蓮如上人の生涯とその教え (仏教研修会 第301回) 1998/7/19
千葉 乗隆

<仏教研修会>
蓮如上人(1415〜1499) と金森の道西(1399〜1488)
                  龍玄(1435〜1510)

○道西坊善従、俗名は弥七、存如上人のとき浄土真宗に帰依。近江金森門徒の指導者

 
○慶門坊龍玄、通称を美濃という。道西の甥、幼年から蓮如上人に近侍し、 教行信証・六要鈔を上人から伝授され、上人の息男にこれを伝えた。


 
1、「金森日記抜」

A、金森蓮珠御影之事
道西善従、開山聖人の御影ならびに存如上人御寿像を望み申され候とき、本弘寺殿、聞きつけていわく、 御影様は御本寺ならでは御座なき御ことなり。御影を拝し申さんとて、国々より参らるるに、 国々へ御免あるときは、参詣の人もあるまいといいまわさるる間、善従、迷惑いたさせける。

上様(存如上人)、本弘寺の御説諫候。しかれば是非申しようもなくて閉口せられき。 上様、開山聖人の御影、存如様の御寿像御免下されき。冥加もなきありがたきことなり。 今、金森におわします連珠数の御影のこと也。

(現存御影の修復裏書)

・嘉吉2年(1442)存如上人が道西に授与という。

               本願寺釈(蓮如)
                 長享二載戊申9月28日
               江州野洲南郡
(奉修復)大谷本願寺親鸞上人御影
                金森惣道場物也
                    願主唯道
 
B、在々安置申さるる蓮数珠御影之事
堅田におわします開山聖人の御影は、寛正2年冬の頃なり。蓮如様の 御寿像におわします。
開発中村の妙実へ下られ候御影様、あらみの性明へ下され候御影様、三宅了西へ賜りし御影様、 皆寛正2年の頃なり。
矢島南道場におわします蓮数珠は、白御袈裟を御召し候。
赤野井慶乗へ賜りしも蓮数珠なり。高野の実善へ御免ありし蓮数珠御影は開山聖人の御座所少し 下らせておわしましき。こうし坊の道場にも開山聖人の御影おわしますとかや。
 
C、正信偈大意之事
長禄の頃(寛正元年6月)、道西望により、上様遊ばされて御免あり。 奥書の御文にも、善従の懇望の由、御記候。元亀兵乱にうせて今は無し。

D、御文之事
御文は寛正の初の頃(寛正2年3月)初て作り出して、あまた遊ばされける。 はじめ御作り候御文、道西に下され候。この御文、元亀の一乱に失せければ、顕如上人に申し望みしに、 御直判をもって写し下し給りける。

E,大谷殿退転之事
蓮如上人の御勧化、一丁に比類なく、ご繁昌候いしかば、叡山の悪僧等、 無実理不尽の沙汰として、寛正6年大簇(1月)10日、三百余人、大谷に押寄、御堂御宝物あまた 奪いとり、また上様は御開山の御影像をおわせられ、

くずの御十徳を御召候いて、落ち行かせられける。道西ここかしこたずね、 大津いうところにてあい奉り、仏法開け申すべしと申されて、 生身の御影像をあい供し候いて、上様は近江の金森に御下向なり。

F、無碍流退治之事
文正元のこと、叡山より無碍流退治の張本なれば、退治の企てあり。 堅田・金森は無碍流の張本なれば、破却あるべき旨、触られ、安置する無碍光金泥の本尊を 奪取の沙汰あり。

あつかいに依て、事静謐なり、しかれども、在々に安置する本尊を奪い取り、道場を破却すること、 其数あまたに及ぶ。御門徒、多く迷惑せられき。同年冬の頃、金森・堅田へ申し触れられて、奪い取る ところの本尊をかえしゆるされける。

G、金森苦菜御頭之事
霜月(11月)御正忌のとき、非時は国々の坊主衆勤められき。 余の時のご命日も諸国坊主勤む。2月28日は金森よりつとむ。これ苦菜の御頭と申しぬ。 これ苦菜の御頭と申しぬ。苦菜の御調菜、金森より奉る。

3月6日、金森にて御頭の御調菜を、あまた御門徒にわかちひろむ。これを御頭ひろめと申すなり。

H、慶聞坊龍玄は道西の甥なり。若年のときより、 大谷殿に奉公申されて、後には御輿をもかかれ候が、仏法意(こころ)に入り候とて、 引き上げて坊主衆の上座になされ候いて、御堂衆になされ候。信ある人、たれによらず上座にさせられし 由に候いき。順如上人の御時、御病気にて御煩い候とき、

本尊・開山の御裏書、慶聞坊に御かかせ候。うつぼ字名号の御讃等もあまたかかれ候。 其外、聖教なども御一家衆・坊主衆の望み申され候とき、多く龍玄に御かかせ候。 御名号もし候由、古老の衆語り申され候。

注:
地名
滋賀県守山市金森町(守山市は元野洲郡守山町)
滋賀県大津市(JR京都駅〜山科駅〜大津駅で10分間)
叡山:比叡山の事、京都市と滋賀県大津市の境にそびえる山、 天台宗総本山延暦寺は大津市側に位置する。

<仏教研修会> <第301回TOP>