安楽寺
浄土真宗本願寺派   千葉山安楽寺

企画 京都新聞社  制作 広告局計画部
<世界遺産フォーラム> <「京都と狂言」>
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世界遺産  WORLD HERITAGE
「古都京都の文化財(京都市・宇治市・大津市)」
連続フォーラム
  於ける西本願寺  1997/6/16 平成9年
講演要旨 親鸞の墓所が御影堂に発展
  •  本願寺の門を入りますと、正面に二つの大きな建物が並んで見えます。 左側が御影堂(ごえいどう)という本願寺の伽藍(がらん)の中でいちばん 大きな建物であり、親鸞聖人の木造を安置しています。

    右側のほうは阿弥陀堂(本堂)で、阿弥陀仏の木造を安置しているお堂です。 本来、お寺の主たる建物には仏像が安置されておりますが、本願寺はもともと 親鸞聖人のお墓から発展していった由来から、御影堂が伽藍の中心に位置しております。

  •  では本願寺が親鸞聖人のお墓から、どのような形で現在のような伽藍形式になって きたのか。1263年に親鸞聖人が亡くなられると、門弟方は東山の大谷に簡素な 五輪の塔のお墓を作りました。

    1272年にはお墓を収容する廟堂が建立されたのですが、やがてお堂の真ん中にお墓を、 その向こう側に親鸞聖人の木像を安置するという形に変わってまいります。

  •  ところが、廟堂ができて四十年近く経ったころに、お墓や木像が破壊される痛ましい 事件が起きます。その後門弟が集まって再興したお堂の中には親鸞聖人の木像だけを安置 するという形になり、これが御影堂へと発展していくわけです。

    大谷廟堂には第三代覚如上人のときに「専修寺」の額がかけられますが、 のちに本願寺と改められ現在に至っております。

  •  第8代蓮如上人までの本願寺は知恩院山門の北隣の三百坪ほどの境内にありましたが、 この大谷本願寺は1465年に比叡山の僧兵によって破却され、本願寺の場所は山科や 大坂の石山へと拠点が移っていきます。

    1482年に坊舎が建てられた当時の大坂は小さな字(あざ)で荒れた土地でしたが、 本願寺が建てられるとたくさんの人々が集い住むようになり、大坂という地名が 摂津・河内・和泉という三国を含む広いエリアを指す地名になっていくわけです。

  •  第11代顕如上人のころには大坂は西国への交通の要衝として、また東南アジア との交易船が発着する場所として発展しており、この地をめぐって天下制覇を目指す 織田信長と本願寺との間で石山戦争と呼ばれる争いが始まります。争いは約11年間 も続きますが、実は東西両本願寺に分かれたもともとの原因がここにあるわけです。

  •  というのは、本願寺のなかで信長との講和に応じようという顕如上人側と、顕如上人の 長男で徹底抗戦を主張する教如上人側との対立が起こり、結局、顕如上人は信長と 和議を結び、教如上人を勘当してしまったのです。信長との講和後、本願寺は転々とし、 1592年には豊臣秀吉に寄進された現在の場所(京都七条堀川)に落ち着きます。

    顕如上人が亡くなると准如上人(三男)が第12代を継承し、やがて徳川家康が政権 を握ると、教如上人に寺地を寄進して東本願寺が別立されます。これは、信長でさえ手 こずった大教団の力を半減させようという家康の政策だったようです。

  •  七条堀川の境内地のなかには御影堂・阿弥陀堂(ともに重要文化財) をはじめとして、貴重な文化財が残されております。フォーラム会場の舞台が 南能舞台(重要文化財)、この建物の北側には日本最古といわれる北能舞台(国宝) があります。

    北能舞台は本願寺の寺務を代々執り行った下間(しもつま)家の人で、 徳川家康の能の師匠役も努めた下間仲孝が家康の要請で設計し、駿府城に建てたものです。 その後、家康から与えられた能舞台を下間家が本願寺に寄進したといわれております。

  •  本願寺にはさらに、畳を上げてしつらえる室内能舞台が三つございます。このこと は本願寺では能や狂言を大変重要視してきた現れであると思います。

  •  ちょうど来年(1998年)五百回忌を迎える蓮如上人の時代に、能や狂言が 宗教行事のなかに取り入れられているのです。蓮如上人より以前は、門徒に法話をする 場合には、高い段上から話をしておりました。

    しかし蓮如上人は「談合」、みなが膝を交えて話をすることが親鸞聖人の教えに かなっていると考えられて、そういう上下の段を廃止しました。今日では、 談合といいますと良くない言葉になっていますが、本来はいい意味あいで使われて いたものです。

  •  蓮如上人の話が長くなり門徒が退屈したり眠たくなってくるといったん話をやめて、 「誓願寺」という能の演目にあるありがたい 内容の謡曲を声のいいお坊さんにうたわせて、 皆さんの目が覚めてからまた話を続けられた。そういう形での仏法を説かれたと伝えられ ております。

    また「鶯(うぐいす)」という狂言を蓮如上人が気に入って、二日間にわたって 演じてもらったという記録があります。これは仏法を求めるときに我を忘れて一生懸命 になることの大切さを、狂言の内容を通じて門徒に示したということです。

  •  さて、本願寺の文化財には宗教的な内容をもつものと、外部から入ってきた 本来的には宗教的な意味合いをもたないものに大別されます。前者では各堂を始め、 親鸞聖人筆の『観無量寿経註』『観阿弥陀経註』(ともに国宝 )など、後者の例として、 飛雲閣(国宝)は秀吉が構築した聚楽第にあった建物であるといわれており、 唐門(国宝)は伏見城の遺構であると伝えられています。

    あるいは、後奈良天皇の下賜である「36人家集」(国宝)、後鳥羽上皇が熊野参詣を された際に詠まれた和歌で上皇ご自身の筆による「熊野懐紙」(国宝)などです。 以上申しましたように、当初東山大谷のお墓だけ、その後寺基が転々とした後に 秀吉の寄進で京都の現在地に移ってきて、現在の敷地にさまざまな文化財が残されて いるわけです。

    講師の紹介
    相愛学園理事長 千葉乗隆氏(ちば じょうりゅう)
    大正10年徳島県生まれ。龍谷大学研究科卒業。
    龍谷大学長、浄土真宗教学研究所長などを経て現職。龍谷大学名誉教授。
    本願寺資料研究所長。著書に『中部山村社会の真宗』『真宗教団の組織と制度』ほか多数。
    注:平成11(1999)年8月現在 本願寺史料研究所長

    注:
    HTML作成:平成11(1999)年8月 安楽寺
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