ブラームスの生涯

年譜(生涯)


1833 年(0歳)
5月7日、北ドイツのハンブルクにヨハネス・ブラームスは小さな楽団のコントラバス奏者であった父ヤーコプ(27歳)と母クリスティアーネ(44歳)の長男として生まれる。

1835年(2歳)
3月26日弟フリッツ生まれる。

1839年(6歳)
父から音楽の手ほどきを受ける。

1840年(7歳)
ハンブルクのすぐれたピアノ教師のコッセルに師事。

1843年(10歳)
父親の主催した室内楽演奏会にピアニストとして初めて出演。ハンブルク第1の音楽家であって、作曲家でピアニストのマルクスゼンに師事。マルクスゼンの教えはバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの研究から始まり、複雑で正確なリズム感を養い、技巧を根本的に確実にすることに重点をおいたもので、時には苛酷でさえもあった。ブラームスがバッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ショパンなどの先輩作曲家の本当の価値を知り、尊敬するようになったのも、この先生の教育のおかげであった。

1844年(11歳)
中学校に相当するホフマンの学校に入学、ラテン語フランス語等を学ぶ。

1845年(12歳)
マルクスゼンから本格的に作曲の指導を受ける。

1846年(13歳)
家計を助けるために、酒場、料理店、ダンスホールなどで、主として船員のために演奏するようになる。

1847年(14歳)
夏ハンブルクから少し離れたヴィンゼンに滞在。村の男性合唱団の指導をし、初めて指揮をする。

1848年(15歳)
3月11日ハンブルクのフィルハーモニー演奏会でヨアヒムの演奏を聴き感激する。 9月21日初の演奏会を開催、賞賛される。前年に続き夏はヴィンゼンで合唱指導。

1849年(16歳)
4月14日第2会演奏会を開催。演奏活動よりも創作活動に興味を感じ、作曲家を志すようになる。

1850年(17歳)
3月16日ハンブルクのフィルハーモニー演奏会でロベルト・シューマンの指揮、クララ・シューマンのピアノを聴き感激して、自作の小品をいくつかシューマンのもとに送るが、多忙なシューマンからは包みの封も切らずに送り返される。
ハンガリーの亡命ヴァイオリニスト、レメーニと知り合う。

1851年(18歳)
自己批判から作品を破棄しはじめる。スケルツォ作品4 完成。

1852年(19歳)
ピアノソナタ第2番作品2完成。

1853年(20歳)
4月29日レメーニと演奏旅行に出発。ある演奏会場のピアノが半音低く調律されていたが、ブラームスは演奏の時に半音上げてピアノを演奏し、ヴァイオリンと合わせるという並みはずれた才能を発揮。5月末レメーニを介して後の大親友となるヴァイオリニスト、ヨアヒムと知り合う。6月ワイマールのリストを訪問、しかしリストの新ドイツ学派(ベルリオーズの作品に起源を発し、調性の拘束からある程度脱却する傾向にあり、音楽形式が詩的想念の内容に支配されるべきことを特に要求した)はブラームスにとっては内容空虚な無価値なものに思えた。ワイマールを去り、ヨアヒムが休暇を過ごしていたゲッティンゲンを訪れ、大学で歴史と哲学の講義を二人で聴く。9月30日ヨアヒムの勧めによりデュッセルドルフのシューマン夫妻を訪問。自作のピアノソナタ第1番作品1その他を演奏し大変深い感動をあたえ、シューマンは自らが20年前に創刊した音楽評論誌「音楽新報」(10月28日付)に久しぶりに投稿、「新しき道(Neue Bahnen)」と題して天才が現れたことを世の中に知らせた。
 「・・・彼は、これこそ神がつかわした天才の人であることを我々に告げる風貌をすべて備えている。今後、彼が自分の魔法の杖を合唱やオーケストラにおいて、それを駆使するならば、我々の前にはもっと素晴らしい光景が現れるであろう。そこに至るまで、彼を守護神が力づけることを願うものであるが、その希望はすでにある。というのは、彼にはもう一つの守護神、すなわち謙虚さというものが宿っているからである。彼の同世代の仲間である我々には、彼が踏み出す世界への第一歩にあたって、歓迎の挨拶を述べるものである。・・・」
11月シューマンの推薦でライプツィヒの出版社ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社と契約を結ぶ。 ピアノソナタ第1番作品1、ピアノソナタ第3番作品5完成。
1854年(21歳)
1月ピアニストで後、大指揮者となりブラームスの音楽を広めるのに大いに力をつくしたビューローと知り合う。2月27日シューマンがライン川に投身自殺をはかる。自殺未遂に際してシューマン家(シューマンには当時は6人子供がいたが、クララは身ごもであったため後1人増え7人の子供)の面倒を見るうちにシューマンの妻クララ(35歳)と親しくなり、以降、クララが亡くなるまで深い友情で結ばれる。ピアノ三重奏曲第1番作品8、シューマンの主題による変奏曲作品9 、バラード作品10完成。

1855年(22歳)
デュッセルドルフに住む。ウィーンの音楽評論家で後ブラームスの熱狂的な支持者となったハンスリック、バリトン歌手シュトックハウゼン(ブラームスは彼のために多くの歌を作曲した。)を知る。本格的に演奏活動を開始する。

1856年(23歳)
7月29日シューマン没。詩人で後ブラームスのよき話し相手となったグロートと知り合う。10月ハンブルクに戻る。

1857年(24歳)
9月末デトモルトの宮廷に初めて定職を得る。

1858年(25歳)
夏ゲッティンゲンで過ごし美声のソプラノ歌手アガーテ・フォン・ジーボルトと熱烈な恋に落ちる。彼女への愛はブラームスの生涯で最も真剣なもので、2人はひそかに婚約指輪も交わしていた。秋はデトモルトで勤務。セレナード第1番作品11、ピアノ協奏曲第1番作品15完成。

1859年(26歳)
ピアノ協奏曲第1番作品15初演、失敗に終わる。アガーテに「愛しているが、束縛されるのは好まない」という煮えきらない手紙を書き、自尊心を傷つけられたアガーテは悩んだ末に、ブラームスとの婚約を破棄する。3月よりハンブルク女性合唱団の指導を始める。秋はデトモルトで勤務。セレナード第2番作品16、マリアの歌作品22完成。

1860年(27歳)
新ドイツ楽派(ワイマールのリストを中心とする新ドイツロマン主義の人々)に対する宣言文に署名する。夏はクララとヨアヒムとともにライン旅行。ハンブルク女性合唱団の指導も行う。女性合唱曲作品17、弦楽六重奏曲第1番作品18、2つのモテット作品29完成。

1861年(28歳)
ハンブルク郊外の町ハムで過ごす。ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ作品24、ピアノ四重奏曲第1番作品25、ピアノ四重奏曲第2番作品26完成。

1862年(29歳)
ウィーンに初めて旅行、9月ウィーンに生活の本拠をおく。11月29日ウィーンで初の演奏会を開く。

1863年(30歳)
1月6日ウィーンでの演奏会で評論界の大御所ハンスリックに決定的に高く評価される。5月にハンブルクに戻る。9月から無伴奏合唱を主体とするウィーン・ジングアカデミーの指揮者に就任。パガニーニの主題による変奏曲作品35完成。

1864年(31歳)
4月にウィーン・ジングアカデミーの指揮者を辞任。6月にハンブルクに帰る。夏はバーデン・バーデンで過ごす。10月にウィーンに戻り、ワーグナー、ヨハン・シュトラウスと会う。ピアノ五重奏曲作品34完成。

1865年(32歳)
2月2日母クリスティアーネ没。10月までバーデン・バーデンの近くのリヒテンタールに住む。秋から冬は演奏旅行を行う。外科医で後にウィーンで室内楽を一緒に楽しんだビルロートと知り合う。弦楽六重奏曲第2番作品36、チェロ・ソナタ第1番作品38、 ワルツ集作品39、ホルン三重奏曲作品40完成。

1866年(33歳)
3月父ヤーコプ再婚。カールスルーエ、ヴィンタートゥール、チューリヒ滞在。スイスに演奏旅行後ウィーンに帰る。ドイツ・レクイエムの大部分完成。

1867年(34歳)
オーストリアとハンガリーに演奏旅行を行う。12月1日にドイツ・レクイエム一部初演される

1868年(35歳)
デンマークへ演奏旅行。4月10日ブレーメンで第五楽章を除いたドイツ・レクイエム作品45全曲初演、大成功を収め、ブラームスの名は大家として通るようになりはじめる。夏はボンで過ごす。カンタータ リナルド作品50 、ハンガリア舞曲第1・2集完成。

1869年(36歳)
バーデン・バーデンでシューマンの三女ユーリエ・シューマンに失恋。マゲローネのロマンス作品33、愛の歌作品52、アルト・ラプソディ作品53完成。

1870年(37歳)
普仏戦争勃発。ミュンヘンでワーグナーの「ラインの黄金」と「ワルキューレ」を見る。

1871年(38歳)
熱い愛国心を持っていたため普仏戦争でのプロイセンの勝利を喜び、この年の秋から翌年の夏にかけて壮大な 勝利の歌作品55を作曲し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム一世に捧げる。年末にウィーンのカールスガッセに落ち着く。運命の歌作品54完成。

1872年(39歳)
2月11日肝臓癌のため父ヤーコプ没。夏はバーデン・バーデンで過ごす。秋にウィーン楽友協会芸術監督に就任。

1873年(40歳)
ウィーンで指揮活動。夏はミュンヘン近くの湖畔にあるトゥッツィングで過ごす。弦楽四重奏曲第1番作品51-1、弦楽四重奏曲第2番作品51-2、ハイドンの主題による変奏曲作品56完成。

1874年(41歳)
1月末ライプツィヒで数回の演奏会を行い、ヘルツォーゲンベルク夫妻と再会、友情を深める。ワルツ愛の歌作品52a完成。

1875年(42歳)
4月にウィーン楽友協会芸術監督を辞任。夏はハイデルベルク近くのネッカー川ほとりのツィーゲルハウゼンで第1交響曲の作曲に集中する。ピアノ四重奏曲第3番作品60、弦楽四重奏曲第3番作品67完成。

1876年(43歳)
オランダ旅行。夏はバルト海リューゲン島の静かな海岸町ザスニックで過ごし第1交響曲の作曲に再び集中、9月リヒテンタールでようやく完成。11月4日カールスルーエで第1交響曲作品68初演、大成功を収める。

1877年(44歳)
夏は南オーストリアのアルプスの山に囲まれたヴェルター湖畔の風光明媚な村ペルチャッハで過ごし第2交響曲の作曲に着手、10月リヒテンタールで完成。12月30日ウィーンで第2交響曲作品73初演。この第2交響曲は重厚な第1交響曲とは違い陽気で明るくウィーン人の気質に合ったのか熱狂的に受け入れられた。2つのモテット作品74完成。

1878年(45歳)
4月ビルロートとともに初めてイタリアへ旅行。夏はペルチャッハで過ごす。秋にハンブルク音楽祭出席。8つのピアノ曲作品76、ヴァイオリン協奏曲作品77完成。このヴァイオリン協奏曲と翌年完成したヴァイオリン・ソナタは牧歌的、田園的傾向が強いのは風光明媚な村ペルチャッハの雰囲気とイタリア旅行の印象がおりこまれていると思われる。

1879年(46歳)
夏はペルチャッハで過ごす。ブレスラウ大学から名誉博士号を授与され、お礼に翌年大学祝典序曲作品80を贈る。ヴァイオリン・ソナタ第1番作品78、2つのラプソディー作品79完成。

1880年(47歳)
5月ボンのシューマン記念祭に出席。夏はウィーンから西へ少し離れた鉱泉のでる保養地バート・イシュルで過ごす。12月ヨアヒムの妻アマーリエに対する嫉妬と誤解のためベルリンでヨアヒムと絶交状態になる。悲劇的序曲作品81、ハンガリア舞曲第3・4集完成。

1881年(48歳)
1月にブレスラウ、オランダ2月にハンガリー、3月には第2回イタリア旅行をする。夏はウィーン郊外の美しい村プレスバウムで作曲に専念し、哀悼歌作品82、ピアノ協奏曲第2番作品83完成。秋にはマイニンゲンを訪問。

1882年(49歳)
ピアニスト兼指揮者ビューローとともにマイニンゲン管弦楽団を率いて演奏旅行。ビューローには、ブラームスの音楽を理解させるのに熱心なあまり、演奏会の始まる前とか休憩の後などに、演説をする習慣があった。ブラームスをバッハとベートーヴエンとともにドイツ三大Bの一人に数えたり、ブラームスの第1、第2交響曲をベートーヴエンの第9交響曲に続く第10、第11と呼んだりするような有名な言葉も、この演説で作り出した。リストと再会。夏はバート・イシュルで過ごす。秋は第3回イタリア旅行をする。ピアノ三重奏曲第2番作品87、弦楽五重奏曲第1番作品88、運命の女神の歌作品89完成。

1883年(50歳)
夏はヴィースバーデンで過ごし第3交響曲作品90を完成。コントラアルト歌手のシュピース(当時16歳)と知り合い親しく交際するようになる。12月2日ウィーンで第3交響曲初演。この初演に対しワーグナー派の人達はあらゆる手段を使って妨害しようとした。しかし演奏が終わってみると、この曲への支持の拍手が圧倒的に多かった。

1884年(51歳)
北イタリア滞在後、夏はウィーンの南西ミュルツツーシュラークで過ごす。アルトのための2つの歌作品91 完成。

1885年(52歳)
夏はミュルツツーシュラークで過ごし第4交響曲の作曲に没頭、秋はマイニンゲンを訪問。ビューローは自分の指揮する演奏会をブラームスに邪魔されたと勘違いし仲たがいする。10月25日マイニンゲンで第4交響曲作品98を初演。

1886年(53歳)
1月17日第4交響曲ウィーン初演、2月1日ベルリン初演、2月18日ライプツィヒ初演される。ウィーン初演は、この交響曲が独特なためウィーンの人達にはまだ身近に感じられず大成功とは言えなかったが、ベルリンやライプツィヒでは高評であった。夏はスイスのトゥーン湖畔のトゥーンで過ごす。11月弟フリッツ没。チェロ・ソナタ第2番作品99、ヴァイオリン・ソナタ第2番作品100、ピアノ三重奏曲第3番作品101完成。

1887年(54歳)
1月プロイセンから功労勲章授与される。春第5回イタリア旅行をし、夏はトゥーンで過ごす。ビューローと和解する。ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲作品102完成。この二重協奏曲は、ヨアヒムとの不和を幾分とも解決したと言うことで、交響曲として着想されたものを協奏曲に改めたものだった。作曲に当たって、ヨアヒムとその四重奏団のメンバーのすぐれたチェロ奏者のハウスマンに何度も意見を求め作り上げ、ブラームスとヨアヒムとの関係はかなりよりを戻した。クララはこの二重協奏曲を「和解の協奏曲」と呼んだ。

1888年(55歳)
ライプツィヒでチャイコフスキーとグリーグに会う。春第6回イタリア旅行、夏はトゥーンで過ごす。ジプシーの歌作品103、 ヴァイオリン・ソナタ第3番作品108完成。

1889年(56歳)
春第7回イタリア旅行、夏はバート・イシュルで過ごす。ワルツ王ヨハン・シュトラウスと交際。レオポルト勲章、ハンブルク名誉市民権を授与される。この年が自作品の演奏活動に精を出した最後の年となった。祭典と記念の格言作品109、3つのモテット作品110 完成。

1890年(57歳)
春第8回イタリア旅行、夏はバート・イシュルで過ごし、弦楽五重奏曲第2番作品111に着手。当初この曲を交響曲として構想したが五重奏曲に変更し、全精力を費やして書き上げたものの、これまでのように順調に進まなかった。ブラームスはもうこの曲で大曲の創作を打切り、これまで手がけたものや小品の整理をしようと考えた。その頃、親友のマンディチェフスキーにあてた手紙につぎの有名な言葉を書いた。
「私は、最近、交響曲も含めてその他いろいろのものに着手しましたが、どれも具合よく進まなかった。私は、もう年をとりすぎたと思うし、精力的には何も書かないと決心した。私は、自分の生涯が十分勤勉なもので、十分に達成されたと思ったし、人に迷惑をかけない年齢となり、いまや平和に楽しむことができると考えた。」
そして遺言書の準備考え始める。

1891年(58歳)
3月マイニンゲンですぐれたクラリネットの奏者ミュールフェルトを知る。5月遺言書を本格的に起草し、8月に親友で作品の大部分の出版を行い、財産管理人でもあったジムロックに送った。夏はバート・イシュルで過ごし、ミュールフェルトのためのクラリネット三重奏曲作品114、クラリネット五重奏曲作品115完成。シューマンの第4交響曲出版の件でクララと誤解を生じる。

1892年(59歳)
1月7日作曲の助言をよく聞いた親友のヘルツォーゲンベルク夫人没。6月11日姉エリーゼ没。変更を加えるため遺言書ジムロックよりとりもどす。夏はバート・イシュルで過ごし、7つの幻想曲作品116、3つの間奏曲作品117、6つのピアノ曲作品118、4つのピアノ曲作品119完成。これらのピアノの小品をブラームスは「自分の苦悩の子守歌」と呼ぶ。秋から年末にかけてクララと和解する。

1893年(60歳)
2月26日親しく交際していたシュピース没。4月第9回で最後のイタリア旅行、夏はバート・イシュルで過ごし、仕事の整理に集中する。

1894年(61歳)
2月6日親しかった外科医でウィーン大学教授のビルロート没。夏はバート・イシュルで過ごし、ミュールフェルトから依頼を受けスケッチができていた2曲のクラリネット・ソナタ作品120を完成させる。これが最後の室内楽曲となる。

1895年(62歳)
3月18日ウィーンで楽友協会音楽院の五十周年祝賀演奏会のために、大学祝典序曲を指揮。これがブラームスのウィーンでの最後の指揮となる。5月オーストリアのフランツ・ヨーゼフ皇帝から、「芸術と科学に対する」金の大勲章を授与される。夏はバート・イシュルで過ごす。

1896年(63歳)
1月10日ベルリンで、大学祝典序曲と2曲のピアノ協奏曲を指揮。これがブラームスの最後の指揮となる。3月26日クララ脳卒中を起こして倒れる。5月7日クララに対する憂慮と死の予感から作曲の準備が始められていた4つの厳粛な歌作品121完成。5月20日クララ・シューマン没。夏はバート・イシュルで過ごし、オルガン用11のコラール前奏曲作品122完成、これが最後の作品となる。夏頃より疲れた様子をみせ、発病(肝臓癌)。鉱泉飲用療法のためカールスバートに滞在。10月ウィーンに戻る。ウィーンに戻ったブラームスは、ひどくやせて色つやも失い、体力も衰え、12月頃には、自分の病気は死に至るものということを自覚する。

1897年(64歳)
2月7日フェリンガー博士を財産管理人に決め、遺言書を作成。3月7日ハンス・リヒターが指揮するフィルハーモニーの演奏会で第4交響曲を聴く。この演奏会で、聴衆はやつれたブラームスの姿を見て、心配、同情し、愛情と敬意とで各楽章の終わるごとに激しい拍手をした。全曲が終わったときには聴衆と演奏者が共に手を振り、叫び、感涙にむせんだ。これが自作を公開演奏会で聴く最後となる。3月24日ヨアヒムに手紙を書く。「私はますますみじめなものになって来ました。どの言葉も、語るのも書くのも、私にとっては犠牲です。」3月26日もはや床を離れることができなくなる。 4月に入り病状が進み、昏睡状態が多くなる。4月3日午前8時30分永眠。4月6日午後、過去の多くの楽聖たちが眠るウィーン中央墓地に埋葬される。


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