日常診療における付加価値とは? 「だいじょうぶ」といって本当に大丈夫?
私は、とある病院の内科医である。免許のあるブラック・ジャックなら、無言でオペをして患者さんという顧客に治癒という高い満足度をさしあげることができるが、私にはそんな技術はないし経験がない。内科医としては、ついつい処方とムンテラという手段に頼らざるを得ない。患者さんにとって「大丈夫」という一言の保障は、これが真実であれば、かけがえのない安心である。
「先生、大丈夫でしょうか」と患者さんが聞く。
「大丈夫です。よくなります。この薬で様子を見ましょう」と安易に答えていることが私の場合は多いのである。いや、ほとんどのケースでといってよいだろう。
この場合、患者さんとの本当の応答と心理合戦は次のようである。
「先生、大丈夫でしょうか?私は先生から大丈夫という言葉を引き出して、安心という保障を得たいのですが?せっかく初診料も払うのだし、ちょっと待たされたしねえ・・・でも、この先生、大丈夫かなあ。偽医者ではなさそうだけど、あまり勉強しているようにみえないぞ、ちょっと不安」
「大丈夫です。いや大丈夫でしょう。大丈夫かもしれない。自信がないけれど、この患者さんをほかに診察している医者がいないので、大丈夫じゃないかもしれないけれど、大丈夫といっておいたほうがよいだろう。・・・よくならないかもしれないけれど、よくなりますと言っておいたほうがよいだろう。この薬がこの患者さんには合うかどうか不安だが、一応、経験上から出してみよう。この薬で様子を見ましょう。こういっておけばまずクレームのつくことはないだろう」
日常診療では、こういうやりとりで、ODS(お客様・第一・主義)、CS(顧客満足)の代わりにしているのだから、医療に信頼関係の大事さがわかる一場面ではある。
昔の日本医師会雑誌に下記のような教訓を発見した。
【患者は実は眼の前にいる医師がどれほどの医学知識と技術を持っているのかを見抜いているわけではない。にもかかわらず無防備、無抵抗の状態で接し生命までもあずけるほどの医療を乞うのは患者自信それほど意識していなくても、いろんな階層の人と接してきているだけに、眼の前にいる医師の態度表情言葉づかい服装などからその医師の人格(人柄・品性)だけは見抜き、『この医師ならば・・・』と信頼してこそであろう。ならばこそ『医師である前に人間であれ』と強調されるわけである。人間であれと強調される人間とはいかなる人間を指しているのか.それは人間らしい人間にほかならない。しかし『率直でまじめそうな挙動が、誠実によるものであるか、それとも、狡さに由るものであるかを判定することはむずかしい』・・・とされるのをよいことにして医師が利己主義や享楽主義の奴隷になっては医師を自由に選択できる患者側は、かかる医師から必ず遠ざかってゆくにちがいない。それゆえ『人間らしい人間になること』つまり人間形成への努力自己収容をも怠らない人間となるように努力する事が医師には必要だ。そして『本当の優しさを持つ事のできる人は、しっかりした心構えのある人だけだ』と。参考文献:高間直道 医療と人間「私と患者」か「私の患者」か 日本医師会雑誌 101:1042−1046,1989】
分散と収束
先日、近日公開予定のリクルートという洋画の試写会にワーナーマイカル高松という映画館に行った。コリン・ファレルという売り出し中の個性派男優がジェームスという父親譲りのCIA二世の主役という配役設定であった。さらにアル・パチーノがCIAの裏切り役で名演技の脇役であった。結局、私にはどこからどこまでが練習(CIA演習?)で、どこからどこまでが実戦だか、映画が終わってもわからなかった。なぜなら、どこからどこまでが真実で、どこからどこまでが嘘かが、わからない映画であったからだ。逆転につぐ逆転で、その嘘が真実になったり、また、さらなる虚になったりする。最初から最後まであらゆることでこの現象が続く1時間45分の佳作であった。
さて現実に戻って、嘘が、さらに嘘になると事態はどうなるであろうか。その事態は尾ひれが付き更なる重大な嘘になるか、うまくいけば真実に戻るかのどちらかであろう。電子回路で言えば、前者は発信回路、後者はネガティブ・フィードバック回路である。前者は低周波という音声を発信回路を利用した超高周波に情報の変化として載せ、電気線(アンテナ)から磁界を作るとともに放出する送信機の前終段回路、具体的には、安定した固有振動を持つ水晶発信回路として知られている。後者はオーディオ・アンプの音声信号増幅の際に生じるひずみを修正するための回路として、ダイナミックレンジや忠実度を犠牲にしても、なめらかな聴きやすい音を作るのに利用されている。
おっと閑話休題、われわれの世界で嘘が生じた場合には、その嘘は都合の悪い嘘であれば分散で飛んでいってほしいし(忘れる)、本職である医療実践の場合に限っていえば、修正しなければいけない嘘は、ネガティブ・フィードバックで真実に戻したいものである(やり直すか謝る)。常にこれらを使い分ける精神力と器量の研鑽に勤め、困難な現代の医療を取り巻く諸問題に対処したいと痛感しているこのごろである。
パソコンづくり(同居する規格違いのネジたち)
ここ数年、診療の合間にデスクトップのパソコンの自作にいそしんでいる。その理由は完成までに費やした努力が比較的短時間で報われるという、本業の医療とはまったく違う満足感を得られるからである。
事件は、7-8年ほど前、秋葉原の末広町駅近くの「プロサイド」という小さなビルの一角にある会社で、DOS/Vパソコン(PC)を組み立ててもらったことから発生した。私にとって秋葉原は、無線の部品調達のジャンク屋が未だ残り、アマチュア無線が趣味の私としては30年来通いつめているお馴染みの地区であった。「プロサイド」においては、PC組み立てという工程が新鮮で興味深く、50万円近くの私費を投じたが、会社の窓際に設けられた作業台において、2時間程度で部品購入から組み立て、OSのインストールまでの実際を見せていただくという経験をした。この時期はMS-Windows95がOSのNEC-PCが現在の購入価格の5倍程度もする時代だったからこれでも組み立てのほうが安価だったのかもしれない。この製品は数年間、活躍したが、酷使したためハードディスクとマザーボードが駄目になり泣く泣く、ケースのみを残し、パーツをすべて入れ替えることにした。
それから、秋葉原のある大手の通販ショップを通じて、部品購入してPC自作の生活が始まった。OSがうまくインストールできないとPCを足でけったり、徹夜でLANカードのプログラムをインストールしたり(今でもLAN設定はもっとも困難な作業ですがWindowsXPになってからはオートマチック化され、かなり容易になりました)、はたまた、初歩的なBIOS設定ミスでハードディスクが認識されないという不幸な目にもあった。ディスプレイの設定では設定周波数を高くしすぎ、ディスプレイに何も映らないまま、手探りで設定を変更したこともあったが、今となっては懐かしい。安価なテレビのほうが便利なのに、PCにTVチューナーカードをPCIスロットにいれて、「やった・・・」と、他の基本的なプログラム作動を犠牲にしてさえも、悦に入っていたこともあった。
今、午前7時半であるが私は病院に出勤し、かようにワープロを打っている。私の自室は狭いのだが、合計9台のタワー型の自作PCが並び、院内のLANにすべてがつながれている。PCのそれぞれに、異なったソフトや機能が織り込まれ、負荷のかからないように心がけている。一台に多機能を搭載すると、指数関数的にプログラム処理速度が落ちるのである。そこで10の機能を持たせるためにはその機能2つを5台のPCに分けて演算速度を落とさないようにしている。この関係でLAN(local area network)は必須のアイテムなのである。
PC製作で重要なのはその目的とパーツ選びであるが、PCは主として下記のパーツで構成されている。
@ケースおよび電源(1万円以内で静音400W電源付ケースが入手可能。私のマシンでは、その多くはミッドタワー型)
Aマザーボード(Intel815、845、865規格などがある。サウンドおよびビデオチップが一体になった高性能なものも2万円以内で入手可能)
BCPU(CPUチップとクーラー。チップは数千円から10万円以上のものまでピンキリあり。Socket478が現在の主流。もちろんビット処理の早いものほど高性能)
CRAM(SDRAM PC133とかPC2700など。なるべく処理能力の高いRAMをつけたい)
DI/O機器(キーボード、マウス、スキャナー、デジカメ、ディスプレイ、プリンタ、モデム、LANなど。一般のPC でも取り替えて使っていることが多い)
E外部記憶装置など(ハードディスク、フロッピー,MO,ZIP,DVD,DVR,CD,CDRドライブ。媒体の記憶能力の進歩は指数関数的に飛躍している)
PCは上記の各部品さえそろえば、プラス・ドライバーとラジオペンチのみで組み立てることができる。本体が完成してBIOS設定をしてOSをインストールして成功すれば、これで終了である。しかし、各工程を分析すると、以外にも奥が深い、産業の歴史を感じさせる項目がある。
たとえば、ネジの種類にしてもISO規格とかJIS規格とかが同居している。これは、ネジで固定されるドライブ部品を作る会社が、日本からシンガポール、台湾、マレーシヤなどにシフトしていることも関係しているようだ。コンピュータ関係では「No.6-32UNC×6mm」というインチネジがよく使わる。No.6はネジ部の太さを表わす番号であり、約3.5mmの太さに相当する。32UNCは、1インチあたり32山(=1山あたり約0.8mm)というピッチを持つユニファイ並目ネジを表わしている。6mmはネジ部の長さを表わしている。コンピュータではこれ以外にもミリネジ(メートルネジ)が使われることも多いが、インチネジとは各部のサイズが異なるので、お互いに流用することはできない。ハードディスク・ドライブやケース各部の取り付けネジとして使われることが多い。そのほか、ブラケット固定用のネジでも、ケースによってはミリネジだったりインチネジだったりする。ネジ頭部の形状はさまざまだが、ネジの部分の太さやピッチは規格化され、統一されかけている。ミリネジはネジのピッチが細かく、インチネジはピッチが粗いので、2つ並べると簡単に見分けることができる。ISO規格のミリネジには頭部に小さな丸いくぼみ(矢印の先)が付けられることがあるが、何もないミリネジも多い。右側のセルフタッピングネジは最近ではほとんど使われない。
私は、過去に数多くの過ちをネジに関して犯してきたが、くれぐれも、パソコンを組み立てるときに、ネジが合わないといって、強引にねじをねじ込まないように。冷静になって規格違いのあることを思い出すべし。今日も、通販会社から自宅に、1個8000円足らずのCeleron CPU(2.4GHz)3個入りパッケージが届いているのを確認した。いったい何台PCを作れば気がすむというのだろう?この中毒症状は自分ながら不思議で驚いている。
あなたは草食派それとも肉食派
人類はオルドバイ渓谷でルーシーと称されるホモエレクトスが発見されて以来、人類の歴史は350万年、その生態は雑食動物といわれていはいるが、果たしてすべての民族が平均的に雑食なのであろうか?トラは肉食、ウマは草食であるのは明らかである。ここで簡単にヒトにおける傾向とその見分け方、対処の仕方を考えてみよう。
外観からの判別
肉食の場合 眼は前方についている。前方注視型
耳介は固定され小さいか垂れている
堂々と匂いをかぐ
草食の場合 眼は側方、後方も見られるよう外側についている 広角概視型
耳介は大きくピンと立ちピクピクと敏感に動くことが多い。
わからないように、しかし神経質に匂いをかぐ
行動からの判別
肉食の場合 ほぼ直線的に突進する 人のいうことは聞かない
行動の速度が速い
草食の場合 モジモジ周りを気にしながらつまらなさそうに動く。時々道草をする
人間ウオッチングをするのが好きだ 噂話を聞くのが大好きだ
瀬戸大橋料金に、一工夫を -与島の活性化との関連-
瀬戸大橋の料金は高いといわれています。本当に高くて高松に住む私としては本州に車で渡ることはほとんどありません。 瀬戸大橋の中間に風光明媚な与島というところがあり。昔は休憩SAになっていましたが現在は観光客が激減と聞きます。 そこで提案。 与島発着の切符を発行する。 具体的には坂出→早島、早島→坂出間は片道が4000円程度に据え置くが、坂出→与島間は1000円とする。与島→早島間も1000円とする。早島→与島間も1000円とする。与島→早島間も1000円とする。 こうすれば一番安く坂出から早島に行こうとすれば、与島経由で2000円で行くことができる。与島に立ち寄って料金所をくぐるわけだから、みやげ物店も潤うかもしれない。讃岐うどん各店の屋台を並べればかなりの集客力があるだろう。屋台程度の開設資金もさしてかからないのでは?ここで、ミニ讃岐うどんめぐりができるわけだ。 平成16年にJRグループの○○家が、トルコのイスタンブールに、讃岐うどんの店舗を開店するという。しかし、需要の見込まれる日本人の何人が、シルクロードの出発地点、カッパドキアやノアの箱舟のアララト山のあるトルコ共和国に行くことができるのであろうか。まあ、新しい麺類のない遊牧民族に讃岐うどんは新鮮でおいしいであろうが・・・もっと近くにもいろいろ需要はあると考えるのだが。 時間に余裕のある人々、料金を節約したい人々はこのような方法で、多少面倒ではあるが安価に通行料金を提供できるように。料金体系を工夫してもらいたいものです。
附録 橋本左内の啓発録
橋本左内著(『大日本思想全集』第十八巻〈昭和8年。大日本思想全集刊行会発行〉による)
啓発録
◎稚心を去る 稚心とは、をさな心と云事にて、俗にいふわらべしきこと也、茶菜の類のいまだ熟せざるをも稚といふ、稚とはすべて水くさき処ありて物の熟して旨き味のなきを申也、何によらず稚といふことを離れぬ間は、物の成り揚る事なきなり。
人に在ては竹馬紙鳶打毬の遊びを好み、或は石を投げ虫を捕ふを楽み、或は糖菓蔬菜甘旨の食物を貪り、怠惰安佚に耽り、父母の目を竊み、芸業職務を懈り、或は父母によりかゝる心を起し、或は父兄の厳を憚りて、兎角母の膝下に近づき隠るゝ事を欲する類ひ、皆幼童の水くさき心より起ることにして、幼登の間は強て責るに足らねども、十三四にも成り、学問に志し候上にて、此心毛ほどにても残り有之時は、何事も上達致さず、迚も天下の大豪傑と成る事は叶はぬ物にて候。
源平のころ、並に元亀天正の間までは、随分十二三歳にて母に訣れ父に暇乞して、初陣など致し、手柄功名を顕し候人物も有之候、此等はみな稚心なき故なり、もし稚心あらば親の臂の下より一寸も離れ候事は相成申間敷、まして手柄功名の立つべきよしはこれなき義なり、且又稚心の害ある訳は、稚心を除かぬ時は、士気振はぬものにて、いつまでも腰抜士になり候ものにて候、故に余稚心を去るを以て士の道に入る始と存候なり。
◎振気 気とは、人に負ぬ心立ありて、恥辱のことを無念に思ふ処より起る意地張の事也、振とは、折角自分と心をとゞめて、振立振起し、心のなまり油断せぬ様に致す義なり、此気は生ある者にはみなある者にて、禽獣にさへこれありて、禽獣にても甚しく気の立たる時は、人を害し人を苦しむることあり、まして人に於てをや。
人の中にても士は一番此気強く有之故、世俗にこれを士気と唱へ、いかほど年若な者にても、両刀を帯したる者に、不礼を不致は、此士気に畏れ候事にて、其人の武芸や力量や位職のみに畏れ候にてはこれなし、然る処太平久敷打続、士風柔弱佞媚に陥り、武門に生れながら武道を亡却致し、位を望み、女色を好み、利に走り、勢に附く事のみにふけり候処より、右の人に負けぬ、恥辱のことは堪へずと申す、雄々しさ丈夫の心、くだけなまりて、腰にこそ両刀を帯すれ、太物包をかづきたる商人、樽を荷ひたる樽ひろひよりもおとりて、纔に雷の声を聞き、犬の吠ゆるを聞ても、郤歩する事とは成にけり、偖々可嘆之至にこそ。
しかるに今の世にも猶未だ士を貴び、町人百姓抔御士様と申唱るは、全く士の士たる処を貴び候にて無之、我。
君の御威光に畏服致し居候故、無拠貌のみを敬ひ候ことなり、其証拠は、むかしの士は、平常は鋤鍬持、土くじり致し居候共、不断に恥辱を知り、人の下に屈せず、心逞しき者ゆへ、まさか事有るときは、吾 大御帝、或は将軍家抔より、募り召寄せられ候へば、忽ち鋤鍬打擲て、物具を帯して、千百人の長となり、虎の如く狼の如き軍兵ばらを指揮して、臂の指を使ふごとく致し、事成れば芳名を青史に垂れ、事敗るれば、屍を原野に暴し、富貴利達、死生患難を以て其心をかへ申さぬ、大勇猛大剛強の処有之ゆゑ、人々其心に感じ、其義勇に畏候へども。 今の士は勇はなし、義は薄し、諜略は足らず、迚も千兵万馬の中に切り入り、縦横無碍に駆廻る事はかなふまじ、況んや帷幄の内に在て、運籌決勝之大勲は望むべき所にあらず、さすれば若し腰の両刀を奪ひ取候へば、其心立其分別尽く町人百姓の上には出申まじ、百姓は平生骨折を致し居、町人は常に職業渡世に心を用ひ居候ゆへ、今若し天下に事あらば、手柄功名は却て町人百姓より出で、福島左衛門大夫、片桐助作、井伊直政、本多忠勝等がごとき者は、士よりは出申さゞるべきかと思はれ、誠に嘆かはしく存る。
箇様に覚のなきものに、高禄重位を被下、平生安楽に被成置候は、偖々君恩のほど男す限りなきこと、辞には尽しがたし、其御高恩を蒙りながら、不覚の士のみにて、まさかのときに、我君の恥辱をさせまし候ては、返す返す恐入候次第にて、実に寐ても目も合はず、喰ても食の咽に通るべき筈にあらず。
ことさら我先祖は国家へ奉対、聊の功も可有之候得ども、其後の代々に至りては、皆々手柄なしに恩禄に浴し居候義に候へば、吾々共聊にても学問の筋心掛け、忠義の片端も小耳に挟み候上は、何とぞ一生の中に粉骨砕身して、露滴ほどにても御恩に報い度事にて候、此忠義の心を撓まさず引立、後還り致さぬ様に致候は、全く右の士気を引立振起し、人の下に安ぜぬと申す事を忘れぬこと、肝要に候、乍去只此気の振立候而已にて、志立ぬ時は、折節氷の解け酔のさむる如く、後還り致す事有之者に候、故に気一旦振立候へば、方に志立候事甚大切なり。
◎立志 志とは、心のゆく所にして、我こころの向ひ趣き候処をいふ、士に生て、忠孝の心なき者はなし、忠孝の心有之候て、我君は御大事にて、我親は大切なる者と申す事、聊にても合点ゆき候へば、必ず我身を愛重して、何とぞ我こそ弓馬文学の道に達し、古代の聖賢君子英雄豪傑の如く相成り、君の御為を働き、天下国歌の御利益にも相成候大業を起し、親の名まで揚て、酔生夢死の者にはなるまじと、直に思付候者にて、此即志の発する所也、志を立るときは、此心の向ふ所を急度相定、一度右の如く、思詰候へば、弥切に其向きを立て、常々其心持を失はぬ様に持こたへ候事にて候。
凡志と申は、書物にて大に発明致し候か、或は師友の講究に依り候か、或は自分患難憂苦に迫り候か、或は憤発激励致し候歟の処より、立ち定り候者にて、平生安楽無事に致し居り、心のたるみ居候時に立事はなし。
志なき者は魂なき虫に同じ、何時迄立ち候ても、丈けののぶる事なし、志一度相立候へば、其以後は日夜逐々成長致し行き候者にて、萌芽の草に膏壌をあたへたるがごとし、古より伐傑の士と申候んとて、目四ツ口二ツ有之にてはなし、皆其志大なると逞しきとにより、遂には天下に大名を揚候なり、世上の人多く碌々にて相果候は他に非ず、其志太く逞しからぬ故なり。
志立たる者は、恰も江戸立を定めたる人の如し、今朝一度御城下に踏出し候へば、今晩は今荘、明夜は木の本と申す様に、逐々先へ先へと進み行申候者也、譬ば聖賢豪傑の地位は江戸の如し、今日聖賢豪傑に成らん者をと志し候はゞ、明日明後日と、段々に其聖賢豪傑に似合ざる処を取去り候へば、如何程段短才劣識にても、遂には聖賢豪傑に至らぬと申す理はこれなし、丁度足弱な者でも、一度江戸行き極め候上は、竟には江戸まで到着すると同じき事なり。
偖右様志を立候には物の筋多くなることを嫌ひ候、我心は一道に取極め置き不申候はでは、戸じまりなき家の番するごとく、盗や犬が方々より忍び入り、迚も我一人にては、番は出来ぬなり、まだ家の番人は随分傭人も出来候得共、心の番人は傭人出来不申候、さすれば自分の心を一筋に致し、守りよくすべき事にこそ。
兎角少年の中は、人々のなす事致す事に、目がちり、心が迷ひ候て、人が詩を作れば詩、文をかけば文、武芸とても、朋友に鎗を精出す者あれば、我今日まで習ひ居たる太刀業を止て、鎗と申す様に成り度きものにて、これは正覚取らぬ、第一の病根なり、故に先づ我知識聊にても開候はば、篤と我心に計り、吾所向所為をさだめ、其上にて師につき、友に謀り、吾及ばず足らはぬ処を補ひ、其極め置たる処に心を定めて、必多端に流れて、多岐亡羊の失なからんこと、願はしく候、凡て心の迷ふは、心の幾筋にも分れ候処より起り候事にて、心の紛乱致し候は、吾志未だ一定せぬ故なり、心定まらず心収まらずしては、聖賢豪傑には成られぬものにて候。
何分志を立る近道は、経書又は歴史の中にて、吾心に大に感徹致し候処を書抜き、壁に貼し置き候か、又は扇抔に認め置き、日夜朝暮夫を認め咏め、吾身を省察して、其不及を勉め、其進を楽み居り候事、肝要にして、志既に立候時は、学を勉むる事なければ、志弥ふとく逞くならずして、動もすれば聡明は前時より減じ、道徳は初の心に慚る様に成り行くものにて候。
◎勉学 学とは、ならふと申す事にて、総てよき人すぐれたる人の善き行ひ、善き事業を迹付して、習ひ参るをいふ。故に忠義孝行の事を見ては、直に其人の忠義孝行の所為を慕ひ傚ひ、吾も急度其人の忠義孝行に負けず劣らず、勉め行き候事、学の第一義なり、然るに後世に至り、宇義を誤り、詩文や読書を学と心得候は、笑かしき事どもなり。
詩文や読書は、右学問の具と申すものにて、刀●(キヘン+「覇」)鞘や、二階梯の如きものなり、詩文読書を学問と心得候は、恰も柄鞘を刀と心得、階梯を二階と存候と同じ、浅鹵粗麁の至りに候。
学と申すは、忠孝の筋と文武の業とより外には無之、君に忠を竭し、親に孝を尽すの直心を以て、文武の事を骨折勉強致し、御治世の時には、御側に被召使候へば、君の御過を補ひ匡し、御徳を弥増に盛んになし奉り、御役人と成り候時は、其役所役所の事、首尾能取修め、依怙贔屓不致、賄賂請謁を不受、公平廉直にして、其一局何れも其威に畏れ、其徳に懐き候程の仕わざをなし可申義を、平世に心掛け居り、不幸にして乱世に逢ひ候はば、各々我居場所の任を果して寇賊を討平げ、禍乱を克定め可申、或は太刀鎗の功名、組打の手柄致し、或は陣屋の中にありて、謀略を賛画して、敵を鏖にし、或は兵糧小荷駄の奉行となりて、万兵の飢渇不致、兵力の不減様に心配致し候事抔、兼々修練可致義に侯、此等の事を致し候には、胸に古今を包み、腹に形勢機略を諳し蔵め居らずしては、叶はぬ事共多く候へば、学問を専務として勉め行ふべきは、読書して吾知識を明かに致し、吾心胆を練り候事肝要に候。
然る処、年少の間は兎角打続き業に就き居候事を厭ひ、忽読忽廃し、忽習文講武といふ様に、暫く宛にて倦怠致すものなり、此甚だ不宜、勉と申すは、力を推究め、打続き推遂候処の気味有之字にて、何分久を積み、思を詰不申候はでは、万事功は見え不申候、まして学問は物の理を説、筋を明かにする義に候へば、右の如く軽忽粗麁の致し方にて、真の道義は見え不申、中々有用実着の学問にはなり申さぬなり、且又世間には愚俗多く候故、学問を致し候と、兎角驕謾の心起り、浮調子に成て、或は功名富貴に念動き、或は才気聡明に伐り度病、折々出来候ものにて候、これを自ら慎み可申は勿論に候へども、茲には良友の規箴至て肝要に候間、何分交友を択み、君仁を輔け、吾徳を足し候工夫可有之候。
◎朋友を択ぶ 交友は、吾連朋友の事にて、択とはすぐり出す意なり、吾同門同里の人、同年輩の人、吾と交りくれ候へば、何れも大切にすべし、乍去其中に損友益友候へば、則択と申す為肝要なり、損友は、吾に得たる道を以て、其人の不正の事を矯正し可遣、益友は、君より親みを求め、車を詢り、常に兄弟の如くすべし、世の中に益友ほど難有難得者はなく候間、一人にても有之ば、何分大切にすべし。
総て友に交るには、飲食歓娯の上にて附合、遊山釣魚にて狎合は不宜、学問の講究、武事の練習、士たる志の研究、心合の吟味より交を納れ可申事に候、飲食遊山にて狎合候朋友は、其平生は腕を扼り肩を拍ち、互に知己知己と称し居候へ共、無事の時、吾徳を補ふに足らず、有事の時、吾危難を救ひくれ候者にてはなし、これは成り丈屡出会不致、吾身を厳重に致し附合候て、必狎昵致し吾道を褻さぬ様にして、何とか工夫を凝して、其者を正道に導き、武道学問の筋に勧め込候事、友道なり、偖益友と申すは、兎角気遣な物にて、折々不面白事有之候、夫を篤と了簡すべし、益友の吾身に補ひあるは、全く其気遣なる処にて候、士有争友雖無道不失令名と申すこと、経に有之候、争友とは即益友也、吾過を告知らせ、我を規弾致しくれ候てこそ、吾気の附ぬ処の落も欠も補ひたし候事、相叶候なり、若右の益友の異見を嫌ひ候時は、天子諸侯にして諫臣を御疎みなされ候と同様にて、遂には刑戮にも罹り、不測の禍をも招く事あるべきなり。
偕て益友の見立方は、其人剛正毅直なるか、温良篤実なるか、豪壮英果なるか、俊邁亮明なるか、濶達大度なるかの五つに出でず、此等は何れも気遣多き人にて、世間の俗人どもは甚しく厭弃致し居候者なり、役損友は、佞柔善媚、阿諛逢迎を旨として、浮躁弁慧、軽忽粗慢の性質ある者なり、此は何れも心安く成り易き人にて、世間の女子小人ども、其才智や人品を誉居候者なれども、聖賢豪傑たらんと思ふ者は、其所択自ら在る所あるべし。
以上五目、少年学に入るの門戸とこゝろえ、書聯申候者也。
右余厳父の教を受け、常に書史に渉り候処、性質疎直にして柔慢なる故、遂に進学の期なき様に存じ、毎夜臥衾中にて涕泗にむせび、何とぞして吾身を立て、父母の名顕し、行々君の御用にも相立、祖先の遺烈を世に耀し度と存居候折柄、遂々吾身に解得致し候事ども有之候様、覚申すに付、聊書記し、後日の遺亡に備ふ、敢て人に示す処にあらず、嗚呼如何せん。
吾身刀圭の家に生れ、賤技に局々として、吾初年の志を遂る事を不得を、然れども所業は此に在りても、所志は彼に在り候へば、後世吾心を知り、吾志を憐み、吾道を信ずる者あらん歟。
嘉永戊申季夏 橋本左内誌
禅の道
道元禅師からのメッセージ ---------------------------
生まれたものは死に 会ったものは別れ 持ったものは失い 作ったものはこわれます 時は矢のように去っていきます すべてが「無常」です この世において 無常ならざるものはあるでしょうか ---------------------------- 生まれて死ぬ一度の人生を どう生きるか それが仏法の根本問題です 長生きをすることが幸せでしょうか そうでもありません 短命で死ぬのが不幸でしょうか そうでもありません 問題はどう生きるかなのです --------------------------- 人生に定年はありません 老後も 余生も ないのです 死を迎える その一瞬までは 人生の現役です 人生の現役とは 自らの人生を 悔いなく生ききる人のことです ---------------------------- ひとの価値は 地位・財産・職業に関係ありません 知能・能力だけでひとを評価すると 過ちを招きます 知識を生かす心と行いこそ大切です ひとの価値は心と行いから生ずるのです --------------------------- 知る」ということと 「わかる」こととはちがうのです 知ってはいても 実行されなければ わかったことにはなりません 薬の効能書きを読んだだけでは 病気は治りません 禅も実行してはじめて わかることなのです ---------------------- 米も野菜もいのちです 肉の魚もいのちです これらのいのちのおかげで 私たちのいのちも生かされています 「いただきます」「ごちそうさま」 尊い命に感謝して 食事をいただきましょう ---------------------------------
江戸のリサイクル
歴史上で東京が現れてくるのは、源頼朝が兵をあげた地の近くの「江戸氏」に関する資料からである。江戸氏は地元の武将である。江戸氏のほかに、豊島区に勢力を誇っていた豊島氏という武将もいる。東京が江戸らしい風格を持ってくるのは、室町時代中期に、大田道潅がこの地に江戸城を築いてからである。当時、鎌倉には、足利氏一族がいたが、家臣の上杉氏が関東の実検を握り、主君の足利氏を追い払った。足利氏はいまの茨城県西端の古川市に逃れた上杉氏はこの時期にすでに2家系に分かれていたが、その重鎮が太田氏で、大田道潅がこの地に入ってきた。豊島氏や江戸氏は、この太田氏によって滅ぼされた。豊島氏の築城した多くの城は太田氏のものになった。大田道潅は主君である上杉定正に比較しても能力が上であった。道潅は兵法に優れ、足軽の集団戦法を編み出し、実戦でも強く勝利を収め、関東の武士の信頼を集めつつあった。主君の上杉定正にしてみれば道潅が自分に対して危険な存在になりかけたので、彼を神奈川の上杉屋敷に呼び出して、風呂場で切り殺したのである。
それまで大田道潅は30−40年の間、江戸の地にいたので、この地に長禄元年(1457年)に城を作り大勢の学者を招いた。太田道潅の城は、後の本丸になった場所は開放されている。東御苑の場所である。梅を多く植えた「梅林」という場所も残っている。東御苑の梅林坂である。堀の名前に道潅堀というのも残る、
道潅が没後、上杉氏の治世となった。その後、上杉氏は小田原を本拠とした北条氏によって滅ぼされた。その後、北条氏が江戸城を中心に関東を治めた。北条氏は今日の、神奈川県、東京都、埼玉県、群馬県、常陸、房総半島の一部まで勢力下に置いた。北条氏は豊臣氏に滅ぼされた。大田道潅没後100年少し経った1590年(天正18年)、江戸は豊臣氏の支配下になった。
徳川家康は豊臣秀吉に勧められ江戸城に住んだともいわれるし、徳川氏の本拠の三河、尾張、遠江を追われ、江戸に本拠地を移さざるを得なかったという説も有力である。家康は江戸に来ると、側近の家臣は遠くの地、たとえば群馬県、茨城県、千葉県に赴任させられた。赴任した家臣の領地は大きいとはいえども、せいぜい最高、10万石であった。それよりも家禄の少ない旗本(一万石未満)が江戸の周辺に居を構えた。
江戸という地名は、どこから由来しているのであろうか?江戸の江は(江=こう)である。中華人民共和国では江といえば揚子江、河といえば黄河を意味する。一般的には江は大きな河を意味する。水辺に臨んだ場所が多いという意味もある。入り江という意味である。戸は水門を意味する。入り江に臨んだ門になる地域というのが「江戸」という地名の本来の意味かもしれない。江戸は海上交通にも恵まれ、四方が広い平野であり、利根川を中心として、さまざまな物産を運ぶ中心地として、西暦1590年、天正18年8月1日に江戸城が完成した。ちょうどこの時期、わが四国、讃岐の国の鬼無では、鬼無兵庫(香西兵庫ともいう)の居城、香西氏の出城である袋山の山頂にあった鬼無城が豊臣方の四国制圧の大将であった長曽我部元親によって焼き払われ、消失した時期でもある。皮肉にもこの年の城の完成により毎年、8月1日が、後にではあるが、徳川家の祝日になった。この10年後に関が原の合戦が生じた。豊臣秀吉はこのときすでに没していたので、家臣の石田光成が西軍の中心となり戦ったが、西暦1600年、慶長5年9月15日に西軍が壊滅した。大阪城には、毛利輝元を補佐役とした、豊臣秀頼がいたので、家康は毛利輝元を大阪城から去らせ豊臣の権力を失墜させた。慶長5年終わりごろには、徳川家康は全国を制覇したことになった。
3年後の慶長8年、徳川家康は征夷大将軍になった。兵権と政権を掌握したものに与えられるこの称号は平安時代の初期のその端を発するといわれる。家康は徳川幕府を開いた。
幕府とは幕を張った府を意味する。これは戦陣の中で張るテント、仮小屋の意味だが、一般に「幕府」というと鎌倉時代からの将軍を意味する代名詞になった。家康の初居城である江戸城の周りは荒れ放題で、書物によれば、城に入る堀に丸太や板を渡しておいてあり、この粗末な板をわたって、城に入ったという。今の皇居が当時の西の丸にあたる。その付近は江戸時代になってからは、周囲が自然に富んだ場所であり野山であって町に住んでいる人が草花を摘みに遊びに来たところである。
日比谷は、当時、海水がこの地まで入り込んでいて、海の中に立てた、海苔を絡み付ける棒=これを竹冠に浜と書いて「ひび」と読むのであるが、ひびがおおくたてられていた場所だったという。いずれにしても、江戸時代の初期には、江戸城の近くまで海水がきていたということであろう。江戸城と交通する道は、城の西を廻った道と、日本橋と江戸城の間、すなわち東を通った2つの道があった。小田原北条時代に、江戸の宿場という言葉や、浅草へ行く道があったという記録があるので、城の東に道があったという証明にもなる。神田川は、今の神田方面を流れて隅田川に合流していたが、氾濫に備えて家康は、この河川の流れを変える工事などをしたともいわれる。現在神田川の直下には、神田川以上の水処理能力を持つ巨大な排水溝、もしくは核時代のシェルターにもなりうる巨大な地下豪が存在している。今日の皇居から新橋、日本橋、浅草への街道を作り上げたのはまさに家康の交通路変更の賜物である。慶長8年の工事では、日比谷の入り口を埋め立て、下町の造成の基礎を造った。このときに東海道の基点である日本橋が架橋された。この工事は、主として、西日本の大名を動員して行われ「天下普請」と呼ばれた。日本橋の街道としての基点の価値は、その間にあった山を崩すことにより成し遂げられた。江戸城の付近にあった丘陵を崩し、海を埋め立て、江戸城の東側に埋立地を造ったのである。今日残っている駿河台、神田の台、湯島の台などが丘陵を崩した名残である。家康は1616年に、いろいろ(1616)あって死去した。家康の死骸が、久能山から日光山に移されたのは元和3年4月8日のことであった。元和2年4月2日、家康は家臣の崇伝、天海、本田正純に遺言を残した。「御大漸(病気がだんだん悪くなること)の後は久能山に納めたまわり、御法会は江戸増上寺にておこなわれ、霊碑は三州(三河の国)大樹寺に置かれ、ご周忌をへて後、下野の国日光へ小堂を営造し祭尊すべし。京師には南禅寺中今地院へ小堂をいとなみ、進拝せしむべし」
駿河台の由来は、駿河出身の家康が没してのち、駿河の地から江戸を開くために来た地方の人々が駿河台に住んだために名づけられたという説が強い。家康から三代将軍家蜜の間までが江戸城をより完成させ、江戸の町の基礎をつくっていく過程の時代であった。利根川の洪水から江戸を守るため、文禄3年から寛文5年(西暦1665年)にかけて、数回にわたる土木工事により、関東平野を乱流し洪水を起こしながら東京湾に注いでいた利根川の流れを東のほうに変え、銚子で太平洋に注ぐように改修した。一方、江戸城は徐々に大きくなり、本丸の後、西御苑のほうから今の宮殿のある西の丸の方面までが城の区画となった。だんだんと城の区画を広めたので、今の外堀を含む広い範囲が、江戸城の区画に入った。城の近くにあった町は、新しい下町に移された。今日の日本橋の通りは度重なる江戸の大火(特に明暦の大火)の後で区画整理して奥行き20間と表は60間の売店を道路沿いに作る区画整理をして、よりきれいな町並みづくりをした。下町には江戸城の近くにあった町も前述のごとく移されてきた。交通の要所となる大手町、南伝馬町ももとあった場所から移された町であるという。新しい町を作ったということが徳川氏の覇権を維持する礎になったのかもしれない。徳川氏は諸大名の妻子を江戸城の近くに住まわせた。いうまでもなく諸大名の妻子を人質にして江戸に参勤交代をさせたということも覇権を長く維持できた理由かもしれない。この制度により諸大名は徳川氏に忠誠を誓わなくてはならなくなった。三代将軍家光の代には、大名の正妻と15歳以上の子供(小人)は江戸に住まわせることが大名の慣習として定着した。家光は子供を取り締まる役として、小人奉行を置き、大名の子息を厳しく管理した。この制度は参勤交代制度が定着した家康の没後、四代将軍家綱の時代に、やっと廃止された。このとき、31の諸大名が子供を人質として江戸に住まわせていたという。
東海道五十三次
1.日本橋〜品川
2.品川〜川崎
3.川崎〜神奈川
4.神奈川〜程ヶ谷
5.程ヶ谷〜戸塚
6.戸塚〜藤沢
7.藤沢〜平塚
8.平塚〜大磯
9.大磯〜小田原
10.小田原〜旧道
11.旧道〜箱根
12.箱根〜三島
13.三島〜沼津
14.沼津〜原
15.原〜吉原
16.吉原〜蒲原
17.蒲原〜由比
18.由比〜興津
19.興津〜江尻
20.江尻〜府中
21.府中〜丸子
22.丸子〜岡部
23.岡部〜藤枝
24.藤枝〜島田
25.島田〜金谷
26.金谷〜日坂
27.日坂〜掛川
28.掛川〜袋井
29.袋井〜見付
30.見付〜浜松
31.浜松〜舞阪
32.舞阪〜新居
33.新居〜白須賀
34.白須賀〜二川
35.二川〜吉田
36.吉田〜御油
37.御油〜赤坂
38.赤坂〜藤川
39.藤川〜岡崎
40.岡崎〜知立
41.知立〜鳴海
42.鳴海〜宮
43.宮〜桑名
44.桑名〜四日市
45.四日市〜石薬師
46.石薬師〜庄野
47.庄野〜亀山
48.亀山〜関
49.関〜坂下
50.坂下〜土山
51.土山〜水口
52.水口〜石部
53.石部〜草津
54.草津〜大津
55.大津〜三条大橋(京都)
それでは、参勤交代によって江戸はどのように変わったのであろうか。大名は江戸城の周辺に大きな屋敷を構えるようになった。諸大名の上屋敷は、将軍から拝領した土地に建てたので「拝領屋敷」と呼んだ。諸大名の妻子を住まわせた下屋敷はこの上屋敷から少し離れたところにあり、墨田川の江戸城側、本所、深川などがこの地の中心となった。しかし尾張、紀州、水戸の御三家の下屋敷は、江戸城に近いところにありこの御三家は上屋敷、中屋敷。下屋敷、かかえ屋敷など30もの屋敷を有していた。これらの面積をあわせると途方もない面積になる。上屋敷だけでも10万坪という大きな屋敷がいくつもあった。今日の東京大学のある場所は、加賀前田氏の上屋敷である。前田氏は板橋の近くに下屋敷を持っていた。今日の加賀町である。現在、この地には大学や研究所が多く作られている。水戸の屋敷跡は現在の東京ドームの場所である。この向こうの春日町から富坂方面までが水戸徳川氏の屋敷であった。この中にあった庭園は後楽園として国の名称史跡に指定されている。
江戸庶民の町はどこかというと、新橋から浅草に至る町並みが日本橋を中心に構成されていた。もちろん大名屋敷の間にもいくつかの町並みができた。町民の大部分は、下町とよばれる海に近い、または海を埋め立てて作った土地に居住した。江戸の町は江戸城の築城をはじめとし、@大名の集住A徳川家臣団の集住B江戸城と大量の武士団の居館建設や、その消費をまかなうため商工業者の集住を目的として建設されていった。
徳川幕府は江戸に江戸町奉行を置いた。この職は今日の東京都知事、東京地方裁判所長、警視総監、東京消防総監、東京駅長にあたる。さらに老中、寺社奉行、勘定奉行などで構成された今の最高裁判所とも言うべき評定所の重要な一員であった。町奉行は通常2人が任命された。天正18年(西暦1590年)徳川家康の入府とともに板倉四郎右衛門勝重と彦坂小刑部元正が初代江戸町奉行になった。しかし町奉行が専業となったのは慶長9年(西暦1605年)からで八代州河岸(南)と呉服橋内(北)に番所を設けて月番制をとり、各月交代で勤務した。月番の町奉行所は表の大門を八文字に開いてその月の訴訟を受けた。現在の地名で言えば、南町奉行所は数寄屋橋、朝日新聞のある場所である。北町奉行所は常盤橋、日本銀行のあるところである。元禄時代には江戸はもう少し広くなったので、中町奉行所が置かれたことがある。
町奉行の下には与力が南北あわせて25x2=50騎(与力は馬に乗ることが許されたので馬の数で数えた)と100x2人の同心がいた。たったこれだけの町方で江戸の町一切のことが支配された。享保8年の江戸人口調査によると、江戸町数1676町、家数12万8505軒、男女人数53万1400人となっている。犯罪なども町方によっていっさい調べられた。財政の調査も彼らによりおこなわれ、庶民の生活の細かいところまで彼らの手に掌握されていた。しかし江戸町奉行は庶民の担当である町方のみを支配した。武家屋敷には町奉行は近づけなかった。
寺院、神社ならびにそれに関連する門前町は寺社奉行が支配した。勘定奉行は現在の財務大臣であるが、全国の幕府領地400万石を支配した。町奉行、寺社奉行、勘定奉行を3奉行と称した。そのうち寺社奉行は大名から選ばれた。町奉行、勘定奉行はいずれも家禄が一万石未満であるところの旗本から選ばれた。与力、同心は旗本より身分が下の御家人から選ばれた。旗本と御家人の違いは、将軍に拝謁できるか否かの違いである。旗本はお目見え以上、御家人はお目見え以下と称した。
町には5人組制度があり、その地域に見知らぬ人が侵入するとか事件があると町方取締りにはすぐわかるようになっていた。江戸外から江戸に入るためには、南から入るには、現在のJR田町駅近くにある大木戸という木戸番を通過せねばならなかった。現在は大木戸の西半分のみが残っている。西には、四谷と新宿の間に大木戸があった。今、この大木戸は消失している。さらに、それぞれの町に木戸があり木戸番がいたので、江戸の下町への侵入はまことに困難なものであった。治安の維持は江戸において重要な要素を占めていた。
江戸のもうひとつの特徴は、江戸が大消費地であるという面である。幕府直轄および旗本領地双方を合わせると、700万石に達するといわれていた。そこから得られる租税は米または金で徴収したが、大部分は江戸に送られた。その収入は幕府および旗本の報酬ととして支払われた。旗本の中でも上のものは領地を持ち一万石未満ではあるが石高があったが、下位の旗本は、米をサラリーとしたれっきとしたサラリーマンであった。蔵前には幕府の米倉が100以上並び、この倉の間には堀が入ってきていた。江戸湾に大きな船で入ってきた米を、小さな船に積み替え隅田川を遡り、この蔵前の地まで運んだといわれる。下位旗本や御家人の給料はこの米倉から支払われた。給料は一年に3回支払われた。
諸大名は寛永年間、三代将軍家光の時代から参勤交代が義務付けられたため、この行事のためにかなりの出費を余儀なくされた。大名は生涯の半分を江戸で過ごすようになった。遠くの大名は一年を江戸で、一年を国元で過ごした。関東の大名は半年交代で江戸と国元を往来した。大名行列は大きなものは1千人から2千人に及ぶものもあれば、数十人の小規模の大名行列もある。江戸屋敷では大きな大名では、何千人もの配下を住まわせ、その家族もいた。それに要する費用は莫大なものに上った。たとえば加賀前田家では税金の6割がこれらの費用に使われたし、庄内藩酒井氏では9割が使われたという。日本中でえられた税金の6〜7割が江戸にて消費されたことになる。
家事は江戸の華であった。明暦の大火では4万人以上の町民が志望した。保科雅之が残した巻物によると、江戸の町では、明暦大火のあと大勢の人々が死んだままになっていた。この死骸を集めて無縁仏のお寺を建立したのが回向院である。回向院は諸総山もろもろのお寺で、その名の通り宗派を問わず、寺の名を無縁寺という。宗派を問わないあらゆるひとがその寺に穴を掘って埋められ葬られたのである。無縁仏を埋めた後が山になり、その上に回向院が立てられた。
目黒駅の近くにあった梅村用人坂の寺から出た火災、安政の大地震などで江戸は甚大なる被害をこうむった。この復旧のため全国、特に木曾から材木が集められ、材木屋、大工、左官などの仕事は休む暇がなかった。このことがさらに江戸の経済を活性化する要因になった。復興のために多くの金が流出した。それは大名や旗本にとっては、莫大な支出を意味した。江戸の大火はその風向きの方向から、火の手が北か北西から南か南東に延焼する場合が多く、火除空き地および日除土手などの防火帯は東西に設けられる傾向があった。
利根川と荒川の出水による洪水も江戸の悩みであった。江戸は災害都市の最たる場所で、天災、火災で全財産を失うものも少なくなかった。たとえば弥右衛門は安永4年(西暦1775年)22歳で本所柳原に家を借り、酒、醤油の販売を始め、その後、茅場町、吉田町と住居を移りながら経営を拡大した。母親のために小梅代地町に家屋敷を買い求めた。しかし天明6年の洪水で全財産ならびに家屋を流してしまった。そこで母親とともに、小梅代地町に母親とともに暮らすことになったが、この地でも、寛政2年に類焼して再び全財産を失った。そこで松坂町に裏店を借り、長屋住まいの味噌の担い売りとなってしまった。
後に日本一の大富豪になった伊勢出身の河村瑞賢は一文無しで江戸にやってきた。彼は東北地方の米を江戸に運ぶための阿武隈川下流の荒浜から江戸へ米を運ぶ東回り航路を開発した。さらに西回り航路として、最上川下流酒田から下関、瀬戸内経由で江戸の運ぶ西回り航路も開発した。後に河村瑞賢は旗本に取り立てられ代官職などを賜った。さらに彼は、火災のときに山を買占め、木材を売りさばき莫大な財を得たという。運輸業で江戸時代に有名なのは紀伊国屋文左衛門であろう。彼は紀州の蜜柑を江戸の運び莫大な利益を得たとあるが、彼も江戸の大火の際に大もうけをした。この時代には所得税や営業税などの税金はなく、ましてや所得に比例する累進課税などは存在しなかった。税といえば土地保有者にのみ課せられた。地租という税金である。三井家は越後屋から現在の三越を築いた財閥である。税制が緩やかなことが江戸の商人の間で、緩やかで自由な雰囲気を作っていた。江戸が大都会、大消費地となると各地から人々が流入しようとした。大名は家臣を伴い、家臣は家族を伴い江戸に流入した。さらに江戸の近県の大名においては、飢饉などで年貢が払えないとなると、農民は中元として江戸へ奉公に来て、払えなかった年貢の代わりとした。その他、江戸に来て一儲けしようとか、家督相続の際、農村の次男、三男が農耕の土地を分けてもらえず、出生地を追われ、一旗上げようと江戸に出てきたものも少なくない。
季節労務者で江戸に出てくるものも現れた。今日の品川や大森は海苔の産地であった。海苔の栽培には、前述のごとく、海岸に「ひび」を立て、海苔が巻きつたところで冬寒季に収穫する。大田博物館にこれらに関する資料の多くが残っている。これらの労務者は農閑期の出かせぎとして、信州の諏訪からやってきたものが多かったという。農民が江戸に来て、本来の地元の農業がさびれるといけないので、幕府は農民江戸労務を禁止した。これが寛政や天保の改革で叫ばれた「人返し政策」である。この政策にはもうひとつの狙いがあり、常に飢餓と災害に苦しんでいた江戸の町民から、出稼ぎ人口増加により食い扶持を減らさない、食糧確保政策でもあった。しかし飢饉の際に実際に被害をこうむったのは、天下の台所であった大阪町民であった。幕府は飢饉の際には大阪の米を江戸へ持ってきたため大阪で飢え死にするものが多数出た。民衆の苛酷な環境の中で、莫大な利益を上げたのは、やはり幕府に大量の冥加金をおさめた一部の限られた商人たちであった。これらの商人の一方的な行動に怒りを爆発させた大阪与力であった大塩平八郎は一日のみの反乱を起こした。大塩平八郎の乱である。さらに物価高騰が一部の商人によって起こると察した老中水野忠邦は、遠山左衛門金四郎景元(遠山の金さん)に命じて元禄7年以降150年以上つづいた株仲間の解散に踏み切らせた。今日でもヘッジファンドという一部金持ちグループが先物取引において、石油の利権をめぐり原油の値を操作しているという現実をご存知だろうか。
天保13年、大阪町奉行阿部遠江(とおとおみ)守正蔵は、天下の台所大阪で買占めをして物価上昇を操る商人以外に、物価が上昇するその他の原因を突き止めた。それは 大阪24組問屋の菱垣廻船商品運送ならびに江戸10問屋為替支払い16万1173両の滞納であった。この滞納が原因で大阪から江戸への商品の輸送が減少した。菱垣廻船は幕府の保護を受けていたが、幕府の保護下にない運送業者、内海船が暗躍し始めた。大阪に送られる荷は、日本海から入る際に、長州の赤間が関をはじめとする海上交通の要所で、比較的高値で買い占められるようになっていた。内海船はその数、数千艘で、豊富な数千両の現金を持ち、海上交通の要所で幹線の荷物の現金バッタ問屋買を破廉恥にもおこなったのである。手に入れた荷物は需要に応じて内海船の裁量の元で各地に売りさばくことができた。内海船の地元は愛知県知多半島内海地区であったので、この地域はまたたく間に裕福な村へと生まれ変わった。
江戸の人口に関しては、ジョン・ロドリゴ(スペイン)の記述が最初である。彼は上総の国に漂着して江戸に来たが、彼の記録によれば、江戸の人口は15万人ぐらいである。非常に町がきれいである。スペインの町よりもゴミがいっさい落ちていなく美しいと絶賛している。江戸の町方は個々に各家庭をしっかりとは掌握していたものの、江戸の人口調査が一斉におこなわれたのは八代将軍吉宗の時代からであった。享保8年の最初から6年ごとに全国の人口調査がおこなわれた。この調査は農民および町民のみであった。武士の人口調査はまだおこなわれなかった。18世紀半ばの江戸の人口は町方で前述のごとく53万人(50万人から55万人)であった。これに武士の旗本、御家人、大名の関係武士を含めると50万人以上いたと推測される。ゆえに、この時期の江戸の総人口は100万人以上であったと推測できる。ヨーロッパでこの時期のロンドンの人口が80万人に満たなかったので江戸は世界最大の人口を持つ都会であった。この時期のパリは50万人、アメリカは建国以前で人口は極端に少なかった。19世紀には江戸は京都や大阪を追い越して日本最大の都市となり大きな力を持つようになっていた。一極集中の傾向は江戸時代にすでに始まっていた。
庶民の生活は裕福から貧困までさまざまであった。土間がありその向こうに6畳の間がある。ここで食べたり寝たり日常生活をする長屋住まいをする人々もたくさんいた。「てやんで。こちとら江戸っ子デイ。宵越しの銭など持てるカイ」というような具合に気風のいい人間が多かった。彼らは宵越しの銭は持たなかったが、宵越しの金はほしかったという。
ここで金貨と銭のちがいについて述べよう。
江戸時代に通用した通貨は主に金貨、銀貨、銭貨の三種類があった。
江戸時代においてはそれぞれの単位がばらばらっであったが大きく金貨、銀貨と銭に区別していた。
金貨
単位は両・分(ぶ)・朱(しゅ)の三通り。
四進法になっている。
一両=四分
一分=四朱
一両は四分となり四分は十六分。
すなわち 一両=十六分。
小判の種類・
大判(二十両)
小判(一両)
二分金
一分金
二朱金
一朱金
銀貨
単位は貫、匁(もんめ)・分(ふん)・厘・毛の五通り。
四進法ではない。
一貫匁=千匁
一匁=十分
一分=十厘
一厘=十毛
銀貨には丁銀・小玉銀があった。
それらを組み合わせて秤にかけて目方で通用させていた頃があったらしく
ゆえに銀貨はちぎって使うことができた(江戸初期〜十八世紀半ば)が、十八世紀の後半にもなると銀貨の計数貨幣が現れた。
明和(めいわ)五匁銀、南鐐(なんりょう)二朱銀
二分銀
一分銀
二朱銀
一朱銀
このような計数貨幣が出てきたことには、江戸幕府が金貨を中心とする
経済政策をとろうとしたからである。
銭貨
いわゆる銭、江戸っ子の「宵越しの銭派はたない」というのもこの銭。単位は貫・文。
もっとも江戸庶民になじんでいた貨幣。
一貫=千文
銭貨にも何種類かの銭がある。
永楽銭(江戸初期に使われていた明国からの輸入銭)
寛永通宝(一文銭。これにより銭は統一)
天保通宝(四文銭、百文銭など)
江戸の都市計画の下にできた長屋は現在のアパートとは異なる合理的な機能を持っていた。長屋の中には江戸の都市計画の元に確保された空き地を持っていた。その場所には、共同便所、共同風呂が備えられていた。しかし、この長屋が火災の温床になっていた。長屋の構造は、表通りに面して平均2間から3間の表店が4軒あり、この間に割長屋に入る一間の路地がある。表店の木戸を開けると、割り長屋、棟割り長屋が表通りと反対側に3棟から4棟存在する。この路地がそれぞれの棟に通じている。この路地の真ん中にドブが長屋から流れてきて表通りの川に注いでいる。ゴミタメ、便所、井戸が一箇所の表店に近いところに集まっており、反対側に小さな2間四方の庭がある。長屋の一個あたりの総面積は7畳半であるが土間があるので座敷は4畳半である。この狭い部屋で食う、寝る、暮らすの日常生活を送った。料理は皆、表に出て井戸の周りで井戸端会議をしながらおこなった。この間取りから見ても江戸の町民の生活は質素なものが感じ取れるであろう。
原因不明の放火事件は頻繁に生じた。火事の多さは火災による職人の仕事の増加、ひいては手間賃の高騰につながり、この面が放火犯罪と関連があったと指摘する学者も多い。
越後屋のように几帳面な仕事をしている商家は、収支は年に2回、盆、暮れに勘定した。盆暮れが一度に来たということは、一年分の収入が大量に一度に入ってきたという意味である。江戸時代はこのような掛売りが通常であった。医家などは、明治の終わりまでこの制度を導入していたというからすごい。掛売りの店には大福帳という帳面があって各家庭で半年毎の消費金額の計算をしてその額を請求するという方法である。井原西鶴の作品には、有名な日本永代蔵がある。この話は、暮れの集金の時期に各家庭で、どんなにか厳しい集金を免れたかという逸話をまとめたものである。料金をキャッシュで払う際には現在でも「現金掛け値なし」と領収書に記することがある。三越の前身である越後屋は、他の商家と異なり、その時払いの「現金掛け値なし」商方であり確実な利益を上げることができた。このようにすると年に2回、盆、暮れの勘定の取りこぼしが少なくなるわけである。番頭とか小僧がこの現金係を努めたようである。
商家ではよく見えるところに役割を示すものの名前を書いた木札を壁にかけてあり、店に入ってきたお客によくわかるようになっていた。越後屋は、現金で商売をした、大名に金を貸さなかったという2つの点で後の成功につながったという。大名に金を貸して、その取立てができずに潰れていった商家はこの時期後を絶たなかった。越後屋は出身地の松坂が紀州徳川家の支配下にあったので、徳川氏と徳川幕府の雑用を取り扱っていた長岡牧野氏とは、ある程度の付き合いはしたという。越後屋は伊勢商人、近江商人らと競い合った。越後屋が競り負けた事例に西川という呉服屋と番殿という蚊帳屋があった。越後屋がのれんわけをしたその主人の身元と性格がはっきりせず、越後屋としてはふがいない失敗例を出したというわけである。できの悪い手代は越後屋にもいたわけである。
江戸は上方、および関東一円からも物資が流入し商業的にも発展した。周囲の産物を中心地で処理する商業を「地回り経済」と呼ぶが、これにより関東全体の経済も高揚した。町方にも余裕ができた。隅田川の本所、深川に遊ぶ地域も生まれた。舟遊び、桜見物、亀戸、神社めぐりなどなど。南では品川駅の近くの御殿山が桜の名所になった。品川宿の中に海安寺があり紅葉の名所となっていた。庶民は遠くに一泊か二泊して鎌倉や江ノ島に出かけた。浅草観音、神田明神なども栄えた。回向院は正午から本尊を開帳した。日光の東照宮(これは武士だけであったが)や信濃の善光寺の開帳がしばしばおこなわれた。見世物小屋もできた。中心の両国橋は繁華街となった。珍動物、軽業師などが民衆を和ませた。歌舞伎座ができ市川団十郎というような名優も輩出した。京都の俳優で唐十郎というひとは柔らかな芝居で女性に人気があった。江戸に楽しむ場所ができ、庶民は明日の芝居を予想して楽しんだ。それでも江戸の人口増加のため18世紀前期には江戸市中からホタルが消えた。八代将軍吉宗は品川御殿山、飛鳥山、隅田川東堤上に桜を植樹し、中野村に桃園を開設し行楽の場所とした。
「天下泰平五穀豊穣」を眼目とする旅行は巡礼として出入りの厳しい江戸から出ることのできる数少ない手段であった。金のない庶民のことでもあるので、講や代参と称して集団で、お伊勢参りに出かけたのである。東海道はその交通の要所であった。
五十三次とは日本橋から京都までの間にある53の宿場のことである。すなわち、品川から大津までの宿場の数である。宿場は約10km間隔で設けられていた。宿場間で最も短距離にあるのは御油と赤坂間でこれは1.6km、宮(熱田)と桑名の海上距離を含めた28kmが最も長い。
江戸は、ジョン・ロドリゴの記載にもあるように、塵ひとつ落ちていないきれいな街であった。その理由は、江戸にはある程度の上水道(水の処理がうまくいく設備)があったこと。物質やエネルギーの再利用、再生(リサイクル)が行き届いていた点にある。江戸では表店の裏にある裏店に各長屋を作り、各長屋を管理する大家を置いた。大家にとって裏長屋の店子は子も同然であった。各長屋で空き地をこしらえ、ごみため、井戸、便所を3点セットで一箇所に置いた。この場所にゴミを捨てていたのだが、江戸幕府が町方にゴミを隅田川の永代島(永代浦)に捨てるように指示したのは、明暦元年(西暦1655年)11月のことである。ゴミ処理に関して、芥集、運搬、処分という役目の業者が決められた。さらに長屋の空き地は必ず設け、集会場として利用することも禁じた。いわゆる遊ばせる土地を、江戸幕府は意図的に作っていたのである。@町中の者、川筋へはきだめのゴミ捨てまじく候、船にて遣わし、永代島に捨て申すべく候。ただし夜はご法度にて候間、昼ばかり申すべく候Aくあいせん(廻船)の船、むざと懸けおき申すまじく候、船道を空け候て、通し船つかへ候はぬ様に懸けおき申すべき事Bめんめんのかしばた、少しも川を埋め、突き出し申すまじく候事。この時期の将軍は徳川家綱、老中は酒井忠清であった。それでも明暦の大火、振袖火事は明暦3年に発生している。前記のような火付けがあった理由もある。江戸幕府は町奉行のみならず火盗あらためなる役職まで作らなければなかった。
海運の発達のために水路の浚渫(しゅんせつ)がおこなわれ、その土砂は、どこかに捨てなければならなかった。元禄12年(西暦1699年)から永代浦の埋め立て干拓がはじまり築地が誕生した。やがて千田新田、石小田新田、平田新田などが誕生し、現在の東京都江東区北砂町、南砂町、東陽町などとなった。ゴミと水路の浚渫土が新しい東京の土地に変わり、この地に新五兵衛、甚兵衛らにより新田が開墾され江戸の食糧の供給に一役買ったのである。
同時期、ヨーロッパの町パリには悪臭が漂っていたという。16世紀のパリの人口は40万人だったが、彼らは屎尿(しにょう)処理に便器を利用していた。しかし市街地内には適当な屎尿を捨てる場所がなく日没を待って、彼らは「ギャルデ・ロー(水にご注意!)」と叫んでから窓から街路に便器の汚物を捨てたという。このような習慣が、伝染病の蔓延をも助長したのに違いない。
江戸の生活はまさに合理的なものであった。衣類は新品でなく夏物冬物ふんどしまですべてレンタル、旨いもので飽食するでなく腹が減ったら大根飯、住居は9尺2間の棟割り長屋住まいがほとんどで質素であった。町のリサイクルを本業として生計を立てるものが多くいた。多少はリサイクルの重要性が見直されてきたが、いまだに使い捨てが当たり前の現在と違って、鎖国で物資をとことん利用しなければならないという生活の知恵が、このようなクリーニング、レンタル、屑拾い、廃品回収、目立て、包丁磨ぎなどの職業を発展させたのであろう。
シーボルトは次のように記録している。編み物にしたり、むしろにしたりする藁の消費は日本では非常に多く、ことに人馬がはくのに用いるのが主であるが、街道でしばしば旅行者が落としたり捨てたりした草鞋靴の山を見かけるが、集めて肥料にするのである。ゴミとなったものが、即、捨てるものとはならなかったのである。歴史読本1992年8月号の大江戸の環境にやさしい生活術から引用してみよう。リサイクル職業名とその役割をあげる。桶なおし:輪替え、竹輪なおしともいう。桶職人は桶を作る他に桶を修繕した。民家の庭先で古い桶を直した。鏡磨き:曇った鏡を磨き再生する。紙くず拾い:紙くず買い商人と違って紙くず拾い人は資本を持たず身なりも浮浪者に近い。拾い集めた紙くずは紙問屋に売った。再生紙である。古着屋:享保年間には江戸に千軒を超える古着屋があった。古夜具を扱う店もあった。露天で「馬」と呼ばれる台に古着や、古着の切れ端を掛けて売る商人も多かった。古傘買い:破れた古傘を4から12文で買い取り、古傘問屋が集めて下請け、失業した武士の副業でもあったが、に張りなおさせた。はがした古い油紙は、ももんじ屋(鳥獣の肉を売る店)に売ったという。肉の包み紙として用いた。湯屋の木拾い:銭湯の従業員にとって燃料になる木などを拾い集めるのは重要な仕事であった。火事場にある燃え残りの材木はよい燃料となったので、取り合いにならないように縄張りが決まっていた。ゴミ取り:農村からまきなどを運んできた帰りに、彼ら農民はおもに生ゴミを集めて持ち帰った。その生ゴミを地面に埋め、醗酵熱をつくり野菜の促成栽培などに用いた。馬糞拾い:宿場は馬が集まり馬糞も多かったが、農家の人が集めて持ち帰り肥料にしたため馬糞公害は起きなかった。下肥取り:汲み取った糞尿は部切船(糞尿運搬船)で農村に運ばれた。下肥問屋、肥料専門の商社もできた。灰買い:燃え残った灰を買い取り、綿紡ぎや肥料に用いた。江戸の庶民のほとんどは「リサイクル賢者」の暮らしをしたのである。
その町民文化は、元禄時代までは上方京都の文化の影響が強かったが、18世紀末から19世紀(文化文政時代)にかけて江戸独自の文化を形成した。文学者や芸人を多く排出した。狂歌で有名な大田稙南畝(なんぽ、蜀山人とも称す)は御家人であったが、狂歌やいろいろな遊びを楽しんだ。山手馬鹿人というパンネームで洒落本も書いた。浮世絵は文化文政時代には錦絵として多色刷の絵となってきた。その錦絵は今日手に入れると何十万円もする。その錦絵は参勤交代に便乗して地方にも広まっていった。
江戸には話しにでてくるだけでも、青大将、蛇、狸、オオカミ、イノシシ、鯨、カワウソ、鷹、ツキノワグマ、トキ、キツネ、昆虫、ウナギなどが生息した。マミ、イクジ、クワッシャ、ウワバミ、ミョウガサメなど絶滅した動物たちも動物図鑑に形態が掲載されている。江戸時代の動物は概して大きかったようである。1m以上もあるイタチとか一尺もあるクモとか、何丈もあるウワバミとかがいたという。シカやイノシシも現在のものより大きかったようである。東京湾の漁獲量も多かった。江戸時代の全国の内海における漁獲量をみると、1位、東京湾、2位、三河湾、3位、広島湾、4位、伊勢湾、5位、駿河湾である。天保3年に日本橋の魚市に集まった魚種はカレイ、スズキ、カツオ、マアジ、ボラ、タイ、キス、クロダイ、ショウサイフグ、アンコウ、ヒラメ、カナガシラ、ホウボウ、メバル、タチウオ、カサゴ、トビウオ、アナゴ、サヨリ、マグロ、ハモ、コチ、サワラ、イシモチ、アイナメ、タカノハダイ、ハゼ、カガミダイ、カイワリ、エイ、コノシロ、イワシ、サバ、サメ、シラウオ、ギンボウ、マルタ、ウグイ、ウナギ、サケ、タラなど種類に恵まれていた。
江戸時代の文化が200年間続いたことはきわめて稀といえよう。鎖国による物質の不足が民衆に省資源の概念を植え付けたのである。質素、倹約、リサイクルの生活の知恵により、物質的には乏しかったが精神的には豊かな工夫の時代であったのかもしれない。日本の人口は江戸時代を通して2千7百万人程度だったという。幕末、文明開化になった3千万人となったが、江戸時代の安定した人口や、リサイクルの発達とともに質素な食や堅実な文化の発展に寄与した、現在が学ぶべきよい点を見逃してはならない。
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江戸時代年号
慶長 1596-1615 元和 1615-1624 寛永
1624-1644 正保 1644-1648
慶安 1648-1652 承応 1652-1655 明暦 1655-1658 万治 1658-1661
寛文 1661-1673 延宝 1673-1681 天和 1681-1684 貞享 1684-1688
元禄 1688-1704 宝永
1704-1711 正徳 1711-1716 享保 1716-1736
元文 1736-1741 寛保 1741-1744 延享 1744-1748
寛延 1748-1751
宝暦 1751-1764 明和 1764-1772 安永 1772-1781 天明 1781-1789
寛政
1789-1801 享和 1801-1804 文化 1804-1818 文政 1818-1830
天保 1830-1844 弘化 1844-1848
嘉永 1848-1854 安政 1854-1860
万延 1860-1861 万久 1861-1864 元治 1864-1865 慶応
1865-1868
|飛鳥時代| |奈良時代| |平安時代| |鎌倉時代| |南北朝・室町時代| |安土桃山時代| |江戸時代|
江戸時代年表
1597慶長の役
1598-醍醐寺三宝院
表書院・同庭園
1599-慶長版本「日本書紀」刊行
1598-仏、ナントの勅令
1600関ヶ原の戦い(徳川氏の覇権確立)
1602-二条城完成
1600-英、東インド会社設立
1602-蘭、東インド会社設立
1603家康、征夷大将軍となり、江戸に幕府を開く「江戸幕府確立」
1603-出雲阿国☆歌舞伎踊り創始
1603-英にステュアート朝
1612直轄領にキリスト教禁止令☆俵屋宗達「風神雷神図屏風」
1616-ヌルハチ後金建国
1615大坂夏の陣,豊臣氏滅亡武家諸法度・禁中並,公家諸法度制定
1609-姫路城完成
1617-日光東照宮建立☆狩野山楽「牡丹図」
1618-独、三十年戦争
1619御三家成立,菱垣廻船を開始
1620-桂離宮建立
1619-蘭、バタヴィア市建設
1629長崎、踏絵始まる
☆貞門派俳諧盛ん
1628-英、権利請願
1637島原の乱,五人組強化
1637-本阿弥光悦没
1636-後金、国号を清と改称
1641鎖国完成
1641-探幽『大徳寺方丈襖絵』池田光政花畠教場設立
1642-英、清教徒革命
1643田畑永代売買禁止令
1645-久隅守景『夕顔棚納涼図屏風』
1644-李自成、明を滅ぼす,清、李を倒し、北京に遷都
1649慶安の御触書
1657-徳川光圀「大日本史」
1648-ウェストファリア条約
1671宗旨人別帳
1665-山鹿素行『聖教要録』
1671-山崎闇斎垂加神道を唱える
1660-英、王政復古
1685徳川綱吉,生類憐みの令
発布,弘安の役
1682-井原西鶴『好色一代男』
1684-渋川春海貞亨暦作成
1686-熊沢蕃山「大学或問」
1689-松尾芭蕉「奥の細道」
1690-湯島聖堂落成
1692-西鶴「世間胸算用」
1687-ニュートン、万有引力の法則発見
1688-英、名誉革命
1689-英、権利章典
1694☆江戸に十組問屋成立☆大坂に二十四問屋成立
1694-芭蕉没
1708-貝原益軒「大和本草」
1709徳川家宣、新井白石らを途用「正徳の治」
1709-新井白石、シドッチを尋問
1700-北方戦争
1701-スペイン継承戦争
1707-英、大ブリテン王国建国
1715☆海舶互市新例
☆白石『西洋紀聞』
1716徳川吉宗、将軍となる,亨保の改革
1716-尾形光琳没
1719相対済し令☆荻生徂徠『政談』
1723上げ米の制,足高の制
1724-懐徳堂設立
1742「公事方御定書」制定
1740-オーストリア継承戦争
1758宝暦事件☆出雲「仮名手本忠臣蔵」☆安藤昌益「自然真営道」
1756-七年戦争
1782田沼意次、側用人となる「田沼時代」天明の大飢饉
1765-鈴木春信、錦絵創始
1774-「解体新書」
1769-英、ワット、蒸気機関改良
1772-第1回ポーランド分割
1775-アメリカ独立戦争
1776-アメリカ独立宣言
1787寛政の改革
1787-円山応挙『雪松図屏風』
1789棄捐令
1789-米、初代大統領ワシントン,フランス革命勃発
1793大御所時代
1802-十返舎一九「東海道中膝栗毛」
1804-ナポレオン皇帝即位
1808フェートン号事件☆滝沢馬琴『椿説弓張月』☆式亭三馬『浮世風呂』
1828シーボルト事件
1818-平田篤胤「古史徴」☆葛飾北斎『富嶽三十六景』
1814-ウィーン会議
1823-米、モンロー宣言
1830-仏、七月革命
1832-英、第1回選挙法改正
1837大塩平八郎の乱☆渡辺華山『鷹見泉石像』
1837-ヴィクトリア王女即位
1838村田清風、藩政改革に着手
1838-中山みき天理教を開く
1839蛮社の獄
1840-アヘン戦争
1841天保の改革
1842-南京条約
1853ペリーの艦隊来航
☆椿椿山『渡辺華山像』
1852-仏、第二帝政
ナポレオン3世即位
1853-クリミア戦争
1854日米和親条約
1855-日蘭和親条約
1856-吉田松陰、松下村塾を設立
1856-アロー戦争
1858安政の大獄
1859-金光教を開く
1857-セポイの反乱
1860桜田門外の変
1860-河竹黙阿弥「三人吉三廓初買
1860-清、英・仏と北京条約、露と北京条約
1862生麦事件,黙阿弥「弁天小僧」
1861-露、農奴開放令
1863薩英戦争
1863-米、奴隷開放宣言
1864四国艦隊下関砲撃事件
潮待ちと省エネ
万葉集 額田王(ぬかたのおおきみ)
熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜
熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
,にぎたつに,ふなのりせむと,つきまてば,しほもかなひぬ,いまはこぎいでな
661年斉明天皇の船団が伊予の熟田津(にぎたつ)、石湯(いしゆ)の地に停泊していたときの、船出の歌だといわれています。大伴旅人(おおとものたびと)は大酒飲みであったので、潮待ちの皆と、鞆の浦に滞在したときには、額田王のような合理的な歌を詠う瞬間がなかったのであろうが、「にぎたつに,ふなのりせむと.つきまてば,しほもかなひぬ,いまはこぎいでな」は現在のエネルギーと時間利用を古人に学ぶ絶好の句である。
熟田津(にぎたつ)の港は松山港のことである。
国土交通省のHPによれば、松山港は、古くより万葉集に詠まれた「熟田津(にぎたつ)」の港として広く知られています。「天与の運河」ともいわれる瀬戸内海の要衝として船の出入りが頻繁で、高質の行幸も多かったことから、内港地区は「御津(みと)」と呼ばれ、後に「三津(みつ)」とあらためられました。現在の「三津地区」がこれにあたります。慶長八年(1603年)、加藤嘉明が松山15万石の城主となり、市のほぼ中央にあたる勝山山頂に松山城を築造した際には、西港山に御船衆を置き、宮川河口の三角州に船溜まりをつくって洲崎町を形成。「御津」は、伊予水軍の「海の拠点」でした。松山港が港としての形態を整えたのは、当時、松山の象徴といわれた坊っちゃん列車の開通、阪神航路の就航が実現した明治21年。高浜に大阪商船の専用桟橋をはじめ、高浜桟橋と埋立護岸、倉庫等が建設されました。昭和15年には、津浜町と松山市が合併したのを受けて、港名を「松山港」と改称。戦後の昭和26年には、国の利害に重要な影響を与える「重要港湾」に指定され、さらに昭和29年には、愛媛県の管理する県管理港湾となりました。引用終了。
瀬戸内海は干潮満潮により潮位が2回上下する・・・というより、瀬戸内海の流れが西から東、東から西、また西から東、東から西へと4回も変わるのである。風もない凪の多い瀬戸内海では潮の流れによって各地の名産を大阪まで船で運んでいた。運送のほとんどのエネルギーは潮の流れ、地球と月の引力である。
たとえば東行きに、下関から東行きに船で潮に乗る。6時間乗ると鞆の浦、大崎下島御手洗、牛窓もしくは熟田津、例外的には、その他下記の港のいずれかに近くなる。潮待ちの港は瀬戸内海にはさらに整備され、ほかに室津、韓泊、魚住、大輪田、河尻、方上(片上)、那ノ津(福岡)、児島、敷名、長井浦、風早、門司、富田、上関、深溝、揚井(柳井)、尾道、田島、院島(因島)、難波津、川尻、兵庫、堺、尼崎、天保山、雑喉場があった。潮流が弱くなると、前記の近くの港で停泊(潮待ち)をする。潮流が逆になるからである。逆の潮流の時にはあくまでも逆らわない。次に順潮流になるまで、この地で停泊して6時間潮待ちすれば、また再び東行きの潮流に乗れ大阪に到達できるという自然の規則的な現象を利用した、単純な理論の航行法である。熟田津での6時間の合間には、道後温泉が発見されていたかどうか検証していないが、聖徳太子も入った石湯温泉も近くにあったから、きっと温泉に浸かって潮待ちを過ごしたはずである。瀬戸内海海運が主流の当時においては潮待ち茶屋や潮待ち酒場がこれらの地域では発達していたようだ。
時間を待てば、流れが変わり、エネルギーを使わなくても目的を達成できる。これは、ややもすると現代人が忘れそうな省エネ生活の知恵だと思う。
暇を作って読んでいただいてありがとう。今度は読みやすくしておくので、また、お立ち寄りください。
暇つぶし読本の作者 峠杉太郎: この他の著書:
下記の 4冊は国会図書館献本 01 02 03 04、香川県立図書館 1 2 3 4 、高松市立図書館 11 12 13 14納本済み |
著書 科学閑話 和風呂出版 |
著書 新科学閑話 和風呂出版 ISBN990028430 C0040 |
著書 科学閑話(改訂版) 和風呂出版 ISBN990028449 C0040 |
暇つぶし読本:鬼無信 編
編集者略歴:昭和25年香川郡上笠居村鬼無(現在の香川県高松市鬼無町)に生まれる。鬼無の盆栽で有名 無線通信JA5DWY(since1968AD)
ISBN4-9900284-6-5(完成時に製本予定)
キョウコロジーISBN4-9900284-7-3 C0076¥735