お寺の歴史

 鎌倉時代末、徳治年間(1306−8)の昔に播磨の国の赤松氏釋正玄と云う人が阿讃山中、徳島と香川県の間の山の中にお寺を建てたのが始まりだそうです。初めは天台宗だったそうですが、戦国時代に戦火にあい山を下り蜂須賀さんが入国して現在の地へ復興し、寛永三年に上洛、浄土真宗の本願寺派の寺になりました

尊光寺物語を読んでね

お寺の本堂



 宝暦十年(1760)にご門徒の力で藩の山から欅をもらい、みんなで建てた本堂です。木をもらったので本堂の梁の上に蜂須賀さんの卍紋を掲げ、色々な彫刻もあり珍しい力士の彫り物が入り口の梁を支えています。藩主も何度かお泊まりになった書院は前の本堂で寛文十一年(1671)の建物です。



藩の御用林の「ケヤキを一本下さい。」と御願いして、山奧の上の方にある、太い一番良い木を一本頂きました。その木を出すためには、周りの木をたくさん切らなくては出せませんでした。それらの全部の木を頂いて、本堂が建ちました。
棟梁は藩の城大工棟梁の美馬官左右衛門安英さんです。小匠・嶋田斎蔵永盛さんです

平成の大修理は建立以来二百五十年ぶりの復元工事、美しい姿に甦りました。

修復工事請負 株式会社鴻池組、 監督 小川克己

木工工事  鳥羽瀬寺社建築(東大阪市) 棟梁 神山幸夫(本堂・山門)
瓦工事   橋本瓦葺工業(天理市)親方 橋本栄一
設計・管理 岡島設計事務所 岡島慈憲(鴨島町) 

鐘楼は建立時期不明ですが、今回の解体修理(棟梁・岩瀬竜也)で、本堂と同時期の建立と思われ、彫刻・絵天井と手の込んだ細工は、非常に珍しいと工事関係者に評価されました。    

本堂には沢山の彫り物があります。珍しい彫り物も有ります。
  

       


   

     

      
 
    



金輪山無量壽院尊光寺 (平成十五年大修復記念絵はがき文章)

 鎌倉時代末、徳治年間(1306-8)播磨国赤松氏釋正玄は阿波に移り、阿讃山中の要地九王野に寺基を開き、無量壽院尊光寺と号し天台宗に属した。
 八代正淳の世に戦火にあい一切を消滅したが、九王野の旧地は「尊光寺屋敷」として伝承され、一部墓石とともに今に伝わる。(土成町指定文化財史跡)
 蜂須賀蓬庵公の阿波入国により、九代正尊はその外護をうけ大野島の現地に復興し、寛永三年上洛して浄土真宗に帰した。
ご本尊の阿弥陀如来は御長二尺三寸伝恵心僧都御真作、外に壱躰善光寺千体佛の御臼座如来長九寸、太守蓬庵公寛永六年巳年九月二十八日当寺へ御安置に賜る。爾来多数の門徒により宇堂が整えられ、慶安三年興源公、延宝元年徳音公、天和二年南溟公等々太守の巡国宿館ともなった。宝暦六年因縁格別により謙光公より山号「金輪山」を賜る。 
 現在の本堂(総欅造り)は第十五世惠俊代、宝暦十年(1760)、棟梁美馬官左衛門、小匠嶋田斎蔵により建立と伝え、堂内大虹梁上に蜂須賀家紋卍の彫刻を置いている。
 本堂裏の無量壽院(門徒納骨堂)は、地下基壇にインド佛跡の聖砂とフイリッピン戦跡の収骨灰土を埋めた。倶会一処の祀堂である。
 この度御本尊御加護のもと、ご門徒・有縁の方々のお力により二年余の「平成大修理」により漸く老朽の本堂・山門・鐘楼諸堂の解体・修復・復元の工事が、完工いたしました。
 甦った伽藍の美しい姿に極楽浄土の荘厳さを拝まさせて頂きましょう。


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