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福岡正信の自然農法と茅茫庵(3)


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「病虫害」をどう理解するか



 前ページにおいて、これまでの私の野菜栽培についてその経験を話してきたので、再び少し硬い話をすることにしたい。
 「農薬を使わないようにする」ということが、どのようにして実現されたかということについて、少し抽象的な話にしてみたい。堆肥を入れたり、草を生やして刈り倒すということによって農薬の使用が不要となってきたのだが、これがいったいどういうことなのか、解釈してみたい。
 「野菜に虫がつく。病気になる。」とはどういうことなのか。
人は、「虫がついたり、病気になると作物が健全に成長せず、収穫に至らない。だから、防除しなければならない。」
と考える。農薬を使うものはそう考えるのである。私も、どうしようもなく、はじめはそう考えた。
この論理は整理すると
「病虫害は作物の生長を阻害する原因となる。だから、原因となる病虫害を防除しなければならない。防除方法として農薬を使用する。」
ということである。
 農薬を使用する者の論理は、病虫害という現象を生長阻害の原因とのみ見ている。ここに、現象を見る目に誤りがあると言える。「病虫害」は、生長阻害の原因であるだけではない。「病虫害」という現象は原因であるだけではなく、結果でもある。あらゆる現象は原因でもあり、結果でもある。「病虫害」はなんらかの現象を原因とする結果なのである。
 作物に虫がついたり、病気になる現象をみて、よく観察し、よく分析しなければ、虫や病気はどんな作物にでもつくものだ、作物が元気で正常であってもつくものだ、という漠然とした考えから抜け出ることができない。人は漠然と「虫は食べなければならないから自分の好きな作物を食べている、私が育てている作物を食べるのは虫にとっては自然でとうぜんなことであり、避けられないことだ」と思っている。だが、虫や細菌類が作物を食べるのは、闇雲に何でも食べているわけではないのである。
 虫や細菌が食べているものでは分かりにくいので、カラスを例にとってみよう。カラスは結構柿が好きである。ミカンも食べる。だが、柿が好きだからといってカラスは青い柿の実を食べはしない。青いミカンを食べたりはしない。真っ赤に熟してすっかり甘くなった柿の実を食べるのである。本当に美味い時を人間よりもよく知っている。動物であれ、植物であれ、他の生物を食べるとき、その食べ時というものをしっかりと弁えているのである。アフリカの大地に住む肉食獣たちは、いくら好物の草食獣でも元気のいい奴を狙いはしないという。弱った奴や幼い草食獣を捕らえて食べるのである。人間の体に入った赤痢菌やコレラ菌でも体内に入れば誰でも赤痢患者やコレラ患者にするわけではない。疲れている人間や不健康な弱い状態にある人間の体内で猛威を振るい始めるのである。
 畑の中に、たとえばいくつものキャベツを定植しておくとする。すると、新芽のあたりにアブラムシが大量に食いつくことがある。よく観察してみれば分かるのだが、並んで接近しているキャベツの中でアブラムシがいっぱいついているキャベツのとなりに全く虫がつかず、元気いっぱいに育っているキャベツをみることがある。アブラムシは飛んでやってくるのだが、どうして一方について隣にはつかないのか? 何らかの理由によって一方は、アブラムシにとって「食べごろであり」、もう一方は「食べごろでない」からである。
 作物に虫がついたり、細菌がついて病気になるというのは、それ自体が、自然の中では極めてあたりまえの現象としてよく見られるのだが、生育中に虫がついたり、病気になるのは虫や細菌の存在が原因なのではなくて、虫や細菌が食いつきたくなるような状態が作物自身にあるということなのである。作物に虫や病気がつくというのは、作物自体が虫や細菌を呼び寄せているのであり、作物自体が虫や細菌にとって「食べごろになっている」ということなのである。作物自体が「食べごろ」に成っていなければ、作物に食らいついたところで、大きく口を開けて鉄の塊に食らいつくのと同じく、食べることは出来ないのである。だから、元気のいい野菜を観察していると時々見られるのだが、虫が食害した跡がありながら、虫がどこかへ行ってしまったという事態が起こるのである。話が、少し「禅」的になるが、カラスが真っ赤に熟した柿の実を食べるのは、柿の実がカラスを呼び寄せているのである。人は米を食べるが、人が米を食べるということは、米が人に食べられることを求めているということである。柿は鳥に食べられることによって種子を遠くまで運んで貰えるし、米は人に食べられることによって世界中の田んぼで繁栄しているのである。これと同じように、野菜に虫がつくのは野菜が虫を呼んでいるのである。
 作物に「病虫害」という現象が起こるのが、実は虫や細菌の側にだけ本当の原因があるのではなく、「虫や細菌がつくのは作物自身に原因を持つところの一つの結果である」ということが了解できれば、農薬を使うのではなくて、「病虫害」を防ぐ本当の方法が見えてくるのである。生育中の作物が生長状態にありながら、他の生物の餌食となる、つまり「食べごろになる」というのは、「作物自身が成長過程にありながら、虫や病原菌を呼ぶということであり、作物として健全な成長状態にない状態にある」という現象である。「健全でない作物」という現象である。この現象がまた一つの原因であり、また、結果である。
それでは「健全でない作物」という現象を生む原因とは何か。それは、その作物を育てる環境の中にある。それは、土であったり、水であったり、空気であったり、光であったり、気温であったり、虫であったり、微生物であったり、種種の動物であったり、ということである。
 一口に土、水、空気、光、気温、虫、微生物、動物などと言うが、土だけを取り上げても、土はどこの土でも同じなのではなく、土は場所によっても、その土の経歴によっても絶えず変化している。石ころだらけの土、砂地のような土、鉄分を沢山含んだような赤土、粘土質の土、水が染み出るようなジュクジュクした土、腐葉土を沢山含んだ土、化学肥料を何十年も撒きつづけた土、農薬を散布しつづけた土、有機物を大量に鋤き込んだ土、様々な成分を含んだ産業廃棄物を投棄していた土などと本当に様々な土がある。しかし、土はこのようであるばかりではなく、そこに生息する植物によっても、動物によっても変化する。酸性の土を好む植物もあれば、アルカリを好む植物もある。植物がたとえば地中にある鉄分をどんどん体内に取り込む種類の植物であれば、その植物の生息によって地中の鉄分は植物の体内に移ってしまう。この植物を人間が外にもちだせば、そこの土の鉄分は減少する。カリ、とかカルシュウムとか、そのほかについてもそうであろう。
しかし、植物は土の中の成分だけを体内に取り込んでいるのではない。空気や雨、露の中に含まれている成分もまた
取り込んでゆく。この植物が枯れてその場で分解していけば、空気の中に含まれている成分が地中にとどまることにもなろう。
 このように作物を育てる環境というものは、実に様々で絶えず変化しているのであるから、作物が健全に育ち得なくなる危険は無限にあるわけだ。しかし、植物はそれらの危険に対する順応性というものも又身につけているわけで、危険が即障害になるとは限らない。しかし、こうした危険性が現実のものになったとき、作物は不健全な状態になり、細菌や虫たちの食欲がモーレツに働きはじめるのである。
 「病虫害」という現象が、作物をめぐる環境の結果であるという観点に立てば、環境上の問題がどのようなものであっても、作物の環境を変えてみるということによってしか、問題は解決できない。何が問題であるかは、経験済みで、すぐに判断できるものはすぐにわかるが、経験の無いものは、とにかく何かアクションを起こしてみるほかはない。何かをやってみて障害が克服できればそれでよいのである。
 しかし、何かをやってみるということの中には、私がやってみた、草だけの堆肥を施すとか草をばら撒いておく、というようなやり方もあれば、農薬や化学肥料を撒くということもその中に含まれる。そして、全く何もせず放置しておくことも時間はかかるが環境の変化を引き起こす一つの方法である。もちろん無農薬を目指しているのだから、農薬をまく者はいないではあろうが、農薬でなくても何かのアクションを起こせば環境は変化するのである。
何らかの物を、作物の周りに施せばそれは人間の期待した結果をもたらすかもしれないが、そうでない結果を引き起こすこともある。期待した結果と、起きてほしくない結果が同時に起こることもある。人間は自分の行為によって期待した結果が見られるとそれによって自分の行為の正しさを誇るが、もう一方で静かに引き起こされている好ましくない結果について気が付かないということがよくある。人間の行為というものは、常にプラスになるとは限らずマイナスを同時に引き起こすのである。
 前にも、書いたが、庭に生える草をずっと引き抜きつづけると、生える草は年を経るごとにだんだん小さくなっていく。
あるいはまた、違った種類の草が勢いを持ち始めたりする。人の除草という行為が、植物の生育環境を変えているのである。これと同じく、畑の中の草を引き抜きつづけ、引き抜いた草を畑の外に出しつづければ、この畑の環境は植物にとってきわめて過酷な環境となる。この土にさらに化学肥料を撒き続ければ化学物質は土壌と反応して様々な結果をもたらす。化学肥料の施肥によって作物は生長し始める。このことによって人は化学肥料の効果を認めるのである。だが、このとき人は静かに進行しているマイナスの効果を見落としている。人の目には生長する健全な作物にみえるのだが、実は不健全に生長しているのだ。ここに細菌や虫が食いつくのである。しかし、人は化学肥料を撒きつづける。そして、病虫害に悩まされ、農薬を散布する。農薬を散布することによって、さまざまな虫や微生物を殺し、土に反応して作物をめぐる環境を変える。農薬は病気や虫害を減らすが、もう一方で不健全な作物を作り出す。こうしてまた、細菌や虫が食らいつく。細菌や虫は空中を飛び回っており、食べごろの作物を見つけるのが得意なのだ。
 このような、悪循環の苦しみから抜け出すには、タバコを止めようとするとき、理屈無しにタバコをやめるのと同じように化学肥料の施肥を止め、農薬散布を止めるしかない。肥満が空腹を引き起こし、空腹が食欲を引き起こし、食欲が肥満を引き起こすとき、肥満から抜け出すには、空腹を我慢し、食欲を満たすことなく、耐え忍ぶしかないのと同様である。わたしは38パーセントの超肥満体だったが、このように耐え忍ぶことによって標準体重ぴったりに戻した。ダイエットの方法がいろいろ考えられたり、紹介されたりしているが、一番確実なのは食欲を抑え、空腹を耐え忍ぶことである。
 しかし、畑で化学肥料や農薬散布を止めたらすぐに病虫害が止まるかというと、それほど甘くはない。化学肥料や農薬散布を続けてきた畑は施肥や農薬散布を止めてもすぐに作物が健全に育つような環境に戻りはしない。私が使っている畑は一年目のキュウリの後は散々だったので、その行き詰まりの中で、鍬で土を掘り起こすようになったのだが、この土が実に固かった。本当に骨の折れる作業だった。いま、その当時の写真を取り出してみてみると、草の生長さえ十分には出来ず、葉が青々しているべき時期に草にさえ、うどんこ病のような白い粉が吹いている。
 私は、無自覚的に草も十分に生長できないような畑で作物を作っていたのだ。その上、野菜の残骸や生長不足の草まで畑の外に出していたのである。私は、しばらくの間は、畑の環境を悪化させつづけていたのである。
 作物を作る環境というものは、土であり、水であり、空気であり、光であり、風でありと言う具合だが、作物の周りに生える草や木、そしてその作物自身も環境なのである。これらの環境と言うものは作物とは違うものとして認識され、とりわけ、草などは作物と完全に分けられ、草を取り除くことが重視さりたりする。私が使っている畑は、実は使い始める直前に兄が除草剤を撒いていたのであるが、この例に限らず、草の存在は嫌われ取り除こうとされる。しかし、雑草が生えるのを良く見ると、雑草は除草しないで数年放置すれば年を追うごとに繁るものである。いろいろな種類の雑草がともに繁ってくる。作物は人間が選び取った草であり、本質的に雑草と異なるものではなく、草なのである。
 土、水、空気、光などは植物と切っても切れない関係であり、植物は例外はあるものの土から切り離したり、水から切り離したり、空気や光から隔離すると枯れてしまう。それと同様に他の植物から切り離すことはその植物自体に打撃を与えるのである。人の認識は土と植物を別のものと考えるが、それはそのように認識する人間の認識にとって容認されることであっても、土と植物は別のものではないのである。そして、植物は土だけでなく、水、空気、光、そのほか重力などといったものも含めて、極論すればこの宇宙そのものと一体なのであって「一輪の花は宇宙そのものである」といってよい存在なのである。種種の雑草が競い合うようにして、互いに助け合うようにして生長するのであるから、草と作物もそのような関係であり、これが基調なのであるが、土と植物が切り離せないからといって何らかの理由で土がその植物を覆ってしまったときには、人手によって土を取りのぞかなければならないように、作物が他の草に覆いかぶさられて光を失うといった状況が生まれれば、やはり人手によつて草が邪魔にならない程度のことはすることが必要になる。しかし、草を作物から引き離してしまうわけにはいかないのである。柿の実がほしくて柿の栽培をするとき、「人がほしいのは柿の実であって柿ノ木や柿の葉ではない」といって未熟の柿の実を木や葉っぱから分離することはできない。柿の実は柿の木や柿の葉から分離できないように、作物は土や雑草から分離できない。作物も雑草も土や水、空気、光、もろもろの植物などがその姿を作物や雑草に変えたのであって、作物や雑草は再び、土や水、空気などに返っていくのである。このようにして、作物はその環境とは別の存在として人間には認識されているが、じつは作物はその環境そのものであって、環境は環境、作物は作物と分けることはできないのである。人の目には、土は土、水は水、光は光、作物は作物、雑草は雑草といったように別々のものと見えるが、それらは人間の目にそのように見えるのであって、実は様々に変化するものの一時的な仮の姿でしかない。それは時とともに変化し、今、作物であったものが、いつのまにか土や水や空気のなかに溶け込んでいくのである。作物もこのような変化の中での一時的な仮の姿でしかない。私たち人間の目に見える、土や水、光、空気、作物、雑草などは仮りの姿なのであるが、その実体は福岡氏の表現を借りれば「無」なのである。畑の中で、この「無」が変転をしつづけて様々の仮の姿を演じているのである。が、この仮の姿と言えども、その畑の中から雑草と人間が目するところの植物を恒久的に取り除きつづければ、その畑の中で行われている正常な変転というものが阻害されて異常をきたすのは成り行きというものである。
 私の使っている畑は長年にわたって、肥料や農薬、除草剤の使用や除草によって畑という環境が壊されていたのである。雑草も正常に生長しないような状況になっていたのである。そのような畑という環境に対して、十分な自覚は無かったものの、草や作物が枯れてその姿を変えたものと同じ「草だけで作った堆肥」や「刈りとった草」を持ち込むことによって、この畑という環境は正常な環境に戻ってきたのであり、これによって作物は「病虫害」が減少し、農薬の使用を不要のものとしたのである。
 農薬を使用するものの論理は、このページのはじめに書いたように「病虫害は作物の生長を阻害する原因となる。だから、原因となる病虫害を防除しなければならない。防除方法として農薬を使用する。」ということだが、自然農法では「病虫害は作物をめぐる環境の不正常によつて引き起こされた結果であり、環境を不正常にした原因を取りのぞかねばならない」ということである。環境の正常とは、自然のままのサイクルの保持であり、不正常とは自然に対して行われた人為によるサイクルの異常である。
(2001年1月28日)

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環境と作物



 私は、いま、「作物はその環境そのものである」と言った。作物の状態は環境なのだといっているのである。では、環境とはどういうことか、もう一度考えてみたい。土や水、空気、光、闇、風、気温などが環境としてまず思い浮かんでくる。そして、さらに思い浮かべると、そこに生息する虫や鳥、獣、土の中の微生物、そこに生えている草や木、土の中に混じっている石ころなども環境である。普段余り意識されることの無い重力や月の引力といったものも作物に影響を与えているであろう。しかし、作物の立場にたって環境というものを考えてみると、実は「人間」こそは最も大きな環境要因の一つなのである。人間ほど厄介な環境要因はないのである。人間は作物とその周辺に対して様々な行為を行うのであるから、作物をめぐる環境変化の大きな要因なのである。人間は作物の周辺環境を劇的に変えていくのである。様々な農行為、土を耕す、肥料を撒く、根寄せをする、剪定をする、摘果をする、農薬をまく、支柱を立てる、防鳥網をはる、などなどの行為は作物の周辺環境を変えるために行っているのである。作物の立場からすればめまぐるしく環境を変えていく環境要因が存在しているということである。
 作物をめぐる環境に関与するという点では、自然農法であれ、有機農法であれ、化学や科学の産物を利用した農法であれ、みな同じことである。環境に関与しない農というものはないのである。人間が環境に一切関与せずにいるということは、人間がこの世に存在しないということによってしか可能にならないのである。人間が農行為を一切行わず、ただ木の実や草を採集して食べているだけのことであっても、このことだけでも環境を変えているのである。微生物が堆積した枯葉の中で活動しているだけでも環境を変えていくのと同じである。
 自然農法も他のどのような農法とも同じように環境を変えるための人間の農行為を排除するものではないのである。排除するどころか、環境を変えるための方法を豊富に持っているのであり、そうでなければ自然農法は不可能になるのである。農薬や大量の化学肥料の投下によって荒れ果てた畑で、農薬や化学肥料の投下を止めるだけでは作物が順調に育つ畑になるのに相当多くの時間を費やしてしまうことになるのである。福岡氏が「不耕起、無肥料、無除草、無農薬」とか、「無手段の手段によって」などと表現しているからといって、人間が全く何もせず「放任」状態を継続していれば作物が出来るのだ、などと言っているのではないのである。これでは、「農法」にならないのである。福岡氏自身が、田んぼで、畑で、果樹園で思いつく限りの様々な手段をこうじつくして数十年を費やしているのである。昼寝をしつづけて数十年を暮らしたのではないのである。
 自然農法であれ、有機農法であれ、科学農法であれ、環境を変えるというのであれば、では一体何が違うのか、ということになる。福岡氏の自然農法が他の農法と違うのは、福岡氏の農法はたとえ人が手を入れるとしても、手を入れること、すなわち人為が無くなる方向へと向かうのである。それに対して、有機農法や科学農法は人為によってさらに大きな人為を必要とする方向に向くのである。
 たとえば、普通人々がよく行っている農法では、次のような順序になる。
 山や野の木を伐採する。木の切り株などを取り除く。土を掘り返す。木や草の根を取り除く。肥料を撒く。作物の種を撒く。草をとる。農薬を散布する。収穫をする。といった具合である。
 このようにしていくと、畑の中は見た目には美しい畑になるが、土を掘り返したり、肥料を撒いたり、草を引いたり、農薬を散布するという農作業から解放されることが決してないのである。畑の中から木の切り株や、木や草の根、草を取り除き、土を掘り返すということによって、作物が自然に生長するための環境が絶えず破壊されていくからである。このようにして作られる畑は地下深くの土が剥き出しになった状態に近いもので作物が生長するような土ではないのである。だから、肥料を撒くことによってそれを補おうとするわけであるが、化学肥料を撒いたりするとよい影響だけではなく、悪い影響も出てくるのである。そして病害虫などが発生し、農薬を絶えず散布するということになり、悪循環を繰り返すのである。
 有機農法は、化学肥料を撒くかわりに有機物を大量に持ち込むが、草を生やしたりはしない。有機物を持ち込む一方、自然に生えてくる草の力を生かさず、持ち出すこともやっているのである。鶏糞、牛糞などを多用することにより、虫害にも悩まされたりする。虫害をなくすために農薬ではないが、除虫菊とか、木酢液の噴霧、などの使用を模索する。有機農法は、土を掘り起こしたり、除草したり、有機物を大量に持ち込んだり、虫取りに追われたりと、相当な重労働になるのである。
 しかし、自然農法では、化学肥料や農薬の多用で痛んだ畑を回復させるために有機物を持ち込んだりということも一時的には行うとしても、草を生やすことによって土を耕したり、牛蒡などの根を深く伸ばす作物を植えることによって土を耕すとか、木の根をとらずに自然に分解するのを待つことによって土を改良するとか、豆類を植えることによって根粒菌の活躍を待つとか、畑の周りに落葉樹を植えて木の葉が落ちるのを待つといった方法によって、土が自然に肥えていくようなやり方をするのである。だから、はじめの内は人の力も投入するのであるが、次第に人の力は少なくて済むようになるのである。
 もともと、科学農法は人為に力があることを信ずる農法であり、自然農法は自然に力があることを信ずる農法であるから、科学農法はどこまでも人の力を投入しようとするし、自然農法は人の力を抜く方向へと進むのは当然である。科学農法は本来科学とは縁遠い農民が考え出したものではなく、農業に従事しない科学者が開発し、資本が工業的に作り出した肥料や農薬、設備をつかって行うものであるから、そうした人為が減っていく方向には決して開発されないのである。自然農法は自然の力を利用して環境を整えていくのであるから、経費は減っていくのである。しかし、科学農法は科学技術が作り出した肥料や、農薬、設備などをどんどん使っていくのであるから農民の負担はどんどん増えていくのである。日本の農家が経営に行き詰まり、離農者があふれ返ったのは当然である。(2001.6.13)

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 農法と経済的投資効果



 世間的には、科学の生み出した技術は経済的効果が高いと信じられていて、新しい科学的発見が新しい技術を作り出し、どんどん取り入れられていくのであるが、私はこうした科学技術の発達が本当にそのような効果があるかどうか極めて疑問に思っている。たとえば、コンピュータが作られるようになって、まだ珍しい時代には大変儲かる世界でもあったろうが、いつのまにか他の産業と変わらず、好況と不況を繰り返すようになり、沢山のコンピュータ関連の会社がつぶれたりしている。儲かる世界には多くの人や会社が参入し、あっという間に供給過剰になり、不況業種になってしまう。科学技術は、ある程度努力すれば誰にでも習得できるものであるから、参入する人や企業があっという間に増えてしまうのである。だから、誰にでも開かれるべき知識であることが前提とされながらも、アメリカがいうように「知的財産の保護」などという新しい権利概念が発明されたりもするのである。せっかく、巨額の資金を投資して新しい発見をしたり、技術を開発しても、誰もが簡単に利用するようになると投入した資金が回収できなくなるというわけである。特許という形で「知的財産」を守ろうとしたりするわけであるが、今日では特に遺伝子工学の世界でこの特許権が大きな問題にもなってきている。人の遺伝子の研究が進んでいる中で、研究のために血液などを提供した人に無断で、研究した企業などが特許を申請してその成果を独占したりしているからである。このような事例は科学というものが、人間や企業の欲望によって支えられているということの証明であり、「科学は誰もが認める真理である」といった上品なものではなく、科学が人間の欲望の下女であることの証明でもある。昔、「哲学は神学の下女である」と言われた時代があるが、いまや「科学はマネーの下女」に成り果てているといった感がある。
 わたしは、大都市での生活に見切りをつけて地方都市にもどり、生まれた山村の畑に週末百姓として通いつづけているのであるが、このような生活をしている根本的な理由は何かといえば、経済的な理由こそが第一なのである。私が、東京での職を捨て、松山市に移ったとき、新しい職をすぐに得たけれども、収入は年収水準でみると3ぶんの1程度であった。現在松山市で13年経過したが、未だに以前の年収に及ばない。転職者の地方都市での収入は簡単には増加しないのである。
 収入減をどのようにして補うか。そう簡単に補うことなど出来はしないのである。では、どうするか。答えは簡単。少ない収入に満足すること。欲望を小さくし、コントロールすることである。収入が少なければ、買える物は少なくなる。人は買えるものが減ると欲求不満になりがちだが、この欲求不満を解決する方法が人間には備わっているのである。その方法とは買わないことを楽しむということである。買わないことを楽しみ、買う代わりに作ることをして、作ることを楽しむのである。
 金が無ければ、買う楽しみの変わりに作る楽しみを作ればよいのである。作る楽しみは買う楽しみに劣らず満足感をもたらす。東京・川崎に住んでいた頃、年に6,7回は温泉地や観光地に宿泊し、外食を楽しみ、替えるたびによい車を買い、高額のステレオやパソコンを買うといったことがあたりまえのようになっていたが、松山での生活はそうはいかない。宿泊する旅行は年に1回にもならない。2000CCの車は軽自動車と取り替えた。1回1000円を超えるような外食は年に2,3回程度。パソコンは5年は使って、安いものを買う。衣類は着れるものは30年近く前に買ったものでも着る。靴は底に穴があいても、履ける間は履く。普段着は1本1000円程度のジーパンやシャツを着る。人は、金を使う生活だけが楽しめるのではない。金を使わない生活も楽しいのである。金をもうけることを楽しむ人もある。金をもうけることに楽しみを見出す人がいるのと同じように、金を使わない生活を作ることに楽しみを見出す人がいるのである。金を使わない生活の究極は何であろうか。生活に必要な物を自分で作るということである。無から有を生み出すのである。自分で作れば金は要らない。本来、人が物を買い求めるのは、物に金品的価値があるからではない。物に使用価値があるからである。何らかの使用目的を実現するから物を買い求めるのである。だから、使用目的を実現するものであるならば、別に買い求めなくても、自分で作ったものでよいのである。自分の生活に必要な物資を自分で作る。ここには人間を十分に満足させるだけのものがあるのである。
 昔、自給自足の経済を営んでいた人々は、現代人に劣らない満足感を持っていたであろう。彼らは生活に必要な物を身近な自然の中から材料をみつけて作り出していた。彼らには自分の立っているところが黄金の大地だったのである。
 私が、今日の生活に必要な生活物資の総てを自分で作るということは、もちろん出来ない。しかし、一部はできる。私は、その一部を野菜栽培に求めたのである。野菜を作っても売って金をもうけるために作るのではなく、自家消費のためであり、せいぜい余ったものをおすそ分けする程度であるから、金額に換算してみるとたいした金額になるわけではない。せいぜい年間で10万円から15万円程度のものであろう。自家消費用の野菜を作ってみてもそれほどそのことによる利益は無い。しかし、毎週末に畑に行くということは、その他の休みの楽しみを捨てるということである。たとえば、毎週末に野菜つくりの変わりに、ゴルフかパチンコをやるとしよう。月に1万や2万の出費ではすまないのである。ゴルフやパチンコにかりに3万円使うとしよう。年間36万円、それに野菜の自家消費分10万円を合わせて46万円の差が出てくるのである。しかも、満足感は十分にある。
 さて、自家消費のための野菜つくりなら、せいぜい年間で10万か15万円程度のことにしかならないのではあるが、同じ自家消費、趣味としての野菜つくりといっても人によって色々である。私は、道具は鍬、鎌、スコップ、はさみ、カッター、ロープ、一輪車程度の物を使って作業をしている。ところがある日養鶏場を見学に行った途中で見たのであるが、週末百姓がせいぜい50坪程度の畑で、トラクターを使って畑の土を起こしているのである。土は固そうだから、トラクターを使いたくなる気持ちもわかる。それに、なによりこの人は畑の広さにかかわりなく、トラクターを運転することに楽しさを感じているのかも知れない。人それぞれの趣味や考えでやっていることであるから、とやかくいう筋のものでは全くない。だから、この人のやっていることをどうのこうのというつもりはない。
 しかし、経済効果というものを正面から捉えて、この事態を見てみれば、そして本物の農業経営者がこのようなことをしているとすれば、全く理に合わぬことをやっている、と指摘せざるをえない。年に10万か15万程度の実益を上げるために100万円では買えないようなトラクターを使って農作業をする必要があるであろうか。今日、松山市内の多くの田んぼで年に1日か2日しか使わないトラクターで田を耕し、年に1日か2日しか使わないコンバインを使って稲を収穫する姿を見かける。
もし、製造業のなかで、製造設備を年に1日か2日しか使わない工場長がいたとすれば、この工場長は罵声を浴びせ掛けられる前に即刻首が飛ぶであろう。農業の世界ではこのような馬鹿げたことがあたりまえのように行われているのである。鍬や鎌ではなく、トラクターやコンバイン、精米機、草刈機、田植え機、農薬噴霧器など高価で稼働率の極端に低い機械たちが農家の納屋の中で、日々眠りこけながら、ろくに仕事もせず錆びていくのである。
 このような馬鹿げたことが行われているのは、農地の地主が自身は既にサラリーマンになっていながら「ここは農地ですよ」と主張するために稲を作り、土日のうちに人手が少ない中で済ましてしまうためであったりする。こうした人は農地を守るため、会社勤めで稼いだ金を突っ込んでいるのである。このように会社勤めをしながら機械に金を突っ込んでいる人はまだ理解できる。だが理解できないのは専業農家を経営するものがこのような稼働率の低い機械を買い込むことである。生産物が市場競争により価格が不安定な中で設備投資を派手に行えば経営が破綻するのはあたりまえのことである。しかし、日本の農政は「農業の近代化」と称してこのような馬鹿なことを農民に指導してきたのである。農業の近代化とは、農業経営を破綻させることなのである。もし、人が農業によって生計を立てようとするならば、設備や肥料、農薬、農機具などに投資することを極限まで削減し、昔ながらの自給自足の生計を立てることこそが破綻のない有り方なのである。しかし、今日の農政、税制、教育、文化、地域共同体の崩壊などが立ちはだかって自給自足はほとんど不可能になっているのではあるが。