蓮如上人の生涯とその教え (仏教研修会 第304回) 1998/10/11
千葉 乗隆

<仏教研修会>
蓮如上人(1415〜1499)と下間蓮崇(?〜1499)
蓮崇は越前国麻生津の人、吉崎時代の上人に親近し、下間蓮崇の名を与えられ、 安芸法眼と称した。文明7年(1475)上人の指令と偽って門徒の一揆を誘導したので破門された。 その後、細川政元などを介して詫びを入れたが許されなかった。上人ご往生の五日前、 明応8年(1499)3月20日、赦免され、3月28日死去した。

1、蓮崇、上人に御文章の制作をすすめる(『蓮淳記』)
越前の吉崎の御坊にて弥仏法ひろまり申さふらひて、御文をつくられさふらふ事は、 安芸法元申さふらひて御つくりさふらひて、各有難く存さふらふ。かるがると愚癡 の者のはやく心得まひらせさふらふやうに、千の物を百に選び百の物を

十に撰ばれ十のものを一に、早く聞分け申様にと思召され、御文にあそばしあらはされて、 凡夫の速に仏道なる事を仰立てられたる事にてさふらふ。開山聖人の御勘化今一天四海に ひろまり申事は、蓮如上人の御念力によりたる事候也。

 
2、蓮崇は最初の「御文章」集録者
文明3年より同5年に至る間の「御文章」18通を集録。

端書云
右斯文どもは、文明第三之比より同き第五之秋の時分まで、天性こゝろにうかむまゝに、 何の分別もなく連々に筆をそめおきつる文どもなり。さだめて文体のおかしきこともありぬべし。 またことばなんどのつゞかぬこともあるべし。

かたがたしかるべからざるあひだ、その斟酌 をなすといへども、すでにこの一帖の料紙をこしらへて書写せしむるあひだ、 ちからなくまづゆるしおくものなり。外見の儀くれぐれあるべからざる。たゞ自然のとき 自要ばかりにこれをそなへらるべきものなり。あなかしこあなかしこ。

于時文明第五九月廿三日に藤島郷の内林之郷超勝寺において、この端書 を蓮崇所望のあひだ、同27日申の剋にいたりて筆をそめおはりぬ。                          釈 蓮 如 在御判

3、蓮崇、権勢を誇る(『蓮如上人塵拾記』)
文明の初めの比、越前国吉崎の御坊建立也。其同国あそう津の村仁に候き。 心さかしき人にて侍し間、安芸州へも往返之事侍しにより、安芸と人云付て侍しか、

吉崎殿へ望申、茶所に侍て物をよみ手習をし、 一文字をも不知仁にて侍しか、よるよる学問を心にかけ手習をして、四十の年より物を書、 真物を書習、

正教等まて令書写候て浄土法門心にかけ、才学の身と成りて吉崎殿御内へ望申、 奉公を一段心に入られしまゝ、蓮如上人御意にも叶、丹後玄永はうばへ(朋輩)と成て、 安芸安芸とめされ一段秀でたる事に侍り。 法門御意をも得られける程に人々も近付聴聞し侍り、門徒も出来侍り。

・・・・・然処、安芸法眼いよいよ威勢分限出来、吉崎殿寺内安芸居住の処には 土蔵十三立、一門繁昌の事にて、則越前の朝倉弾正左衛門法名英林と申者聞及、 名字の庶子になし、阿と名乗。令上洛、将軍慈照院殿御被官分に成候て、 奉公は壱分と定られ、数度御内書等被成候。

則法眼とは将軍より被成候。法橋とは於吉崎御成候。ぬり輿の御免も将軍家より被仰付、従其は鞍覆、 唐笠袋まて武家御所より御免候き。左候間、於吉崎威勢かきりなく、・・・・・

 
4、蓮崇、細川政元を仲介に破門の許しを請う(『空善記』)
仰に、加賀のあき(下間安芸法名蓮崇)あやまりをもなをしたるよしを、御門徒してわび候はゞ、 ゆるすこともあるべきに、細川玄蕃頭(政元)へつげて、権家にてわび候あひだ、ゆるさず、 と仰候き。

 
5、蓮崇、破門を許される(『実悟旧記』)
安芸蓮崇、国をくつがえし曲事に付て、御門徒をはなされ候。前々住上人御病中に、御寺内へ参り、 御侘言申候へども、とりつぎ候人なく候し。その折節前々住上人ふと仰られ候、安芸をなをさうと 思うふよ、と仰られ候。

御兄弟以下御申しには、一度仏法にあたをなし申候人に候へばいかゞ、と御申候へば、仰られ候、 それぞとよ、あさましきことをいふよ。心中だになをらば、何たるものなりとも、 御もらしなきことに候、と仰られて御赦免候き。その時御前へまひり、 御目にかゝられ候とき、感涙畳にうかみ候と云々、而して御中陰の中に蓮崇も寺内にてすぎられ候。
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