20世紀の記憶
大仰な題名のわりに、これから語る内容はあまりにも卑近な話です。
1952年(昭和27年)に生まれ、今日まで約半世紀、詳しく記せば17359日(416616時間)の
暮らしの日々の思い出をつれづれなるままに書き残していきます。
<精霊流し>
ショウロウナガシ・・・と読みます。 といえば「さだまさし」ですが、
長崎の精霊流しがあんなにハデだとは思いませんでした。
歌のイメージに合わない。
といっても、それは土地土地の文化・・・詮ない話です。
高松の漁師町で育った私の思い浮かべる精霊流しは
わらで作った平べったい船(約1m*0.5m)に、ご先祖様に供えた果物他諸々をのせて、
夜、灯篭に灯をともし海に流します。
が!
今はその風習はありません。
私が故郷を離れているうちに、市当局から海が汚れるという理由で禁止されたそうです。
こんなのめちゃくちゃです。海を汚す原因はこんなものじゃないはずです。
情感にあふれた日本の風習をそんなに簡単に禁止していいのか<激プンプン>
<空からのチラシ>
子供のころ、空からチラシが降ってきていました。
チラシ? 今は新聞に折り込まれている広告宣伝媒体のことです。
戦争中は米軍が厭戦を呼びかけるために使っていたようですが、平和な時代になって
家具屋さんとかパチンコ屋さんが広告宣伝のためセスナ機を飛ばして
市内一円に、空からアナウンスすると共にチラシをバラまいていました。
私は、空を見上げながらチラシ集めに奔走していました。
楽しかった。
別に町内の清掃活動に奉仕していたわけではありません・・・念のため
今
こんなことをしようものなら、某市民団体が猛烈に抗議することでしょう。
<足踏みミシン>
昔のミシンは電動ではなく、人(足)力で動く工作器具でした。
知らない人に説明するのは難しい。
今度、写真を掲載しますので、それまで我慢してください。
我が家にはそのミシンあります。72歳の母の元で未だに現役やってます。
<卒業旅行>
昭和50年 大学卒業を前に友人とふたりで旅行に出かけました。
海外旅行なぞは、夢にもでてこない時代です。行き先は「雪の東北」、とにかく雪が見たかった。
ひなびた温泉地を求めて急行列車に揺られ、旅立ちました。
初め予定していた宿は雪に埋もれてスキーをはいて2〜3時間はかかると言われ
急遽、親切な駅員さんに紹介された「トロコ温泉」へ
バスの終着地で降ろされたものの、まわりは何もなし、銀世界のみ。
折り返し出発しようとするバスの運転手さんにあわてて尋ねたところ、坂(崖)を下りた谷底にあるという。
確かにありました。数十メートル下った川沿いに湯煙を上げた温泉宿が一軒。
崖をころがり落ちるように、そして雪まみれになってようやく宿にたどり着きました。
お風呂はひろびろ、料理は山菜づくし、裸電球の部屋
この卒業旅行で私の温泉宿の原風景が確立されました。
<お金の話>
20世紀の中頃、日本には100円札がありました。500円札もありました。
高度経済成長&インフレの中で、お札は消え去り、硬貨になりました。
いまでは、100円も500円も小銭になり果てました。
100円札の新券10枚を、大事に持っていましたが、引っ越しを繰り返すうちに
行方不明になりました。
この家のどこかに、必ずあるはずなのですが、探す気力がありません。
新券ですから、きっと今ではすごい値段がついているはず?です。
閑話休題
巷では、偽造コインが話題になっていますが、5000円札と5000ウォン札も一見よく似ています。
先日、なじみの焼鳥屋さんで、ちょっといたずら心をだした人が、5000ウォンをさりげなくだしたところ
すんなり、お釣りがかえってきました。
そのうち気がつくだろうと、たかをくくってお店を出たのですが、
その後、大変なことに・・・
は、ならなかったのですが、5000ウォン札はさらにお釣りとして、善意の第三者の手に。
善意の第三者は、その足でいつものスナックへ・・・そしてお勘定
スナックのママは見逃さなかった。
<間借り>
私の一人暮らしは、間借りから始まりました。
見た目は普通の一軒家、玄関を入り2階に上がると貸部屋が4部屋
四畳半に押入だけの部屋です。
小さな炊事場、共同便所(トイレとは言えない)
1階は大家さん夫婦が住んでいます。
玄関が一つということは当然、門限があります。
何時だったかな? 門限を越えたことがなかったので忘れてしまいました。
友人の一人は三畳の間借りでした。
人間が生活できる最低限の広さだと感じました。
いまの学生は、ワンルームマンションで優雅に暮らしている聞きますが、
若いときに世の中の「悲惨」を見聞・体験することは、とても大切なことだと思います。
<トイレ考>
日本人は有史以前(だと思う)からズーッとしゃがんできた。
これは日本固有の文化ではなかったのか。
数千年の歴史・文化がわずか半世紀ですっかり崩れ去ってしまった。
まさに劇的な変革だ。
変化の逐次を見てきた時代の証言者から一言
しゃがむ から すわる へ
そして日本人は、きっと、21世紀には立ち上がるに違いない。
<携帯電話>
最近の携帯電話の普及・改良には驚くばかりだ。
みるみる小型化され、多機能になり、電話の範疇を越えた携帯情報ツールと化しています。
利用者層も、どんどん若年化しています。
我が家の子供たち(高二&中三)にもとうとう、2000年から携帯電話を与えることになりました。
同世代の友人に相談したら「遅れてる〜」といわれてしまいました。
「そんなことないだろ〜」
我が家に電話が来たのは確か中学生の頃 黒いダイヤル式の電話でした。
それまでは、隣の親類の家から呼び出してもらっていました。
「呼び出し」なんて、ホント死語ですね。相撲の「呼び出し」じゃないですよ。
今の子供たちのダラダラ長電話に比べ、当時の電話での会話の簡潔だったこと。
<まんが世代>
私の生まれた1952年に「鉄腕アトム」の第一話が世に出た。
それ以前に「アトム大使」という作品があったようですが、
この年から「鉄腕アトム」と名を変えシリーズ化されました。
「鉄腕アトム」の登場と共に生まれ、手塚治虫先生の作品と共に育ちました。
というわけで、私のハンドルネームも「アトム」にしています。
・・・・・・・・貸本屋さんの時代を経て、まんが週刊誌の時代に・・・・・・・・
小学1年生の時に「少年マガジン」「少年サンデー」が、創刊されました。
限られたこづかいの中からでは、毎週買うことはできませんでしたが、友達との回し読みで何とか読んでいました。
貸本屋さん時代の思い出のまんがは「ロボット三等兵」
「マガジン」「サンデー」の時代は「鉄人28号」「おそ松くん」「ちかいの魔球」「紫電改のタカ」「オバケのQ太郎」
劇画にはどうにもなじめず、しばらくまんがから遠ざかった時期もありましたが、
社会人になってからまた復活
東海林さだお、いしいひさいち、西岸良平、サトウサンペイ、園山俊二、藤子不二雄
いまでも、コツコツと読んでいます。
きっと老後になっても読んでいるでしょうね。
<コーラ>
小学生の時に初めて叔父さんの家でコカ・コーラを飲んだ。
今はあまり見かけなくなった、ボトル入りでした。
少し飲んだだけで、酔っぱらった気分になりました。
中学生になって、部活の帰りによく飲んだのは「チェリオ」のグレープ
コーラより安くて、量が多かったから。
チェリオは、どこの製品だったのか?誰か教えてください。
・・・後日談・・・
チェリオまだあったんですね。皆さん、いろんな情報ありがとう。
<パソコン>
私とパソコンのつきあいは約10年
ホテルの購買部門を担当していて、ノートパソコンで料飲原価管理やってみようと思ったのがきっかけでした。
10年前、一大決心をして16ビットのノートを20万円で買いました。
表計算ソフトは、Lotus 123
ほとほと感心しました。 なんて優れものなのだろうか。
ときどき、ノートパソコンを撫でてやっていました。
以来、デスクワークはワープロと表計算ですべて片付けています。
我が家にパソコンがやってきたのは2年前。
富士通のデスクトップ。テレビも映ります。
20世紀を越えて、どういうつきあいになるのか、まだ分かりません。
でも、なんか凄いことになりそうです。
<戦争を知らない子供たち>
戦争が終わって、僕らは生まれた〜♪というフォークソングがありました。
20世紀は戦争(世界大戦)の世紀でもありますが、私は戦争の実際を知りません。
但し、両親・親族は戦争を経験していて、子供の頃、母からよく空襲の話など聞かされました。
叔父さんの何人かは戦死しています。
戦争で、手や足をなくした人たちも身近にいました。
戦後55年、次第に戦争を実体験として語れる人が少なくなりました。
戦争を知らない子供たちばかりの時代を迎えようとしています。
あの当時の「戦争を知らない子供たち」は今、自分の子供たちに平和の大切さを伝えられただろうか?
・・・自省・・・
<共産主義>
20世紀最大のマインドコントロールといわれた共産主義(マルクス・レーニン主義)。
どちらかというと体育会系の学生時代を過ごした私は、「右」も「左」も分かりませんでしたが
世の中の不条理に目覚めた友人の何人かは、すっかりハマっていました。
なかには某過激派に属し、成田闘争に参加。20数日間の拘置所暮らしを経験した者もいます。
青春やってたんだな・・・
今の私を支えるイデオロギーは、自由主義です。
従って、マイクロソフト社による市場独占には反対です。いくら優れた技術でも独占は次なる革新を阻みます。
自由競争を阻害する独占は、政治で喩えると独裁です。
独裁が国民を幸せにした例はありません。
<東京オリンピック>
小学6年生の時に東京オリンピックが開催された。
10月10日 秋晴れの国立競技場
ギリシャを先頭に始まった、一糸乱れぬ入場行進は子供心にも、鳥肌が立つ思いでした。
それにしても何で今の、行進はあんなにバラバラなんでしょう。
「東洋の魔女」「裸足のアベベ」「三宅兄弟」「鉄棒の小野」「小学生の鼓笛隊」
今でも数々の名場面が目に焼き付いています。
サッカーのワールドカップ以上に全国民が燃えていました。
<テレビの時代>
テレビが我が家にやってきた。この感動は、今の子供たちには決して味わえません。
小学4年生の時、待ちに待ったテレビが我が家にやってきました。
初めて映った番組は、「ディズニーワールド」※題名が正確に思い出せません。
とにかく興奮しました!
それまでは、近所の親類のうちにテレビを見に行っていました。
4本の細い脚で支えられた頼りなさそうな白黒テレビでしたが、房付きの立派な垂れ幕?が掛けられていました。
テレビを見る度にその垂れ幕を揚げ、見終わるとまたその幕を下げます。
あの日から我が家に「テレビの時代」がやってきました。
・・・・余談・・・・
私の携帯の着メロは「星に願いを」 以来毎週見た「ディズニーワールド」のテーマソングです。
<男女別海水浴場>
高松は海に面した街です。その市民の海水浴場が「大的場」。
わたしの記憶が正しければ・・・大的場は波止場を境に男女の泳ぐ浜が区別されていました。
そんなバカな! 風呂屋じゃあるまいし。
でもこれは事実です。幼き日の微かな思い出ですがそうなっていました。
<二番館>
映画全盛の時代、封切り(この言葉も死語か?)のみを上映する映画館と別に
二番館というのがありました。
要は封切り上映を終えた映画を2本立て、3本立てで上映する映画館のことです。
レンタルビデオのない時代でも、映画を映画として安価で楽しめました。
高校時代、授業をさぼって通った
薄汚くて、かびくさいくて、ちょっと不気味な、そんな二番館が好きでした。
<脱水用プレスローラー付洗濯機>
我が家の初めての洗濯機には脱水用のプレス機が付いていました。
円筒状のローラーの間に洗濯物を通し、ハンドルをグルグルと回すと洗濯物がスルメの様に出てきます。
これが面白くて、面白くて、ハンドルを回す手伝いをよくしていました。
洗濯機の前は、たらいと洗濯板でした。
昔の女性はほんとうによく働いていました。
<宇高連絡船>
高松は四国の玄関、そう10年前までは確かに本州からの玄関口は高松でした。
瀬戸大橋完成とともに消え去ったのが宇高連絡船です。
岡山・宇野と高松を1時間ほどで行き来した貨車・旅客船でした。
宇高連絡船の旅情は忘れがたいものです。
船上から望む高松はまさに港町・高松の風情があり、愛すべき我が街への思いを強くしました。
さぬきといえばうどん。 もちろん連絡船にもありました。
甲板上の立ち食いうどんは、故郷に帰ってきた実感をいち早く感じさせてくれました。
今年、しまなみ海道の開通で四国の玄関口は三つになりました。
便利にはなりましたが、さびしくなりました。
<人類、月へ行く>
この20世紀に人類は月へ行った。 17歳の時だった。
そして、翌年大阪万国博覧会で「月の石」を見た。