福岡正信の自然農法と茅茫庵(5)

 

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「直観」による認識とはどういうことか

 

福岡正信は、真理は科学的認識ではなく、「直観」によって、あるいは「悟り」によって獲得されると繰り返し述べた。

「直観」によって真理を認識するとは一体どういうことなのか。私には、これがなかなか理解できなかった。もし、このことがよく理解できている人が自然農法に取り組めば、易々と成功するに違いない。私はこのテーマを20年程考え続けた。

 

岩波書店の広辞苑第6版によれば「直観」は

〔哲〕(intuition)一般に、判断・推理などの思惟作用の結果ではなく、精神が対象を直接に知的に把握する作用。直感ではなく直知であり、プラトンによるディアレクティケー(問答法)を介してのイデアの直観、フッサールの現象学的還元による本質直観等。

 

と書かれている。

また、私が学生のころ哲学を齧っていて購入した青木書店発行の哲学辞典によれば、

 

思考の働きによらずに、直接的に対象をとらえること。直観の役割の見方には、つぎのものがある。1)直接的であるので、それは認識の基礎をあたえるものとし、対象の本質をさぐりあて、真の認識にたっする思考の働きをまたねばならないとする立場。この意味での直観は、感性的直観である。 2)対象を直接的に一挙にとらえる働きとする立場。これは思考による認識の意義をみとめながらも、究極的な認識は直観によるとするものと、ただ直観だけが真の認識をあたえるとするものとがある。前者にはプラトン、アリストテレス、またデカルト、スピノザなどがあげられるし、後者には種々な神秘主義者、たとえばシェリングや、直観主義者のベルグソンなどがあげられる。

 

と書かれている。

どちらの辞典をみても「直観」とは思惟すなわち思考によらずに対象をとらえる、ということである。私は福岡正信の著作を読むまで、あれこれ考えるということ、思惟・思考こそが真理を捉え、対象を捉える道だと考えていたので、福岡正信が「直観によってとらえよ」と言うのに対して「思考なしに、一体どうやって対象をつかまえるのか」という疑問が頭から離れなかった。そして、野菜作りを始めても10年ほどは、「直観によって捉える」ということの糸口さえもつかまえることが出来なかった。

直観と勘の区別もよくつかなかった。これは、ごく最近までそうであった。

ところが、青森のリンゴ農家・木村秋則氏のドキュメント「奇跡のリンゴ」を読み、福岡正信と共通点があることを見い出して、この問題にひとつの答えがでてきたように思い始めた。また、NHKの番組「プロフェッショナル」で埼玉県の有機農法家金子美登氏のドキュメントを見て、またも共通点を見出したのである。

福岡正信は若い頃横浜税関の植物検査課に勤め、植物病理学の研究をしていて、個人的生活も含めて多忙の中で心身の疲労が積もり、急性肺炎を起し、寒々とした病室で「死の恐怖」に直面する。精神分裂症一歩手前のようになって院外をさまよい、戸外に出て寝ているのか、醒めているのか分からないような精神状態になっていた時、ゴイサギの鳴き声を聞いた瞬間に、「自分の中でモヤモヤしていた、あらゆる混迷の霧というようなものが、吹っ飛んでしまったような気がした」「そして、私は、ただ一つのことがわかったような気がしました。・・・『この世には何もないじゃないか』ということだった」(福岡正信、「わら一本の革命」)という。そして、これを契機に自然農法へと向かうのである。

リンゴ農家・木村秋則氏は福岡正信の自然農法に触発されて、当時絶対不可能と言われていたリンゴの無農薬栽培に挑戦し、何年も成功せず、困窮と精神的疲労からついに自殺をしようと岩木山山中を彷徨い、死に場所を決めて首をつるロープを木の枝にかけようとして投げたところ、ロープはあらぬ方向へ飛んだ。「この期になってもへまをする。なんてだめな男なんだと思いながら、ロープを拾いに山の斜面を降りかけて木村は異様なものを目にする。月の光の下に、リンゴの木があった。まるで魔法の木のように、そのリンゴの木は輝いていた。」(「奇跡のリンゴ」、石川拓治著)

実はこの木はリンゴではなく椎の木だったが、自殺しようとしていた木村氏は、その木に駆け寄り、「なぜ農薬をかけていないのに、この木はこんな葉をつけているのか」と自問する。そして「6年の間、探し続けた答えが目の前にあった。この椎の木だけではない。森の木々は、農薬など必要としていないのだ。」(同上)ということに気がつく。

埼玉の金子美登氏は農家に生まれ、農業を引き継ぎ、有機農業を目指すが、6年の間成功せず、人々には変人扱いされ、諦めて別の職を探そうとしていた。その時、作家の有吉佐和子氏から電話があり窮状を知られて、「野菜を買おう」と言われ、再び有機農業に取り組みはじめた。

この3人に共通するのは、「生きるか、死ぬか」「農業を続けるか、やめるか」というほどの精神的なダメージを受けて、ぎりぎりの瞬間に転機が訪れ、それまでの思考とキッパリたもとを分かつのだ。そして、ひたすら自然を、作物を自分の目で観察するようになる。その観察は自分や他人の考えを持ち込んで解釈することをやめ、ひたすら観察するのである。自分が求める答えは自然の中にあったのだ。

私は、いま野菜栽培を始めて22年目、無農薬、無化学肥料で12年目になる。私も無農薬でできるようになった年の直前には、「やっぱり無農薬ではだめなのか」という思いになっていた。実際に農薬を使っていたし、無農薬での栽培は99.9パーセント諦め結論を出すつもりでいた。しかし、私は三氏とは違い「生きるか、死ぬか」というような精神状況からははるか遠くにいた。私は農業を職業としていなかったから、生活も精神も追い詰められることが無かったのだ。私には、野菜作りは趣味の領域にあり、職業ではなかった。しかし本当のところは、いつも本当の百姓になりたいと思っていた。平成元年に東京からUターンし、55歳になる頃まで、ずっと本物の百姓になりたいと夢見ていたのだ。50歳ころには無農薬でできるようにはなったが、だんだん後がなくなってきて、会社勤めと同様の収入の確保は難しくなり、百姓の夢は消えた。夢を実現しなかったことの悔いはない。ずっと夢を抱いていたから、会社勤めに腰をすえて勤めることが出来た。定年まで19年半、全く同じ仕事を同じポジションで続けることが出来た。19年半、私はいやな仕事をしなかった。昇進も拒んだが、仕事を取り上げられはしなかった。

そういうわけで、私には3氏のような劇的な転機はない。ないが、転機が訪れてからの3氏のやり方は、私にもわかる気がする。福岡正信や木村秋則氏は自然を思惟によって、あるいは科学的研究によって捉えようとすることを止め、ひたすら自然を観察し、そこから学んだのである。福岡正信には科学的研究の素養が十分にありながらである。

 

私には、科学的研究の素養は備わっていない。それでも、野菜の栽培は取り組み始めた頃からすれば格段の進歩を遂げたと思っている。作柄は非常に安定してきた。自分でいうのもなんだが、今では近隣の農家の人からも褒められる。

 

私の野菜栽培には、科学的根拠はない。科学的根拠があるということの意味は何かというと、「誰がやってみても同じ結果がでる」、という再現性である。ある理論について、誰かが、繰り返し試してみても、同じ結果を引き出せるということが科学的真理として認められる上で必要である。たとえば、水素と酸素を化合すれば水になる、というのは誰が試みても同じ結果になる。試した人や、その時々で結果が異なるというのでは、科学的真理とはみなされない。

私は、知人やメールを貰った人に質問されて、こうすればこうなるということを話すことがある。ところが、その人は「あまり効果は無かった」と言ったりする。これでは、再現性が乏しく、科学的根拠があるとは言えず、誰もが認める話にはならない。しかし、私は自分でやっている分には十分正しいと思っている。

実は、この「再現性が乏しい」というのは、「直観」が捉える「認識」の本質なのだ。先ほど、引用した哲学辞典にもあるように、「直観」こそが真の認識を与えるという立場は「神秘主義者」とみなされることが多い。神秘主義者は宗教家に多く、時に熱心な信者を獲得することもあるが、誰もができるわけではない「からくり」のようなものを使うと思われたり、何か裏があるとか、いかさまをやっていると思われることもある。

私に知人が自分も野菜つくりをしたいといって、畑を見学しに来たとき、「牡蠣ガラの粉末を土に混ぜると土が軟らかくなる」と言ったことがある。1年経って知人は「自分の畑で試してみたが、効果が無かった」と言った。彼がそのように認識したのはその通りであろう。別に彼が嘘を言っているわけではない。しかし、私も嘘を言ったわけではない。自分の畑で何度も経験している。では、なぜ知人の場合は「効果が無かった」ということになったのだろうか。試してみた土が私の畑とはかなり違ったものだったかも知れない。あるいは、撒いた量が非常に少なかったかも知れない。また、実際には柔らかくなっていたが柔らかさを客観的に測っていないので、正しく認識されなかったのかも知れない。あるいはまた、牡蠣ガラの粉末を撒く必要のない畑だったのかも知れない。

だが、私と知人との違いは、自然観察の有り様が全然違うのである。私は自分の繰り返しの観察と経験で物を言っている。知人は他人から聞いたことをやってみて物を言っているのである。私も福岡正信が書いていることを試してみて、「効果がない」「無駄だ」「違うんじゃないか」と思ったことや、今も思っていることは色々有る。木村秋則氏は福岡正信の著書に触発されてリンゴの無農薬栽培に取り組んだにもかかわらず、6年の間何の収穫も得られず、終には自殺しようとした。彼が繰り返し、福岡の本を読み返したにもかかわらず。金子美登氏は農業学校の師に影響を受けて有機農業に取り組んだが、やはり6年間、生活と精神的な窮状に直面した。いずれにしても、先人が言ったことを理解するということは易々と出来ることではないのである。

では、どうすればよいのか。

自然農法や有機農法によって作物の栽培に取り組むということは、誰かのテキストにしたがって栽培するということではないのである。誰かのテキスト、誰かが作ったマニュアルにしたがって作物を作りたいのであれば、科学的研究の成果の上で作られたマニュアルに従えば良いのである。

自然農法や有機農法によって栽培しようと思うのなら、先人の教えを仰ぎ、著作から学びながらも、そこから離れて、自分の目で自然を観察し、自分の頭で理解し、自分で作物に関わることが不可欠なのである。先人の研究や書物から理論を学び、それに基づいて作物に向かっても、それだけでは出来るようにはならないのだ。

広辞苑の定義する「直観」とは、はじめに引用したとおり、

「判断・推理などの思惟作用の結果ではなく、精神が対象を直接に知的に把握する作用。直感ではなく直知であ()。」

概念・判断・推理などによって構成される思惟作用によって捉えられる事柄ならば、先人の教えを仰ぎ、書物を読むことで足りるとも言えよう。しかし、「精神が対象を直接に知的に把握する」ということが「直観」であるならば、「直観」には他人の思惟作用が入り込む余地はない。精神は各個人の中にしかないのだから、他人の教えを仰ぎながらも、自分でつかむ以外に直観でとらえる道はないわけである。

 

では、先人の研究や書物から理論を学び、それに基づいて作物に向かっても、それだけでは出来るようにはならないとはどういう訳か。

作物を畑で栽培するということは、実験室で理論を検証しているのとは全く違うことだからである。実験室では、先人と同じ環境を整えて、理論を検証するための実験を行うことができる。しかし、百姓が実際に畑の中で作物に対峙する時には環境は複雑で理論が構築された環境とはぜんぜん違ったものにならざるを得ないのである。

仮に発芽の条件についてとりあげてみよう。種子の発芽には3つの条件が揃わなければならないと言われている。水と酸素と適当な温度とである。実験室の中でなら、この3つの条件が必要であるという実証は、シャーレの中に種を置き、一つは水分を与えないサンプルを作り、もう一つは密閉された容器の中に水素か何かを入れて燃焼させることによって酸素を取り除いた空気を作り、その中に水を与えたサンプルを置いて発芽を待つ。3つ目は水を与えた種子を0℃以下の冷蔵庫の中において発芽を待つ。4つ目は水を与え常温として20℃くらいのところにおいて発芽を待つ。このようにして、4つ目のサンプルだけが発芽し、他の3つが発芽しなければ、この3つは発芽の条件であることがほぼ確認できる。

ところが、実際の畑の中に種を蒔いて3週間ほど経っても発芽が見られなかったとき、何が発芽を妨げた原因であるのかを突き止めることは、初心者で有れば容易ではない。

水が足りないと言っても、9月始め頃に蒔く大根とホウレンソウとでは、かなり発芽の様子が違う。大根などはまだ夏のような暑さの中で、乾燥した土に種を蒔いても結構芽を出す。ところが、ホウレンソウは蒔いた後で水をかけた位では発芽しないこともあり、種まきをする前に水に漬けておいてから蒔く人もいる。酸素不足と言っても、種を蒔いて土をかけたとき、酸素が不足しているのかどうかの判断は難しい。適当な温度については種子の入った袋に適温が書かれてはいるが、それ以下の場合やそれ以上の場合必ずしも発芽しないとは限らず、極端な温度でない限り判断は難しい。だが、3週間経っても双葉が見えないとき、その原因が、水、酸素、温度だけに原因があるといいきれる訳ではない。

現実には、種子が何らかの理由で死んでいたとか、よく吟味すると虫に食われていたとか、発芽はしたが土に根を下ろすことが出来ず枯れてしまい、発芽しなかったと認識してしまったというようなことがあり得る。さらに種子によっては、この3つの条件の他に満たさなければならない条件があるものもある。たとえばオーストラリアに生えている樹木の種には山火事によって極端な高熱に晒されないと発芽しないものがあるといわれている。そして、発芽はしたが土に根を下ろすことが出来なかった場合には、なぜ根を下ろすことが出来なかったのかについて、その原因を特定することはさらに難しいことになってくる。

実験室の中では、原因を特定することが簡単な問題でも、現実の畑の中で原因を特定することは簡単ではない。ましてや、野菜に虫や病気が着く場合、その原因が何であるのかを特定し、その原因を取り除くということになると、戸外から隔離された研究室で行う実験とは全く違う困難がある。研究室の中では、色々なサンプルを作って実験することが可能だが、戸外の畑での実践的な栽培の中では実験の名に値する実験は困難である。戸外の畑では、畑によって土の種類や成分、養分が違うし、気候によって温度、湿度の変化がある。虫や病原菌の飛来にも無防御である。日照も違う。使っている畑の栽培歴も違う。だから畑での実際の栽培では、種子が発芽しないとか、病気が発生するとか、虫が着くことの原因を究明するということははなはだ困難である。虫が着く原因を確認するために、仮に青虫が着くキャベツと着かないキャベツのサンプルを畑の中に作れという問題を出されて、一体何人の人が出来るだろうか。虫が着くキャベツと着かないキャベツを確実に作る能力がなければ、虫が着く原因を特定する実験は出来ないのである。虫が着くキャベツと着かないキャベツを確実に作る能力があれば、そもそも実験など不要である。

実際の作物栽培では実験は不可能ではないにしても、大変困難なことである。

 

しかし、実験の困難なところでは、観察というやり方が有効である。実験と観察の大きな違いはどこにあるだろうか。実験は実験者の思惟、思考によってサンプルを作り、予想した結果を検証することである。観察は観察対象の環境とその変化を克明に追い、そこで起こっていることを受け止めることである。実験は実験対象に対して、実験者の考えを持ち込むが、観察は観察者の考えを観察対象に持ち込むことが出来ない。実験は人間の能動的な行為であるが、観察は受動的な行為である。実験は、人があらかじめ何らかの結論を予想ないし期待をして行う行為であるが、観察においては前もっての結論や予想は必要がない。観察においては目の前に繰り広げられる現象をそのまま受け入れるほかはない。そして観察の結果を自分の頭で考え、解釈し、理論化しても正しい理論になるとは限らない。自分の考えや解釈をせずに観察の結果をそのまま受け入れることが肝心である。

観察によって直感的に認識したことは作物の栽培において活用することや、認識したことが正しい内容を含んでいるかどうかを検証してみることができる。たとえば、「大根に着く虫は季節によって多さがかわる。」ということを認識したとすれば、虫が沢山着くと思う時期に種を蒔き、また虫が少なくなると思う時期に種を蒔いて、確認してみればよい。観察によって捉えた認識の真偽を確かめるための実験は、実験効果を得られやすいが、観察なしの正しい認識を発見するための実験は、無数のサンプルを作ることが必要になり、無駄な実験を大量にこなさなければならない。熟慮を重ねて作ったサンプルであっても正しい認識にたどり着くことが不可能な場合も度々有る。サンプルの作成はその実験によって正しいものとそうでないものを区別できる結果を期待して作るのであるが、サンプル作成者の頭の中に正しい認識が含まれていない場合には、作られた実験サンプルの中に正しいものがないので、実験は徒労に終わる。

実験には実験設備や道具立てに費用がかかるが、観察の費用は全くかからないか、かかっても極端に少なくてすむ。

 

自然観察とはどういうことかといえば、今目にしている自然現象がどのようにして引き起こされたのか、そして何と関連しているのかを観るということである。そこでは「目前の自然現象には原因があり、その原因は自然の中に存在する」「さまざまな自然現象は互いに関連し合っている」ということが前提となっている。たとえば一輪の花が目前にあるのは、茎や葉、根の活動の結果であり、茎や葉、根は一粒の種から生じ、根元の土や空気中から養分を取り込んで生長する。一粒の種は一輪の花から生ずる。といったように、目前の現象には原因や関連があるのである。同じく、作物が病気になったり、虫が着いたりするのは、それなりの原因が存在するのであるが、その原因は自然の中にあるのであり、人の心やその外のところにあるのではない。自然現象の因果関係を理解するには、観察することが必要であり、人の思考による解釈ではなく、観察対象からありのままの因果関係を受け取ることだけが必要である。自然現象の因果関係は、観察すればすぐに見えるものばかりではない。なかなかその姿を現さないものもある。私は、アブラナ科の植物に群がる青虫が、どのようにしてキャベツにやってくるのか不思議に思っていたが、その瞬間を確認できるまでに何年も経っていた。その瞬間を見ることで分かってしまえば、なんと言うことはない。ひらひら飛んでいるメスのモンシロチョウが葉にお尻をつけては、その瞬間に卵を産み付けてゆき、その卵が一週間程度で孵化して虫になるのである。どこかで大量に生みつけられた卵が孵化し、虫になって土の上を這ってキャベツの葉にやってくるのではない。

しかし、モンシロチョウは一個ずつ卵を産み付けてゆくが、一箇所に大量の卵を生みつけ、そこで孵化した虫があちこちへ分散して行き、被害を拡大してゆくものもいる。また、大根や白菜の幼苗期にハイマダラノメイガの幼虫が沢山着いて、手で取り除いても次から次と出てくるという経験を何度かしたことがあるが、私は未だにこの幼虫がどのようにしてやってくるのか、この目で確認できていない。このような虫の産卵のあり方をつぶさに観察することが出来れば、虫害対策もまた個別の効果的な対処が可能になってくるのである。しかし、この虫がどこからどのようにしてやってくるのか確認ができていなくても、私は、観察を続ける中でこの虫に関して別の認識を得ることができた。それは、種まきの時期によってハイマダラノメイガの幼虫が沢山出てくる場合と、比較的少なくて甚大な被害に至らない場合があることに気がついた。8月の終わりから9月はじめ頃のまだ気温が高い頃に種まきをするとたくさん出てくる。しかし、9月半ば以降になると減ってくるのである。大根の生長は、種まきの時期が早めの方が大きくなるが、虫が着くリスクも大きいのである。私はこのあたりのことを念頭におきながら種まきの時期をきめている。

病気が発生するのも、つぶさに観察を続けていけばしだいにその原因や防除の方法が見えてくる。視覚に映るわけではないが、原因や防除方法がわかってくるのである。一例であるが、トマトを栽培していて、3、4年ほど梅雨時になると或る病気に悩まされた。根元に近い葉が黒くただれるように腐っていき、それがだんだん上に向かってひろがり、実まで腐っていくのである。人は疫病だと言っていた。この状態をみていた或るとき、私はトマトの根の近くに生えている草やトマトの葉が混み合っていることに気づき、これが原因ではないかと思った。以前には何年間もこの病気が発生しなかったが、草をとらずに放置しはじめてから発生するようになったのを思い出したからである。そこで、梅雨に入る直前に草取りをし、同時にトマトの下の方の葉を第一果房あたりまで取り除くようにしたのである。これによって私はこの病気から解放された。

虫が大量に発生するとか、病気が発生するのは理由や原因がなくて発生するのではなく、これらも自然現象であり、自然現象は結果であって、必ず結果を導く原因があるのである。結果を導く原因はやはり自然の中に見出すことができる。もっともその原因は人為の結果として発生することもあるのではあるが。

 

虫の話をついでにすると、よく食物連鎖、天敵論が持ち出されて、虫が他の虫に退治されるという話がある。バランスのとれた畑では虫が虫を食べることによって虫害が発生しないと言われる。私のこれまでの観察では、白菜についた青虫やヨトウムシがハサミムシに退治されているようだと感じたことは度々あるが、その他の例では確かなものは見た事がない。畑以外では、蟷螂が蝉を捕まえて蝉のお腹を食べているのを見たことがある。小さな虫たちの世界ではあるが、テレビで見るライオンや豹の狩と同じく、凄まじいドラマを見ている気がして、顔を背けたくなった。また、家の軒先にアシナガバチが作った巣をスズメバチが攻撃し、アシナガバチとその巣がスズメバチにガリガリと噛まれて壊れて行くのをみたことがある。噛み殺されたアシナガバチが巣の下に散らばり、怯えて悲しそうな表情で遠くから巣を眺めているアシナガバチもいて、ハチにも感情があるように感じたことがある。虫たちの狩を見た記憶はこれくらいしかない。だから、天敵、食物連鎖については、話しとしてはよく分かる気がするが、実際に現場を見たことはこの程度しかないので、私はハサミムシを見たらそっとしておいてやることと、蟷螂、蜘蛛のように虫を食べる動物を見つけたらそのままにすること以外には、栽培する上で何の考慮もしていない。テントウムシがアブラムシを退治するという話しも、アブラムシの発生は度々あるものの、一度も見たことがない。こういうことを私が言うのは、別に天敵論を否定するつもりで言っているのではない。自分では見た経験があまりないから実践上何の考慮もできない、ということを言っているのである。「作物を栽培する現場では他の人が言っていることが必ずしも、同じように再現されるものではない」ということを言っているのである。だからこそ、自然農法においては、先人の言葉で作物に向かうのではなく、自分の目を通して観察し、その観察によって判断し、対処することが必要だと言っているのである。

自然観察においては、自分の頭を少し回転させれば、次々と疑問が出てきて、その疑問解決のための観察を続けることができる人もいるかも知れないが、私のような鈍感な人間は、たまに「あれっ」と思って「なるほど、そうなのか」とか「なぜだぁ?」と思い始め、その答えを見つけ出すのに数年かかるということがある。野菜栽培を始めた1年目に完全な不耕起、無除草、無農薬、無肥料でびっくりするほどよくできたキュウリが、同じ畑で翌年は散々な結果になったのは何故か、という疑問の答えは21年経った今でも出ていない。この答えが出てくれば、私の農法に関する興味は終わる。

 

たまに、「あれっ」と思うことは、普段疑問に思っていたことの答えを見つけたときでもあり、また、新たな疑問の始まりであったりもする。だが、なぜ「あれっ」なのか。

「あれっ」と思うのは、意外性である。その瞬間まで自分の頭の中になかったことが、突然目の前に現れる時である。自分の意識の中に全くなかったもの、つまり自分にとって存在していなかったものが、ひょっこり現れて、現れた瞬間に確固とした存在になってしまうことである。第3者や、神の目にはしっかりと映っている存在であっても、私が意識していないものは、私にとっては非存在であり、無である。この非存在・無を私が意識する瞬間がある。この非存在・無が私に意識されて存在になる。私が意識して存在になる瞬間が直観である。私によって意識されていない或る事実、つまり、私にとって非存在であるものは、私がいくら頭を廻らせ、論理的に思考を進めても、その思考の中には決してその姿を現すことがない。私の意識の外にあって、それを私が意識する瞬間が直観であり、この直観によって存在と認めた時が私の「発見」である。私の中で一度発見されたものは、私の思考の中で繰り返し顔を出す。しかし、私が意識したことのない事実、私に発見されていない事実は、私が100万回頭を廻らせても、私の思考の中でその顔を出すことはない。だからこそ、自然を認識するということは、概念、判断、推論といった思考によって導かれるものではなく、まさしく直観によってのみ可能となるのである。概念、判断、推論といった思考(思惟)が幅を利かせるのは、直観が掴み取った内容の吟味をする時である。直観の中身を整理するときである。私の思考は、自分が意識したことの無いものを見つけ出すことはないが、「予想」を導くことはある。この予想は新たな観察か、実験によって確認されることもあるが、いつまで経っても確認出来ないこともある。

 

先ほど述べたように、「あれっ」と思うのは、普段疑問に思っていたことの答えを見つけたときでもあり、また、新たな疑問の始まりの時でもある。人間の思考・思惟に信頼をおく人は、この新しい事実の認識をすると、しばらくの感動の後、しだいに頭を廻らせ始める。普段抱えている疑問の答えを見出したと思うときは、それを一般化する言葉・命題にしようとする。理論化しようとするのである。そして又、新たな疑問の始まりの時には、問題点を整理し、分析しながらその答えをあれこれと考え始めるのである。「あれっ」と思って、今まで自分の頭の中になかったことを意識すると、人はあれこれと思考を始めるのである。そして、自分なりの結論を出し、次の実験・実践において検証しようとするのである。この検証において、自分の結論が正しいと確信できる場合もあるが、出来ないときもある。正しいと確信できた場合には、実践の場でその理論を繰り返し使用するのであるが、反対に確信できなかった場合には、新たな疑問を抱え、悩み始めるのである。

だが、人間の思考・思惟に重きを置かない人もあり、そのような人は、自分の直観のまま動く。普段疑問に思っていたことの答えが見つかったときには、それで「良し」とし、「あれっ」と疑問が生じた時には、疑問を抱えたまま時を過ごして、いつか「あれっ、まぁ」と答えを見出すのである。

人間が、真理に近づくということは、「既に自分の頭の中にあること」をあれこれと組み合わせてみることではなく、自分の頭の中、自分の意識、自分の認識の中には無いことが、前触れも無く突然、自分の頭、自分の意識、自分の認識の中に生ずるということである。これは、自分の思考によっては決して実現されることはないのであり、誰かの働きかけによって認識させられるか、あるいは自分の直観によって捉える以外にはなく、認識する自分は常に受身の立場、受動的立場でしかない。「チャンスの神様には前髪しかない」という言葉があるが、認識するチャンスは向こうから自分に向かってやってくる。向かい合った瞬間に直観によって捉えた者は、あらたな認識を獲得できるが、漫然と構えて直観を働かすことの出来ない者には、つかまえるチャンスはもう遠くへ去っている。

人間が、真理に近づくこと、新たな認識を獲得することは常に受身であるといっても、ただひたすら受身で、何も考えずに待っている人間には、決してその時がやってくることはない。明確な疑問、明確な問題意識を抱えている人間のところに新たな認識、真理はやってくるのである。疑問も無く、問題意識も無い者は、自然がその姿を現しても、そこに何も見ることがない。蜘蛛が獲物を確保するために糸で網を張っておくように、漁師が魚を取るために釣り針を垂らしておくとか、網を張っておくように、新たな認識に巡り会いたく思うものは、自らの思考によって網を張っておかねばならない。すると、チャンスはその日に来るか、3日後になるか、あるいは5年後、10年後になるか分からないが、時が満ちればひょっこり顔を出してくるものなのだ。もちろん、その人の生きてる内にはやって来ないこともしばしばではあるけれども。

個々の人間の意識は、知覚、感覚、記憶、思考、言葉、表象、感情といったもので構成されているが、意識の表面に出てきているのは、常に意識の一部である。意識を構成する知覚、感覚、記憶、思考、言葉、表象、感情のほとんどは通常は脳の中の格納庫に収まっている。ものを考えたり、判断するときにはそれらを格納庫から取り出してきて、考え、判断を下すのである。人が思考するときはこの格納庫の中にあるものだけを使って思考しているのである。各個人の意識の中に存在するものは、いかに博学、経験豊富な人の頭脳であっても、世界全体、宇宙全体の存在に比べれば無限に少ないと言って差し支えない。

各個人に限っていえば、その人の意識のどこにもなかったものが新たに意識されることは、その人にとって大きな「発見」である。だから、発見は常に直観とともにあるのである。一個人にとっては大きな発見であっても、人類全体を見渡してみれば、同じ内容について既に他の誰かに意識されていることは無限にある。だから、自分が大きな発見をしたと狂喜乱舞してみても、実は既に他の人が発見していたということは普通にあることである。自分がただ無知であっただけである。人類全体の意識の内に、どこにも、だれにも見当たらなかった新しい意識を生み出したものこそが人類にとっての新しい「発見」である。人類がはじめて発見したものは、しばしば人類の歴史を変える偉大な力を持つが、無知無学ゆえ、「おれが発見した」と勘違いする陳腐な発見であっても、その人個人の人生を変える力がある。

 

ここまで、「直観」について、「その人の意識の中に存在しなかったことが意識される瞬間」という観点で論じてきた。だが、「直観」はもう一つの意味を持っている。

「これまで意識されたことが無いもの」が新たに認識されるのではないが、時事刻々、生起してくる情報に対して判断を下していく働きとしての直観である。人は新しい情報を得て、判断するときに思考して、つまり、よく考えてから判断を下すことも多いのであるが、思考という経路を通らずに判断を下すことも普段にあるのである。感覚や言葉を通して受け取る情報に対して、思考することなく判断を下していくということが人にはあるわけである。思考・思惟による判断ではなく、直観による判断である。たとえば、車を運転するときに、初心者は信号や道路の状況を目で見て、考えてからハンドルやペダルの操作をするのであるが、慣れた運転手は考えることなく、ハンドルやペダルを操作しているのである。この運転手は考えて判断するのではなく、直観によって判断しているのである。熟練したものは、考えながら運転する方がかえって恐くなるものである。熟練者は信号や道路の状況を見落としはしないが、信号や道路の状況について考えるより、むしろ運転とは関係のない事を考えていることが多い。「判断」する「直観」は思考を省略しているから論理的な判断ではないが、繰り返し経験したことに基づく「熟練」の判断であるから、間違いはほとんどないのである。このように、人の判断には思考による判断と、直観による判断があり、時によって使い分けられているのである。このような直観による判断が可能なのは、熟練しているからである。

人が思考を経ないで判断したり、行動したりすることは失敗すると「よく考えてやれっ」などと罵声を浴びることにもなるが、熟練によって思考を経ずに判断し、行動できるようになることは実は理想的な判断であり、行動である。たとえば、人は話しをするときに言葉を使って話すのであるが、普通は自分が使う言葉の意味を考え考えして話すのではない。言葉の意味をいちいち思考を通してから話していたのでは話しにならない。初めて聞く言葉、初めて使う言葉は、その意味を考えながら聞き、話さなければならないが、なれた言葉を聴き、なれた言葉を使うときはその意味を考えることなく、聞き取り、話すことができる。多くの経験をし、熟練して深い理解をした言葉を使うときには言葉の意味を考えながら使う必要はないのであり、直観のままで聞き、話すのである。

 

こうして、「直観」には「今まで認識していなかったことの認識」と「思考を省略した判断」という役割があることが確認できると思う。そして、直観は思考と共に人間誰しも、日常普段に行使していることなのである。

 

次に、直観によって認識された内容を、人はいかにして他人に伝えることが出来るかという問題に移りたい。この問題は実は、この稿の始めの問題に再び立ち戻るということでもある。

人は誰でも、自分が新たに認識した事柄について、人に伝えたいという衝動を持っているし(隠しておきたいという衝動もあるが)、また自分が下した判断について、他人に説明しなければならない時がある。人は自分が「発見した」と思う事柄を、人々の役にたつことと思えば、それを伝えたいと思うのは当然であろう。また、自分が下した判断について他人が疑義を唱えるような場合にはとくに説明が求められる。つまり、自分の直観の中身を他人に伝えなければならない時があるということである。この直観の中身、内容を他人に伝える場合、「直観」の形式のままでは伝えることは不可能である。直観はその人の頭の中にしかない。他人に伝えるためには、何かを媒介にして伝えなければならないのである。たとえば、仕草とか言葉、音、絵などの媒介によって伝えることが必要なのである。媒介するものが無ければ、他人には決して伝わらない。しかし、仕草や言葉、音、絵などを媒介として伝えれば、正確に伝わるのかどうか、といえば、必ずしも伝えきることが出来るわけではない。一般によく使われる言葉を使って伝えようとすれば、伝える側の人間が自分の直観の中身を正確に表す言葉を選ばなければならないが、全く新しい認識、新しい発見である場合には、そのことを表す言葉は見当たらないのが常である。言葉が無ければ、造語するしかない。新しい言葉を作るとすれば、その新しい言葉の定義をする必要がある。言葉の定義とは、「定義されようとする言葉」の意味を「よく知られた言葉」で規定すること、あるいは置き換えることである。しかし、新しい言葉をよく知られた古い言葉で表現しても、新しい言葉の全てを言い尽くせるわけではない。

たとえば、いま私が「へなちょこ」という新しい動物を発見した、と言うとしよう。すると人は「へなちょことはどんな動物か」と聞くであろう。すると私が「へなちょこは哺乳類と爬虫類の両方の性質を持っている」と言う。「両方の性質を持っているとはどういうことか」と聞かれる。すると「卵を産むが、孵化した子供に乳を与える」という。すると、「体の格好はどんな具合か」と問われる。「ワニやトカゲのように尻尾があって、4つ足で這い回っている。」と答える。「乳房はどこにあるか」と聞く。「腹の下にある」と答える。

「這い回っているとき、乳房はどうなっているか」と聞く。すると「へなちょこは4つ足があり、這い回っても蛇のように腹を地面にすりつけることはなく、後ろ足の少し前に乳房が2つあって体毛に保護されている」と答える。すると「体毛は全身を覆っているのか」と聞く。すると「背中は鱗で覆われ、腹部は毛で覆われている」というように、言葉で説明するということになると、延々と続くのである。そこで、「では、そのへなちょこをここへ持ってきて見せてくれ」といわれる。「いや、ここに持ってくることは出来ない」とでも答えようものなら、もうその話しは作り話だと思われてしまう。だが、持ってきて見せることが出来たなら、人は「へなちょこ」を吟味した上でその発見を「発見」として承認するのである。

 ところが、動物のような一つの物体である場合は、それを直接目に触れさせることが出来るので、見せることが出来れば、相手は大体了解することができる。しかし、人間の造る言葉には人の目に触れさせることの出来ないものがある。たとえば、心、神、仏、霊、真、偽、誠、善、悪、法則、定理、原因、結果、幸福、等々。このようなものが存在するかどうかは、人によってかなり異なってくる。

「心」が存在することは、五感で捉えることができなくても、ほとんどの人がその存在を認める。自分の中に心が存在していることを直観しているからである。しかし、「神」「仏」ということになるとどうであろうか。神仏の存在を確信している人がいくら言葉を尽くして説明しても、その存在を否定する人はいくらでもいるのである。反対に「神」「仏」を直観する人は、少ない言葉でも受け入れるのである。このように言葉によって説明することは、受け手が自分の実体験をもとに直観するかどうかによって受け入れるか否かが決まるのである。心、神、仏、霊、真、偽、誠、善、悪といった言葉・概念は、自然界の概念と違って実体がないから認める人と認めない人とが出てくるのであって、自然界については実体があるから認める人と認めない人が出てくることはないと、考える人もあるであろう。しかし、自然界についての認識に関しても、様々な説が生まれては消えて行き、人々が認めるものと認めないものとは常に存在するのである。先ほど述べたが、「天敵によって自然のバランスが保たれ病虫害がなくなる」という理論について私は否定する根拠を持たないが、いまだ肯定する程の事実を確認していない。

また、私は「健康に育つ野菜には病虫害がつかない、病虫害は不健康な野菜につく」という見解を持っているが、これは物体ではないから人が五感で感じ取ることのできるものではない。神の存在は五感で感じ取ることは出来ないが、その存在を認める人は沢山いる。そして、認めない人もいる。

 このように、或る人が直観した内容を他人に伝える場合、五感で捉えることのできないものを言葉だけで伝えることは極めて困難であり、直観の内容が全人類を見渡してみても全く新しい内容である場合、それを他人に理解させることはますます困難なことである。受け手の側に、同様の直観、体験がある場合は容易に伝えられるが、そうでない場合にはなかなか伝わらないのである。五感で捉えられない現象は精神世界、社会現象だけでなく、自然界にも無数にある。たとえば宇宙や地球の誕生の瞬間とか、生命における新種の発生とか、物体としての脳と心の関係とか、人間の通常の感覚だけでは捉えきれない問題は無数にある。そうした問題には常に論争が発生する。「宇宙や地球には誕生があり、それは数十億年前だ」と言われたり、「宇宙はビッグバンで生まれた」などと言われても、われわれの五感で捉えることは出来ない。それらは最初、誰かの頭の中に直観として生まれた意識であり、その「発見」を人に伝えることは大変難しい。同じテーマで研究している科学者同士なら、「発見」の中身を理解してもらうことは容易だろうが、私のようなぼんくらに分からせることは容易ではない。私がそれを理解するには、私自身が彼らと同じ程度の学習と研究を重ねることが必要である。

 ここで、釈迦の話しをすると、話しが飛ぶと思われるかも知れないが、あえて釈迦の話しをする。というのは、私の見解では釈迦の話しも科学の話しも農法の話しも同じことだからである。

釈迦は長い修行を経て悟りを得た。悟りを得た後、自分の悟りの内容を人に伝えるため、説法をした。しかし、彼は伝えるために説法をしただけではない。彼は弟子を作った。弟子は釈迦と同じように修行をし、そして釈迦の悟りを悟った。釈迦の説法を伝えるための沢山の経典が残されたが、仏教は経典だけではなく、厳しい修行も世代をこえて続けてきたのである。その理由は、言葉だけでは釈迦の悟りが弟子に正確に伝わらないからである。釈迦の悟りとは、釈迦が直観したものである。直観の内容をきちんと伝えるためには、弟子も釈迦同様の修行体験が必要だったのだ。仏教では膨大な経典と厳しい修行が並行して伝えられている。釈迦の直観を人々に伝えるためには、言葉だけでは不可能であり、また修行だけでも不可能だったのである。修行は悟りを得た師となる高僧のもとで行われ、悟りを得た弟子はその師の印可を受けるのである。いくら修行を重ねても、師の印可が無ければ本当の悟りとは認められない。このように仏教では、釈迦の悟りを伝えるために、言葉・経典と修行の両方を残したのである。

 新しい直観の中身、新しい発見、新しい見解、新しい概念を人に伝えるためには、言葉で説明することが必要だが、それだけでは伝えることは十分ではなく、受け手の側の体験、修行、実験、直観といったことが必要であり、それを求めたのである。

 

「直観による認識とはなにか」という問題をずっと考え続けていた私は、以上のように理解した。整理すると、直観とは「人がそれまで認識していなかったことを認識した瞬間のまだ思考によってけがれていない認識のことであり、また、新しく生起してくる状況、新しい情報への思考を経ない判断」のことである。そして、直観の内容が人に伝えられるためには、言葉、音、仕草、絵などの媒介が必要であるが、それだけでなく受け手の側の体験、実験、伝え手同様の直観が必要だということである。

 

 このように「直観による認識」を捉えてみると、「直観による認識」とは、特異な認識方法ではなく、人間がごく普通に行っている認識のことであり、何か特別の認識方法であるのではない。むしろ、以前から「思惟・思考が真理を捉え、対象を捉える道だ」と考えていた私の考えの方が逆立ちしていたのだ。直観により捉えた内容は実践、実験によって検証されなければならない。そうでないと直観は単なる思い付きになってしまう、という弱点もあるが、新しい認識は直観から始まる。思惟・思考なしには直観の内容は明らかにならず、検証されないが、思惟・思考だけでは単なる妄想でしかない。人の正しい認識のためには、直観と思考・思惟が必要であり、直観偏重、思考・思惟偏重はいずれも誤った認識を引き起こすと言っていいだろう。

 

 次に、福岡正信は「直観」という言葉と「悟り」という言葉を同義の言葉として使っているところがあるのだが、その点について論じてみたい。

 

また、広辞苑からの引用になるが、これによると「悟り」とは、

@    理解すること。知ること。また、気づくこと。感づくこと。察知。

A    〔仏〕まよいが解けて真理を会得すること。

([株式会社岩波書店 広辞苑第六版])

とある。

これによれば、「悟り」とは、理解すること、知ること、気づくこと、感づくこと、察知だというのだが、これらのことは全て人が新しい認識を獲得することを意味しているのである。こうしてみると、「直観」が人間の新しい認識の瞬間を意味するとして展開してきたこの稿の論旨とぴったり合うのである。それゆえ福岡正信は「直観」と「悟り」を同義に使っていると解釈してもよいわけである。

「直観」と「思考・思惟」が対を成すとすれば「悟り」と対を成すのは「迷い」である。

「迷い」は「人が考えている状態」を示す言葉である。考えることは、あれこれと結論を探すことである。考えている状態からの脱出こそが必要なのであり、脱出できたときが「悟り」である。「迷い」の原因を突き止めた時が「悟り」の時であり、「判断の迷い」を決断によって断ち切った時が「悟り」である。人の日常は「迷い」と「悟り」を繰り返しているのである。それは、「直観」と「思考・思惟」を繰り返しているのと同じことである。

 人は話しをするときに、使い慣れた言葉を使うときにはその言葉の意味を考えずに使い、使いなれていない言葉を使うときにはその言葉の意味を考えながら口にする。人が考えながら事を進めている時には「迷い」があるのである。「迷い」ながら話している人の話は他人には伝わりにくいか、伝わらない。何をするにも「迷い」の経験なしの「悟り」はないが、迷いはいつか断ち切ることができなければ「悟り」はない。何かの習い事をする場合に、あれこれ考えながらやる人もいるが、考えることなくひたすら練習に励み、体に直接覚えこませる人もいる。頭で覚えるのではなく、体で覚え、手で覚えるのである。初心者が自転車に乗ったとき、操作を考えながらハンドルを握る人は転倒する。しかし、考えることをやめ、体でバランスをとることを覚えたものは転倒しない。頭は他の事を考えていても転倒しないのである。体で覚えることは頭で覚えることより優れているのである。覚える機能は脳にあるだけで無く、体にもある。そして、体で覚えることを担っているのが直観である。自転車に乗ってバランスをとることを一度おぼえた者は、大きなアクシデントを除けばもはや転倒することは無く、高齢になっても体が正常に機能する限り忘れることはない。これは、バランスのとり方を「悟った」ということであり、本当に理解したということである。

「悟る」というのは、頭で覚えるのではなく、手で覚える、体で覚えるということと同じことである。仏教の修行者たちが肉体に大きな負担をかけながら修行しているのは、体得するためである。

 福岡正信が、自然農法を「悟り」として捉えていたのは、自然の営みを捉える上で「思考」に主導権を渡さず、「直観」によって捉え、「体得」することこそが肝要だと思っていたからである。彼は、作物の様子を「直観」によって捉えなければならないといったが、農業の初心者が「直観」で作物の様子を捉え、判断することは無理である。「直観」によって捉え、判断することが出来るのは「体得」しえた者だけである。

自然農法を体得するには、直観を主として、思考を従とし、己の体を作物(植物)に馴染ませる修行が必要なのだ。僧の修行に終わりがないのと同様、自然農法に修行の終わりはない。

 

 私の世代は、学校で「悟り」の教育をほとんど受けていない。教師の口から「悟りなさい」という言葉は聴いた覚えがない。聞いたのはいつも「考えなさい」だった。考えることは「迷い」である。私たちはずっと「迷い」の教育を受けてきたのだ。いつも「迷いなさい」と言われ続けてきたのである。「迷い」も「悟り」への入り口ではあるが、「迷い」は「悟り」へと続かなければならない。

幕末に廃仏毀釈の嵐が吹き、悟りの仏教は明治政府から排除された。戦後は宗教教育が排除され、宗教的臭いのする「悟り」は教育から消えた。学校教育は「迷い」の思考力と記憶力が優先されるペーパーテストの世界になってしまったのだ。「直観と思考・思惟」を「悟りと迷い」の関係に置き換えてみると、仏教者の教えがよく理解できるように思われる。私は「迷い」の教育から自ら抜け出すのに21年を要し、還暦になっていた。

(2010.02.17)