし、橋詰ですが・・・」
「純子です。今ロビーにおります」
「はい」
「十四階にレストランがありますから、そこでお待ち下さいま
 せんか? 直ぐに参りますから・・・」
「分かりました」

 予約されていたテーブルに着き、窓外に目を移しながら胸の
ポケットから煙草を取り出し火をつける。

「お待たせしました!」

 純子の声が背中から届く。

 午後一時を回ったレストランは、一樹と純子だけであった。
朝食をとれなかった一樹は和牛ステーキのランチ、純子はメイ
ンディッシュに魚をしつらえたランチセットをオーダー。眼下
に広がる街並みからの音は完全に遮断され、ピアノの低い旋律
が心地よく耳に響いてくる。ゆっくり煙草を吸い続ける一樹と、
大きな瞳で真正面から一樹の全てを読みとるように見つめる純
子。運ばれてきた料理を手早い手つきで食べる一樹、上品なナ
イフ捌きで舌平目のムニエルを口に運ぶ純子! 二人だけの空
間が広いレストランの中に広がっていた。

「いかがですか、お味は?」
「ええ」
「遠いところをありがとうございました。お疲れになったでし
 ょう?」
「少し!」

 デザートとコーヒーがテーブルに並ぶ頃、ようやく気持ちが
解きほぐれたのであろう一樹と純子の会話が流れ出した。

「今日はご予定は何か?」
「四時過ぎには家に帰らないといけませんから」
「では、あまり時間がありませんね」
「すみません」
「貴女がいつも行く神社の森は近くですか?」
「ええ、このホテルからでしたら五分も掛かりません」
「では、そこへご案内下さい」
「はい」


 食事を済ませてホテルから出た二人は、丁度そのホテルの裏
手の方角にあるという神社を訪れることにした。およそ五分少々
で目指す神社の駐車場に着く。車から降りた二人が玉砂利を敷
き詰めた参道をゆっくり歩む。不意に純子が悪戯っぽく笑いな
がら話し掛けてきた。

「ねぇ一樹さん! 私たちを他の人が見たら夫婦だと思うでしょ
 うか!」
「えっ、・・・多分」

 純子の質問の意図が一樹にはもう一つ飲み込めなかった。い
つも純子が座るという社叢のベンチに腰を降ろし、初秋のたた
ずまいを見せている樹々を静かに眺める。煙草をくわえようと
した一樹に純子が不意に囁きかけた。

「明日朝九時にお部屋に参ります!」

 風が二人を優しく包み込んでいた。