自分史
名:信(マコト)
【歴史】950年高松市上笠居村(現在の鬼無町鬼無、母の里は高松市松島町)に生まれる。父は巽。巽の父は晋平、晋平の父は四宮(明治元年に鬼無と姓を改称)甚三郎号は半山(はんざん)および南郷(南郷)。半山は天保5年鬼無権現の神官の家に生まれた。農学者(観賞植物栽培、害虫学)、教育者(第1回上笠居尋常小学校長)、書家、画家、科学者(測量学、地質学)明治40年70才で他界した。明治元年に鬼無の姓を名乗る以前は鬼無佐料四宮の姓を名乗っていた(上笠居村史参照)。清和天皇の流れをくむ源氏の家系でありながら家紋は平家に近い。宗教は浄土真宗東本願寺派の家系で家紋は三亀甲に花菱の紋(これはどちらかといえば平家の紋に近いと私は思っている。毎年宮島の大祭でこの亀甲紋が登場する)である。しかし我が鬼無家のル−ツを探ると意外な事実が判明する。家紋に似合わず我らの先祖は経基公すなわち清和天皇の流れをくむ源氏である。亀甲紋に丸がつくとそれは後々に無念を晴らすための偽りの従属をしめす紋となるのかとも考えている。鬼無の鬼無たるルーツは鬼無城にある。鬼無には古くからヒトが生息し今岡古墳群からは貴重な資料が出土している。鬼無城は讃岐の東部に君臨していた香西氏の出城であり室町時代に鬼無兵庫(香西兵庫ともいう)がこの城を護っていたと言われる。元亀、天正(1570-1592)年間の勝賀城と鬼無城の図会が香西寺に残っている。香西寺には埋蔵金に関する伝説もあり鬼無の地に金の茶釜が眠っているかもしれない。その数年後にこれらの城は焼き払われている。豊臣方の四国の雄であった長宗我部元親(1529-1599)にこれらの城は攻撃を受け、四国は豊臣方で土佐の長宗我部によって平定されたと考えられる。城を焼き払われた鬼無兵庫ら一党は山頂の城を逃れ麓の山辺の地に姓を四宮に変え代代鬼無権現(現桃太郎神社)と関連を持って武士を捨て農民、神官としてひっそりとその地を開墾し生計を立てたと考えられる。 鬼無駅に桃太郎電鉄の桃太郎の石像が寄贈された  この歴史と下記の上笠居村史から得られる鬼無家の家系図の接点がどこにあるかはいまだ検討中の興味ある課題である。岡山と鬼無は密接な関連を保ちながら鬼無は歴史を刻んできたともいえる。 鬼無(四宮)甚三郎の父は宇右門、その父は四宮弁慶、その父は四宮彦右門、その父は四宮甚三年、その父は四宮甚三郎、その父は香西郡山辺の郷に住み郷頭となった四宮甚右衛門元信、その父は享保三年香西郡奈尾島(直島)に来落し八十石を領した四宮三右衛門清幸、その父は享保元年備中児島に来落し四宮明神を造営し神主であった初代四宮宮内小輔正五位ノ下清長、その父は四宮若狭守照長従五位下、その父は誤り事ありて五万石を取り上げられのちに六万石になった四宮大膳介元兼、その父は四宮兵部小輔元秀正五位上、その父は四宮主殿正元長従四位下、その父は四宮主水丞照久、その父は大倉隼人なる謀反人を討伐したことにより加増となり十四万石を拝し備中赤坂郡守護職にあった四宮権ノ守元房、その父は第十七代四宮近衛丞元治、その父は第十六代四宮越中守元盛従四位下、その父は第十五代四宮大和守元照従四位下、その父は第十四代四宮大和守元晴従四位下、その父は四宮一品親王に加勢し功をなし四宮なる姓を親王より賜り備中の国都宇郡松嶋村に築城し十一万石を封せられ大和守従四位下を叙せられた第十三代四宮太郎兵衛丞元勝、その父は井沢五郎大膳大夫、その父は板垣次郎忠頼、その父は板垣太郎兵衛信義、その父は新羅刑部三郎義清、その父は新羅三郎義光、その父は源頼義、その父は源頼信、その父は源満中、その父は源家の元祖なる経基公六孫王、その父は清和天皇第六皇子桃園親王なる貞純親王、その父は清和天皇(皇室第五十六代なる)。家系図は鬼無家の本家および四宮家の本家にある。 桃太郎の伝説は岡山が本当であろう。鬼無という姓は四宮甚三郎半山が明治維新に昔功績のあった先祖を懐かしみ四宮姓を改姓したのに違いない。
無家は故に歴史が新しい。論理を飛躍して考えれば物語になっている桃太郎は鬼無家の本家四宮家第十三代四宮太郎兵衛丞元勝のことではなかったのだろうか。太郎は四宮一品親王に加勢し親王に反逆せし者達を征伐したことにより功を認められ四宮なる姓を親王より賜り、備中の国都宇郡松嶋村に築城し十一万石を封せられ大和守従四位下を叙せられた。桃の国備前(岡山)において勝利を得た太郎さん、すなわち桃太郎である。岡山ではこの地の南西に吉備都彦(桃太郎)神社がありその北西に小田郡美星町鬼が岳がある。四宮一品親王に反逆する鬼退治が太郎によって行われたのだろう。 JR宇野腺の彦崎駅の南東の蟻峰山の北麓に熊野神社がある。これがさきほどの我々の先祖である、享保元年備中児島に来落し四宮明神を造営し神主となった初代四宮宮内小輔正五位ノ下清長縁の権現であると思われる。 直島の西方に宮の浦があり漁港やフェリーの寄港地となっているが、この宮の浦の指す「宮」が享保三年香西郡奈尾島(直島)に来落し八十石を領した四宮三右衛門清幸縁の宮であると私は推測している。我々の先祖はさらに南下し、江戸時代香西(笠居)郡山辺の郷に住み郷頭となった四宮甚右衛門元信が鬼無の里をさらに開墾したと考えられる。故に鬼無という地名はやはり岡山からもたらされたいえるであろう。
和25年3月から昭和29年まで父の実家である鬼無町山辺(やまべり)に住んだ。これは鬼無家の南はしにある離れでこの離れの横に雷のよく落ちた大きな松の木があった。私の叔父は鬼無家の伝統にもれず頑固一徹で当時の国鉄職員で体がやや弱く小さかったせいか戦争の召集にも免れ退職直前には支社長のすぐ下にランクされる部長になっていた。キナシ大林病院の3代前までは大林和漢洋医院は鬼無家の敷地内にあった。昔、ここに通っていた事を覚えている老人も最近めっきり減った。 叔父の家の離れで遊んでいた2才頃の時、私は蒔き割りと蒔きを使って遊んでいたが、誤って自分の左中指を蒔き割りで叩いてしまった。少し出血した。その出血をみた私は母のところに発作的に走った。そこで一次性ショックを起こして失神してしまった。失神した私を電気屋のおじさんがオートバイで大林医院まで運んでくれた。 一次性ショックはよく起こした。大林医院先生が予防注射をしていたときのことである。閉め切った部屋でよどんだ空気の部屋の影響もあって私はまたしても一次性ショックを起こして倒れてしまった。倒れた私を大林先生は私の家まで小豆色のくるまで送ってくれた。しかし51才にして急の病にて死亡した。父巽と先生は従兄弟同士であったため、彼らはかなり昵懇にしていたようだ。 戦時中、彼らは善通寺にいた。父は憲兵、先生は軍医で鬼無に診療所を残して単身赴任していた。だから休日には氏は鬼無の留守宅の診療所に患者を多数待たしておきその日に駆けつけて漢方薬などの薬を渡して地域医療に尽くしたという巽の話である。当時の氏は毎朝鬼無夫妻の新居に邪魔しては朝のトイレ(大便)を出して行くのが習慣になっていた。それが許されるほどの思慮深さとおおらかさと人格を備えていた。父にも外地赴任の話が3度あったようである。その3度とも父は氏に診断書を書いてもらって海外赴任を免れていた。海外の憲兵職といえば多数の殺戮による罪のため終戦後に行われた東京裁判ではA級戦犯死刑が多かったように思う。父はそこまで察して外地への赴任をかたくなに嫌っていたのかも知れない。
が4才の頃に離れから鬼無町是竹の建坪10坪程度の小さな市営住宅に転居した。この住宅では最初に風呂がなく、そのため一日おきに香西の八幡宮の南西にある大衆風呂屋に風呂に入りに行っていた。4才のある日私は女風呂の中で風呂の湯に溺れてしまった。誰か知らない女のおばさんが「私の足に何か当たる」といって私を見つけ引き上げてくれた。私は生命力が強くすぐに息を吹き替えした。沈んだ原因は手についた石鹸と4才の身長には深すぎる湯船と母親の不注意であった。自分の不注意もあったのはいうまでもない。 当時の住まいは赤いスレート煉瓦の六畳座敷と四畳半のたった2間であった。東北に台所があり例のごとくおくどさんがありはがまで飯が炊けるようになっっていた。しかし多くの焼き物や煮物は屋外で七輪で消し炭でためておいた炭を使って団扇であおいで火を熾し、40円の塩鯖などを焼いて分けて食べたりした。あとで父が自分で塀を作り役所へ通う自転車などを格納した。後のそこに風呂ができさらに台所がその部に移転した。しかし屋根は相変わらずの波打ったブリキの屋根であった。 昭和30年4月に香川郡上笠居村幼稚園に入園した。受け持ちは堀先生と白井先生であったと思うが正確ではない。道のいきかえりに傘に小便を引っかけられたりうわっぱり(方言でわっぱり=上着のこと)を鋏で切られたりした。幼稚園の園舎は小学校の校舎の北西に位置し砂場と鉄棒と斜めのコンクリートのスロープが記憶にある。
和31年3月香川郡上笠居幼稚園卒業 昭和31年4月香川郡上笠居小学校入学した。一年生の時は東中西にわかれ二年生からは赤白青の3組であった。小学校一年から三年までの担任は同じ町の是竹の習字のうまい先生であった。小学校四年から五年までは三野先生、小学校六年生は高橋先生であった。小学校四年生の時に父が中古の緑色の子供用自転車を買ってくれた。後輪スポークに当たるところに針金を当ててバリバリという音をたてて楽しんでいた。 小学校の通学中に家の前の県道が舗装され国道11号線へと変わった。ローラー車とかブルドーザー車がいやに学校の行き帰りに目についた。舗装前までは植木鉢を市内まで売りにいく馬車に鞄を乗せて後ろについて帰った。その場車が立ち止まったと思ったら大きなジャーという音とともに馬の小便がみられ、ボトボトという音とともに馬の大便がみられた。 小学校二年性で二年西組の教室みんなで高松港という工作をして高松市の展覧会に出し金賞になり栗林公園の中にあった市の美術館に飾られていた。高松市の美術館は中央通りと丸亀町通りの美術館通りへと移転してしまった。 母の実家にはときどきいった。琴電今橋駅または松島二丁目で降りると二駅の中間の線路沿いに祖母はいた。祖母は糖尿病で京都でなくなった。孫の福家純一郎と同居していた。
小学校時代の思い出として私は次のような作文を残している。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・二次大戦終戦後に生まれた我々は『ベビ−ブーム』という競争の激しいきびしい条件下で昭和三十一年上笠居小学校に入学した。学校は木造の校舎であり現在西部農協の敷地にあった。東正門に『二宮尊徳像』があり『渡り廊下』の右に中学校、小学校の校舎、左に体育館があった。敷地の西北の端に幼稚園もあり鬼無の文化の中心であった。在校中にいろいろな変化があった。『上笠居小学校』が『鬼無小学校』、授業開始の『ベル』が『チャイム』、『東、中、西組』が『赤、白、青組』、『脱脂粉乳ミルク給食』が『完全給食』となった。給食費は一カ月三五〇円であった。親に迷惑をかけないため早朝に登校し『朝礼』まで運動場にやかんで線を描き『ドッジボール』や『ガイセン』遊びをした。やかんは『用務員室の大きな茶釜』の茶を教室に運ぶのにも用いられた。放課後も遊び帰宅した。未舗装道(現在の高松丸亀線)を徒歩で通学したが御厩から鉢を運ぶ馬車の後ろに乗りよく叱られた。しかし道は季節の花が咲き『馬の糞』が落ち楽しい道であった。夏に芝山海水浴場に歩いて出かけ帰りの店で『バクダン』なる瓢箪氷菓子を購入し冷やしながら帰った。六年生の一泊二日の『高知修学旅行』では母親に『百円札』を服の裏に縫いつけてもらい『二合の米』を携え蒸気機関車に乗り『トンネルの数』を数えた。この時期に予讃線がディーゼル化され私は『社会科列車』という名目で学年代表で鬼無から観音寺まで『ただ』で汽車に乗せていただき寛永通寶で弁当を食べた。授業はさぼれたし一挙両得であった。担任は『中西シズ子先生』『三野寿夫先生』『高橋孝三先生』。必死に働く親に迷惑をかけずに、学び、遊ぶ、時代であった・・・・・