|
|
ロバート・パーカーJr.「ボルドー第3版」より
ペサック郊外の活気ある商業地区にあるオー=ブリオンは、米国人が所有する唯一の第一級シャトーである。ディロン一族がオー=ブリオンを1935年に購入したとき、このシャトーは非常に貧弱な状態にあり、シャトーとセラーに多額の資金を投入した。現在は、この美しい場所は、グラーブの模範的なシャトーである。
オー=ブリオンのワインづくりは、明敏でハンサムなジャン・デルマ(ワインの世界における最も才能のある管理者の一人)が管理している。オー=ブリオンはまた、ボルドー・ワインにしては長期間(最長30ヶ月)新樽で熟成させるところで、ポムロルのクリネと並んで、ワインを瓶詰めする時期が最も遅いシャトーのひとつである。
オー・ブリオンのワインのスタイルは変化を遂げてきた。1950年代から1960年代初めにかけての、とびきり豊かで、土の香りのする、甘くさえあるワインは、1966年から1974年の間には、より軽く、やせて、気軽に飲める、いくらか単純なスタイルのクラレットに変り、第一級シャトーに期待する豊かさと深みを欠いていた。これが意図的なものなのか、あるいは単に少し低迷していただけなのか、いまだに答えは見つからない。オー=ブリオンのスタッフたちは短気であり、このような批判に対しては敏感である。1975年のヴィンテージからは再び、1966年以前には備わっていた、本来の土っぽい豊かさと凝縮味を取り戻した。今日、オー=ブリオンはまぎれもなく第一級シャトーの地位にふさわしいワインをつくっている。
偶然の一致なのかどうか分からないが、オー=ブリオンの質が1966年から1974年という時代を経て回復し始めたのは、ダグラス・ディオンの娘であるジョアンがこの会社の代表取締役となった1975年のことであった。最初の夫であるルクセンブルクのシャルル皇太子が亡くなった後、彼女は1978年にムシイ公爵と再婚した。これと同じくして、バーン=オー=ブリオンへまわされるブドウの量が増やされ、それによって、オー=ブリオンの品質が改善されたのは疑問の余地がない。さらに、ジャン・デルマに対し、このシャトーを運営する全権限が与えられたようだ。ボルドーすべての人々が認めるだろうが、彼はフランスにおける最も才能のある、また知識豊かなワインのつくり手であり、管理者の一人なのである。クローン選別についての、最新技術を集結しての驚異的な研究では、フランスでは彼の右に出る者はいない。1980年代に収穫が豊かになると、デルマは、ポムロルのシャトー・ペトリュスのクリスティアン・ムエックスと同様に、ブドウの房を切り取ることで収穫制限したのであった。この方法によっていっそう優れた凝縮味と驚異的な質を備えた1989年ものが生まれたことは間違いない。このワインは、初期の段階では1959年と1961年もの以来、最も賞賛に値するオー=ブリオンであると思われる。
|