そんこうじ物語 
ー当院代々過去帳考ー
物語1 赤松円心則村と「七条赤松」のこと
物語2 赤松円心則村と「七条赤松」のこと
物語3 開基「釋正玄」阿波に移る ー法雲寺大系図「赤松氏譜」ナゾの空白 跡目相続の争いか?
物語4  開基釋正玄「くわの」に草庵を結ぶ
物語5 くわの」七代・二百六十年
物語6  南北朝ー後南朝長禄事件の渦のなかで
物語7 専修念佛のひびき 石山合戦に本願寺を援ける
物語8 つかの間のアワ置塩藩」 赤松宗家は阿波で滅亡
       尊光寺 大野島の現地に中興ー九世正尊ー

物語9   中興の祖 九世 正尊と外護の人びと
物語10 大野島尊光寺中興 初期の伝承と住職筆跡記
物語11 北方巡視・新藩主の来寺 殿様の昼食は「くずうどん」とお煮付け お茶はあるか‥‥

物語12 酒呑みでは住職は勤まらない。「不思議の霊夢」と次代への諭しか
物語13 宝暦年中 本堂建立の伝承
物語14 御本堂の光と影 天保一揆の時代を迎える。
物語15 御本堂の光と影 み佛の光明あまねく この世の極楽 活気にあふれた淨空の代十九世
物語16 尊光寺を護寺した人々(上) 第二十世顕乗 若く逝くー血脈断絶ー
物語17 尊光寺を護持した人々(中)天下大変動「幕末から明治維新」老坊守の決断    
物語18 尊光寺を護持した人々(下)「嵐のあとにお念仏の花が咲いた」
物語19 二十二世 一乗と坊守イワの生涯 大庫裏の改築 終わりよければすべてよし
物語20 早春の寺庭に立ちつくす葬送の人々 二十二世 圓頓院釋一乗
物語21 そんこじ物語(終)

     
 「はじめに

  おかげで念願の経蔵(収納庫)が出来た。古い板本や文書を整理し移し替えている。しわを伸ばし、綴り糸を確かめ、つい一期一会の思いで眼も通すから能率はあがらない。色々の筆蹟の墨書。変色したその一丁々々から時代の生々しい息吹を、語りかけてくる声が聞こえ。
 昔も今も、尊光寺は貧乏な野の寺である。時代の浪に翻弄されるばかりで、注目されるようなものが残されている筈はないが、一つ一つは寺の宝物だ。
 寺を預かって三十余年。先代より伝えられたこと、調べ知ったこともいろいろ。ボケの来ないうちに書き残さねばならない。これも老僧の責務だろう。論語にも「温故而知新可為師矣」というではないか。後世が何かを得て呉れるかもと。そんこうじ物語を連載する所以である


ー当院代々過去帳考ー
 
赤松円心則村と「七条赤松」のこと(1)

もう六十年近い昔になる。京都進学が決まったとき、父(先代住職教信)がいった。
「赤松族は播磨と決まっているが。うち(尊光寺)は七条赤松と伝えている。京の七条に赤松屋敷跡があるか、調べてみい‥‥」
若い私にも、太平記に曰く「赤松次郎入道トテ多矢取テ無双ノ勇士アリ‥‥」と講談調でないくらいの知識はあった。
 播磨はいまの兵庫県南西部、加古川・揖保川・千種川など豊かな平野をもち、昔から米・木材・塩・魚貝の海山の幸から、鉄・刀剣の特産に恵まれた国である。また山陽道・瀬戸内の航路の要地だ。その豊かな物産を集散して富を蓄えてきた豪族たちの頭領が有名な円心入道赤松則村である。鎌倉末、後醍醐天皇・護良親王をたすけ、一族あげて京の六波羅探題を攻めて、鎌倉北条を倒した建武中興の武功者。天皇の新政府が出来るとすぐ足利尊氏らと組んでそれに反し再び武家室町幕府を立て四職の一となる怪物、くらいは周知のことである。ともあれ則村を盛り立てた赤松一族は多勢あったと思っていたが「七条赤松」など初耳であった。
 則村は赤松茂則の子弘安二年(一二七九)の誕生だから徳治の頃は二十七才。播磨の豪族赤松一族は、京の警護に大番役として九條家や六波羅に上洛する。大番役は都に四十八ヶ所あったという番所(かがりや)を預かり警護の役に任ずる。また播州ほかの産物を京都に運ぶ商業も兼ねて、若い則村や一族の多くの者がこの地に出張していたはずだ。この拠点が七条にあったのか。
建武中興という後醍醐親政は則村の五十四才のとき、(一三三三〜四)その没年は貞和六年(一三五0)正月、京都七条邸にて行年七十二と。
 わが祖正玄が阿波に移ったのは徳治年中(一三0七頃)。没年は嘉暦三年(一三二八)である(当院代々過去帳)徳治は僅か二年間ばかりの年号だから。正玄は則村の子孫ではあり得ないと、まで判って、正直ほっとしたのを覚えている。当時の皇国史観では、赤松則村は足利尊氏と共に北朝側の逆臣とされていた。
 それから長い歳月、学窓から戦場へ、十余年の病床と、忘れたわけではなかったが、七条赤松の解答はえられなかった。
 突然、昭和五十六年の早々「金華山法雲寺復興計画」の呼びかけ文書が舞い込んだ。赤松円心の六百五十回忌(昭和五十八年)を期して、円心が創建のこの寺を修復したいの趣旨、顧問には形通りに土地出身の金山や河本代議士らを連ね、委員長として藤本哲氏の名があった。藤本氏は教職を途中で辞し播州赤松一族の調査研究に専念され、同封の資料に氏の「赤松氏の資料と研究」の著作の一部があった。この募に応じたのは勿論だった。
 これから急にこの地の人々との縁が深まったのは開基正玄の呼びかけのような気がする。
 昭和六十年初夏本願寺の中国浄土教の巡拝団、昭和六十三年秋のインド・パキスタン仏蹟巡拝と二度も播州の円立寺赤松賢秀師や播州の人々と行を共にする機縁を得た。私も知友に案内されて平成元年と三年二度先祖たちの歩んだ地赤松のほとり千種川流域を歩いて、七百年の昔をしのび白旗城跡を仰いだ。

      



 赤松円心則村と「七条赤松」(2)
ー法雲寺大系図「村上源姓赤松氏譜」太田入道範景(則景)のことー

 
赤松氏発祥の地は播磨国赤穂郡赤松村(現上郡町)といわれる。上郡の方々の案内で赤松村を訪れたのは六月の若葉の輝く日。バブル期の西播テクノポリス開発で荒らされているが、村はひっそりと静かであた。

中国山地の複雑な地形から豊かな水をあつめて南流する千種川の中域。赤松村に赤松氏の氏寺が三ヶ寺。いずれも円心則村とその子の創建になる。苔縄の金華山法雲寺、河野原の赤松山宝林寺、赤松の金輪山松雲寺である。金輪山の名を聞いて驚いた。当尊光寺の山号と奇しくも同じだ。いずれの寺も、赤松氏の盛衰と共に浮沈を繰り返したが、多くの古文書、特に「村上源姓赤松氏譜」と題する大系図乾伸三巻を伝える。法雲寺廟堂に祀る武者姿の円心像が眼をむいていた。
 尊光寺代々過去帳は開基といえども記載は簡単で僅か一行。住職覚えと題した寺伝にも「太田入道範景之末裔、有由出家、故有移居阿州徳治年中云々」と系図もない。
 寺めぐりのあと町の資料編纂室で郷土史専門家にいろいろ聞く。「則村以前の資料は殆ど絶無です。大系図は江戸中期以後のものでしょうか。ほう七条赤松で尼崎とも関係ありと、ところでお寺の宗旨はー天台ですか、徳治年代はまだ則村も若く禅に凝っていません、天台宗なら妻帯できますしね……。」
 上郡町赤松では則村以降の話ばかり。赤松氏の源は佐用郡佐用宇野氏と知った。円心像は眼をむくが、赤松村は九条関白家の荘園の一つ佐用庄の南端の村であった。(昭和三十年の町村合併でも赤松村の北方は佐用郡佐用町に分割されている)
 佐用へはJR姫新線。姫路から山ひだを屈曲しながら、新宮、三日月、南光、佐用、上月と赤松族興亡の物語太平記ゆかりの山村を縫っている、駅に降りてひなびた家並みを眺める。地形は厳しい。佐用川と千種川の合流点の佐用盆地はいささか広いが、周囲は深い山波だ。本住田、新位田などの名もある古く重要な藤原氏荘園の一つであった。出雲、日本海とを結ぶ交通の要である。人の肩や駄載の荘園の年貢や産物が少しずつここに集まり、千種川を舟で下って京に向い、七条市場に近い九条家別荘の赤松屋敷の倉に積まれたか。
 佐用町役場に教育長を訪ね、佐用郡の地図、文化財古跡地図ほかの資料を頂いた。荘園時代の地名の豊福、本位田、円応寺、山田、上月など今も生きている。
 赤松大系図や続群書類従所載の冒頭は「人皇六十二代村上天皇の第七皇子具平親王」に始まる。その長子師房が源姓を賜り臣籍に入る。九代の孫師季は「源義親の乱に連り天永二年(1111)播磨佐用庄に配流」とある。師季はのち勅許を得て都に帰るが、その子季房がこの地に留まる。ご落胤である。母は佐用庄司山田氏の女か。後に従五位下大和権守山田源太郎季則と称し、佐用郡一帯に勢力を持ち宇野家の祖となる。まだ赤松姓ではない。(系図により季房、季則が混用)
 季則は子らを近隣各所に配する。長子頼範は佐用宇野氏、次子正頼は夢前郡三枝氏、三男頼清は三木郡別所氏の祖である。その頼範の第三子に則景の名があり、播磨守と号し宇野を称し太田郷に住むと。
 寺伝の「太田入道範景」に当たるのは、大系図のこの則景であろう。則は範、共にのりと訓ずる為か他でも混用の例が多い、ともあれ則景の名を発見してほっとした。
 大系図によると則景の長兄為助は宇野新太夫と称し、宇野・柏原・釜谷・豊福・河原等一族。次兄三郎頼景は得平家の祖、弟将則は佐用氏。それぞれ分与された地名を姓とする。
 則景は兄弟のなかでも出色である。大きく変貌しようとする時代を先見したか。系図には鎌倉に出て頼朝幕下で活躍し、建久三年播磨地頭職の御下文を賜り、また北条義時の婿也と付記してある。村上源氏の肩書きがものを云ったことであろう。
 佐用地頭を正式に命じられて則景は佐用の横板に長谷高山城を築いた。妻は北条義時の娘。地元ではこの城跡を谷口の千帖敷と呼び赤松氏の発祥の地と見ている。
 則景の子に景能(間島氏)頼景(得平氏)有景(櫛田氏)と末子家範(赤松氏)がある。家範は佐用の中心から最も遠い千種川下流赤松村に配置され、「山田左衛門尉号兵部少輔、妃者北条時氏三女。時氏は泰時嫡男二女は三浦泰村室、三女山田家範室也」付記してある。
 赤松姓は赤松村に居する末子家範より始まり、やがて四代の末に則村が出現して、本家の宇野家を凌いで強力となり一族の頭領となるのだ。
 「則村以前の信頼できる資料はない、大系図も江戸中期に少ない資料と太平記などから博学の僧によって作成されたか。」などいわれるが、時代や視点によって勝手な変更や附加或いは無視があるのも歴史書の宿命である。この系図は少なくとも大きな時代の渦の中でのこの豪族の勢力の変転を物語っていよう。
 則村が範景の末裔であるまで判ったが、わが寺の祖「釋正玄」何処にいるのか。


   開基「釋正玄」阿波に移る
   ー法雲寺大系図「赤松氏譜」ナゾの空白  跡目相続の争いか?


 
寺伝は「開基釋正玄は太田入道範景の末裔由あって仏門に入り‥‥徳治年中に阿波に移住‥‥」と。だが釋正玄の名は法雲寺の赤松大系図には記されてない。この大系図も史料は乏しく江戸中期に書かれたとされ、則村の父茂則のことさえ簡略である。
 釋正玄が何故に頭を丸めて仏門に入り、阿波に移ったか。徳治年中(1306ー8)までに何が起こっていたのか。
 赤松村に範景の末子家範が移り、赤松姓の祖となって三代目が茂則(寛元三・継職、1245)である。この時代に未曾有の大事件、蒙古来襲の文永・弘安の役(1274・1281)。いわゆる神風で蒙古軍を撃退したが、戦利品は何もない。鎌倉幕府は財政窮乏しただけだ。従軍の武士は恩賞を要求し、寺社は祈祷の功を強訴する。鎌倉・京都の相次ぐ大地震や大火事。幕府は威勢を傾け借金棒引きの徳政令を度々出すだけ。庶民は困窮し世情は物騒、豪族たちはチャンス到来とばかり権力・武力・財力を蓄える。赤松家も例外ではない。本拠の播磨赤松館と京七条の屋敷を結んで活気に満ちていた。
 大系図によると当主茂則は嘉元元年(1303)七十五才で弟茂利(四十七才)に家督を譲り二年後赤松館で死ぬ。その翌年が徳治と改元。この茂利は僅か十年で茂則の長男則村三十四才に家督を渡し自分の長男範資三十一才を則村の嫡子とさせ七条赤松邸をまかせている。これは茂利と則村の組んだクーデターか。 この乱世になぜ茂則が老衰の七十五才までも当主で頑張っていたのか。大系図では赤松家には範景・家範以来鎌倉北条氏との姻戚と土地の豪族の血族との二流がある。更に激動の京を舞台に保守と革新の対立も生まれ、一族の中で跡目相続とからんで暗闘が起こり、茂則は誰を跡目に据えるべきか悩み、決めかねての老齢だったにちがいない。
 大系図では茂則の長男は則村(弘安2生1279)であるが、続群書類従ほかの赤松系譜は長男に五郎法師丸があり、則村は異母弟の次男とする。大系図には空白部分があるのだ。
 則村らの活躍を描く歴史小説「謀叛の一党」(赤松光夫著徳間書店一九九四刊)は、この系図の空白を埋めている。茂則長男の名を正景として、父茂則の老衰と共に一族の支持がうすれ家督争いに敗れ、追われて叡山の奥横川の恵心院にでも潜んで、出家釋正玄となり念仏門に入った。京七条赤松屋敷ー尼崎を経て阿讃山中の九王野に来たが、流転数年の苦難の果てにであったであろう。目玉をむいた則村円心像とは全くちがった面影の正景を想像する。この推理の当否は分からない。
 則村・範資に率いられ赤松家は再び一族結束。元弘三年(1333)一月、則村円心は大塔宮護良親王の令旨を奉じ建武中興の挙兵。播磨の豪族・社寺の宗徒・難波水軍から悪党まで集結させる。この財力・人脈は父茂則の代から蓄積したものだ。
 阿波にいた釋正玄はすでに嘉暦三年(1328)正月十九日九王野山の草庵で往生している。

 


そんこうじ物語 4
           ー当院代々過去帳考ー
    
開基釋正玄「くわの」に草庵を結ぶ。

 
現在の尊光寺から真北に、なだらか山波の一番奥に見える高山が「くわのの明神さん」だ。展望は極めて良い、吉野川中流から徳島市、沖を行く船までみえる。そのゆるやかな東斜面「くわの」に尊光寺屋敷跡がある。
 寺伝に「正玄は播磨赤松家範景の末裔、由あって比叡山にて出家、尊光と号して鎌倉末徳治年中に同族数輩と共に阿波九王乃山に移り草庵を結ぶ、云々と」なぜ阿波もこの地に来たのか、いつどの経路をたどったのか。どんな人々が同行していたか定かでない。過去帳に
 
    (嫡子)  (嫡子)  (子)  (子)  (子)
@開基正玄┬A正信ーC正岸ーD正空ーE正道ーF正誓
     └B正應(正信弟)

くわの山寺に過ごしたこの七代約二百六十年ほど、永禄・天正の兵火により回禄(火難)で退転というのみ。
 徳治年号は鎌倉末期の僅か一年十ヶ月である。前号に記したような混乱期で、阿波守護は小笠原氏(三好)だが、細川の勢力が阿波に浸透しつつあった七百年の昔のことだ。この山村「くわの」(九王野ー桑野)の資料はない。戦後の引き揚げ者の開拓村になるまで、松や樅の大木が立つ山林であった。
 昭和初年、僅かに土塀跡の残る草むらを詣でて念仏し弁当を開いた記憶がある。ここには踏み固めた山路があり、山頂の神社から更に奥に続く。山腹には処々に清水の湧く泉があり、深い渓は九頭宇谷に流入していた。
 ここに一番近いご門徒は「九頭宇」「奥ノ宮」集落である。元禄期より整った「門徒過去帳」には江戸中期までこの九王野山周辺の古い集落名が多く且つ度々記載されている。桑野・九頭宇・オオタオ・清延・逢坂・クスネヂ・高梁・ニガキなど。オオタオ・清延は延享期(一七四四〜)から、桑野の最後の一家は文化期に宮川内村土場に出て消えている。踏み固めた山道は長期にわたる重要交通路、そして時代と共に通らなくなったことをものがたるようだ。
 山頂の九王野明神はホウソウや雨乞いの霊験ありと、戦前までは秋祭りも盛大で日開谷村からみこしや獅子舞も出たとか。ここは浦ノ池との村境、いまも日開谷根来一番地だ。九王野明神は賀越白山系の九頭竜を祀る権現山であろう。白山はイザナギノ命(伊弉諾尊)(本地阿弥陀如来)白山ヒメを祀る。中世からの大勢力を誇る山である。くわの明神山は真北に稜線をのばし、東を宮川内・西は日開谷の村境をなしつつ、どっしりと東西に坐りこむ飛蔵山に到り阿讃国境となる。飛蔵山は蔵王権現(本地阿弥陀如来)を祀る山伏修験道の山で中世から江戸期までにぎわったと史書にある。
 正玄は播磨の反則村派の親族西条山城の高田兵庫介頼重などともつなぎやすい要害の地、また比叡山の僧として身をかくす好都合の場所としてここに草庵を結んだのであろう。尊光と号したと伝えるのも或いは天台座主に近かったと誇示する在野の山伏たちへの名乗りだった。
 周辺の渓谷は村人たちの生活の場であった。岩垣高夫氏の作図の奥日開谷地名図は小沢一本までその固有名が記入されている。今は住む人のいない古い幾つもの集落跡も明示している。
うのた峠が開かれる江戸初期までくわの山の尾根は阿讃の要路。飛蔵権現ー九王野明神の参道、また日開谷川沿いから浦ノ
池・宮川内を結ぶ東西の道、その交わるところの桑野集落は周辺の村人やら山伏・参詣人・旅人たちの人々のにぎわいがあったはずだ。



そんこうじ物語 5  
   
くわの」七代・二百六十年(上

@開基正玄 嘉暦3.1.19 ┬A(嫡子)正信 歴應4.9.7ーC(嫡子)正岸 年不明1.19ー
            └B正應(正信弟)年不明2.25

D(子)正空 年不明6.13ーE(子)正道明応9.9.7ーF(子)正誓永禄9.2.15  ーG正淳年不明1.4

                       
 いま九王野明神の中腹、なだらかに東面する「くわの」のこの地に立っと、はるか眼下に吉野川が東流して、広い平野をつらぬいて海に入る。霞の中に浮かぶ孤島のような「城山」の彼方に大気の澄んだ秋は沖を行く船さえ見える。標高は約五百米、春は桜が万緑の山肌を彩り、ワラビ・ゼンマイ・タラの芽・ふきと山菜は豊か、秋は山栗・アケビ・茸類に、雉・山鳥の鳴き声も身近だ。足下は九頭宇谷・九王谷が深くえぐり、背後は明神の峰がきびしくせり上がって守りも厳しい。耕地は狭いが、所々に湧き出る泉もありおだやかに落ち着いたたたずまいである。
 七百年近い昔、一族から追われた「正玄」がこの「くわの」に移居して草庵を結んだと伝わるが、当初からこの山中の辺地を目指したとはとても思えない。播磨赤松族の主流の一人として、在京の折りはひしめき合う野心家たちと接触。波瀾にみちた情勢に身も心も動かしたであろう。阿波守護の小笠原氏の衰退や新興の細川氏が三河から京都・更に四国へ、東讃はすでに細川禅定らの勢力下にあるのも承知していたはずだ。
 まず播磨とは静かな内海をはさむだけの東讃に渡り、新しい赤松の根を下さうと策したとしても不思議はない。また細川も在京の時は手を握っても自らの地を譲るほどの甘さはない。正玄がいくばくの資金や部下を伴っても、つけいる余地もなく失意を味わうばかりだ。その流転の中で飛蔵権現や九王野明神の存在も知り、比叡の奥横川に脈々と伝わる恵心僧都の「無他方便唯称彌陀」の念仏を想い出したことであろう。飛蔵山の蔵王権現も九王野明神の白山権現も本地は阿彌陀如来であるからである。老いと共に血なま臭い都の争いは次第に遠くなつてくる

 
京の噂に後醍醐天皇の倒幕の企てが失敗したことを耳にしても、苦労を共にしてきた妻の死(正中2)ほどは心を動かさない。往生は、嘉暦三辰正月十九日(1328)陽暦は二月下旬、雲は低く山にせまり時ならぬ春雷が鳴ったかもしれない。「寂時紫雲覆天々楽聞窓衆人覩見而言往生極楽之證也」来迎の文が伝わる。
 二代目嫡子の正信。若い頃の思い出を鮮やかに覚えているし、時として京にもおもむき、世情もさぐり、播磨の一族とも語りおうたはずだ。則村は赤松の頭領として権謀術策のうず巻く都での基盤を固めていた。
 鎌倉幕府と朝廷の確執、隠岐に流された後醍醐帝の執念は元弘三年早春の大塔宮護良、尊雲法親王の倒幕決起の令旨で発火する。則村の二男則裕は護良親王につきそって久しい。則村は即日一族はもとより近在の豪族社寺へきびしく動員をかける。この報が正信のもとにも届いたに違いない。


そんこうじ物語 6 

 
くわの」七代・二百六十年(中)
      
南北朝ー後南朝長禄事件の渦のなかで 

 
開基正玄の晩年(1328没)は達観した平穏であった。だがその死を待つように、赤松一族が先頭に立ってのあわただしい歴史の大転換の幕が切られる。
 元弘の変、倒幕の謀がもれ後醍醐天皇は隠岐に流さた。その第一皇子大塔宮護良親王の側近に則村の二男則祐が仕えていた。円心則村の謀略の底はわからない。
 大塔宮の令旨、正義の旗印を掲げて天下にさきがけての倒幕の挙兵であった。元弘三年(1333)。のるかそるか赤松一族・播磨周辺の豪族・寺社に決起の号令が伝えられた。叛く者は同族といえども討つ厳さ。ためらう西条山城の高田兵庫介(正信の実母の家とも)はその血祭りにあげられている。この動員令は阿讃の二代目正信のもとにも届いた筈、だが旗揃えの名簿に正信の名はない。
 鎌倉幕府が倒れ(1333)建武の親政はあえなく崩壊、あれよあれよの中に尊氏の幕府が成立(1338)。九王野の麓には新守護になった細川氏が築城さえした(1338)、この大動乱の渦中に巻き込まれた心労も大きな原因か、若くして正信没(1241)。暦応四年は北朝の年号だ。正信の弟正應が三代を、四代正岸、五代正空と続く。この三代の百十余年間は異常な南北朝時代。命日のみが記載された過去帳、没年がないのは何故だろうか。
 建武三年(1336)尊氏が光明院を擁立する。後醍醐帝は吉野へ。南北朝が始まった。皇位の継承は三種の神器で示される。ヤタ鏡は伊勢の御神体、草ナギの剣は熱田の御神体、玉がヤサカニノマガタマである。したがつて鏡と剣はうつしで、曲玉は眞の神璽だ。
 この神器をめぐって南北互いにその真偽を言い立て各地の豪族武士も敵味方に分かれて戦った。六十年の動乱は明徳三年(1392)冬南の後亀山天皇が京都にもどり北の後小松天皇に神器を譲って南北朝は終わった。だが山深い南朝の遺臣の中には不満が渦巻く。北朝に渡した神器は実は本物に非ずと。幼い皇胤を守護して吉野の源流の奥山に御所を建てる。後南朝と云われる。ややこしい時代だ。
 神器の争奪事件は次々起こる。嘉吉の乱・南朝遺裔の事件・長禄事件いずれも赤松一族の滅亡再興にかかる天下をゆるがす大事件である。この赤松の大事に僧の彼らが加わっていたか、なぞは残る。
 嘉吉の乱、嘉吉元年六月(1441)幕府四職の重鎮の赤松満祐が自分を軽視し滅亡させようと計る将軍足利義教を殺害する。赤松氏滅亡。その二年後、嘉吉三年(1443)九月後南朝の尊秀王・日野有光らが北朝御所に侵入、宝剣・曲玉を奪い叡山根本中堂に拠るが敗れ、尊秀王殺され剱のみ北朝に戻る。翌文安元年(1444)七月南朝後村上天皇の孫円満院円胤、神璽を奉持して紀伊北山に挙兵する。
 南朝にある神璽を取り戻して赤松家再興をと、赤松の遺臣たちが全力を傾け吉野の奥、三公谷の後南朝御所を襲撃、神璽を奪い北朝に献ずる長禄事件(1458)長禄二年。これで赤松は再興し満祐の孫の政則に加賀半国・備前・伊勢が与えられた。
 そういえば戦後「熊沢ナントカ氏」が南朝の正統とか、新聞で菊紋の羽織姿で報ぜられ話題になった。熊沢天皇を記憶する
人も多かろう。何しろ後醍醐天皇は少なくとも三十六人の子を持つ、立川流密教の先達でもあられたから、紀伊半島の山深く後南朝の後裔が今日いても不思議はない

 この時代の赤松氏の史料と研究を軸とする歴史小説の紹介。
藤本哲著「播磨燃ゆ」赤松光夫著「謀叛の一統」は共に元弘の変の赤松氏の決起と奮戦を史実資料に依って描く。
赤松光夫著「神璽喪失」は赤松再興をかけて後南朝の皇胤を刺し神器を奪う長禄事件。赤松光夫著「首のない血脈」は長禄事件の皇胤を刺した短刀にまつわる現代サスペンス。
藤本哲著「赤松氏の史料と研究」は貴重な赤松氏研究


そんこうじ物語 7
 

 
「くわの」七代・二百六十年(下)
      専修念佛のひびき 石山合戦に本願寺を援ける
 

 当寺が九王野の山中にあった室町時代。阿波の人々に都は身近い所だ。細川阿波守の手勢の阿波の男たちは刀をかざして京の街をカッポした、抜け目なく商売にも往来していた。司馬遼太郎氏も「街道をゆく」で「京ことばの先祖はひょっとすると阿波弁ではないか。阿波の人々は二百余年も京都を強者として支配していた………」という。当然阿波には中央の文化や情報が速く詳しく伝わる。
 九王野時代末期についての伝承は、@浄土真宗の教えが正式に伝わり、A石山合戦に本願寺を援けた、B永禄・天正の兵乱に回録(火災)して山を下った、と。

 過去帳の六世正道(明応九年1500没)は蓮如上人と同世代であり、七世正誓(正道子、永禄九年1566没)八世正淳(正誓嫡子)は證如・顕如両上人の時代だ。当時の本願寺は大阪石山(現大阪城)にあった。戦乱に追われた民衆が集まり、寺内町二千軒を越える繁栄。縦横に川に囲まれた要害の町になっていた。
 天下を狙う織田信長はこの大阪の要地を獲ようと本願寺に次々と難題をかけ、門徒たちを攻撃せん滅しようとした。当然防戦せねばならない。石山合戦(元亀元年1570〜天正八年1580)である。「近年信長、たびたびの難題いまだやまず……」との顕如上人の書状(元亀元年)が阿波坊主衆・門徒衆へも届いている。天正四年石山本願寺が包囲されるに到り阿波へも救援をもとめて使僧も来た。伝承はこの呼びかけに勇躍呼応したことを伝えるものである。
 尊光寺の分かれと伝える讃岐入野山の三宝寺(本願寺派、永禄年中創建、歴代赤松氏住職)の記録には、「天正元年入野山に移り、本願寺顕如上人に帰依致し一向宗(真宗)に相成り……」「天正五年の頃大阪石山本願寺合戦の折り加勢に罷越石山に於いて討死……」と二人の僧の寺名が残っている。尊光寺八代正淳もこの二人と共に石山合戦の「籠城五年」の激戦に加わったか。過去帳には命日のみ正月四日

 
 信仰と正義に燃え「進者往生極楽 退者無闇地獄」の旗のもと四国からの援軍は三好氏の船で木津口に着いたという。正淳らはどこでどのように戦ったのか。
 石山戦争の地図がある。本願寺方は守口・飯満・鴫野・野江・木津・難波など五十二カ所の出城に諸將や門徒が拠った。柵をめぐらした高地の石山御堂には籠城門徒四万余人。包囲の織田信長の本陣は天満。渡辺橋をはさんで本願寺と対し、東北の守口から南の天王寺、西の海上にも船での包囲。補給を断たれた籠城五年であった。天正八年閏三月和睦。事実上は敗戦開城だ。敗戦の将兵の惨めさは、昭和の戦争でも十分味わった。死んだ者のことなど何も伝わらない。
 若い正淳の出陣のあとには母と少なくとも三人の弟妹が残される。「永禄・天正の兵乱に回録して山を降る」と伝えるが、恐らくは長曽我部の進攻(天正十年)を待つことなく山を降りた。食物と安住をもとめた地は三宝寺文書にいう板野郡瀬部赤松庵であろう。
 阿波は長曽我部の進攻で焼きつくされ、それを
征伐する秀吉の軍勢。その進攻軍の一將として播磨宗家の赤松則房(置塩領一万石)がいたのが幸運であった。


そんこうじ物語 8 

「つかの間のアワ置塩藩」 赤松宗家は阿波で滅亡
  尊光寺 大野島の現地に中興ー九世正尊ー

 前号終尾、秀吉の四国征伐の軍勢の将として播磨宗家の赤松則房(置塩城主一万石)がいたのが寺にとって幸運、と書いた。
 大軍の先頭に、赤松上野介則房の自信に輝く顔があった。この大作戦は、戦わずして勝つ。その万全の謀を自分がはたした。必ずや阿波に旧領の数倍の地を得て本家復興の実現への自信だ。
 置塩山城は(姫路市に北接する夢前町)高さ三百七十メートル
のどっしりとした山だ。長禄事件(奥吉野の後南朝から神器を奪還)の功で再興の赤松本家の居城として文明年間より築城、播但備三国守護として栄えたが下刻上の戦国乱世、五代目則房が継職した永禄八年には所領も脚下のみ、本家とは名ばかりだった。  赤松本家の名跡を残すため、信長・秀吉に誼を通じて、天正初年の播磨侵攻に協力、置塩領は保った。
 天正四年、伝来の置塩城を壊し姫路城の築城資材に提供させられ、事実上の落城だ。老獪な秀吉は「新しい阿波で大置塩領を約束しょう」と、さらなる協力を則房に求めた。阿波の細川・三好家は円心以来の親しい間柄の赤松宗家の当主なら申し分ない役。降伏への調停工作をするよう命ぜられたか。法雲寺の大系図は、天正八年阿波に移ることが記されている。その阿波での拠点が、三宝寺伝にいう「瀬部の赤松庵」ではないか。阿波に播磨の雄、赤松本家を再興させようと、庵に僧・俗の人数が集まった。



 信長は天正十年春三好笑岩(長慶の叔父)に大軍をさずけ先鋒として阿波に入らしめたが、六月二日の本能寺の変で急撤兵。その隙に長曽我部元親は易々と阿波全土を倦席したのだ。阿波は打ち続く京都出兵で土侍たちは疲れ果てていた。天正十三年六月下令の四国征伐は圧倒的な人数の秀吉の威武デモンストレーションだ。八月には長曽我部降伏、土佐一国に満足して帰国。阿讃の新領地は諸将に分与された。竜野五万石の蜂須賀は阿波に十七万五千石。阿波の細川・三好の旧勢力を降伏説得し、更に長曽我部との和平工作に尽力したカゲの大功労者の則房には伝来の置塩領の名目で僅か一万石。しかも阿波北方の二十三ヶ村(中富・本村・鳴瀬・乙瀬・矢上・大寺・高房・辻・松・奥野・住吉・犬伏・姫田・坂東・萩原・高畠・西・馬詰・宮島・矢宅・宮川内・神宅・唐園)に分散して、細川の旧勢力の残る真っ只中である。新興蜂須賀の側防の役だ。則房の描いていた夢はむなしくくずれた。赤松庵の瀬部村も圏外に除かれた。ともあれ則房は館を住吉村神蔵(現藍住町住吉)に築き、置塩からの侍たちが固め一族の山田陸太夫にまかせ、則房は佐古の別館に住んだ。赤松庵は解散のほかなかった。天正 十六年則房は実子則英を廃して蜂須賀正勝の甥の細山帯刀を養子とする。のちの賀島主水正政慶、蜂須賀家家老として阿波藩の仕置職となる人物だが赤松氏を称さない。
 慶長三年(一五九八)則房は「阿州領木ニテ卒ス歳四十五」と赤松実記は伝える。領木は賀島主水の知行地領家村(現阿南市)赤松本家は円心・則村から十代、二百七十年にしてここ阿波の地で滅んだ。置塩領は慶長八年(一六0三)幕府より蜂須賀至鎮に与えられ、播磨からの家士は蜂須賀藩に組み入れられ置塩侍と呼ばれた。
 藩祖家政は若い至鎮の後見として、阿波全土の安定統治に努めた。阿波郡の荒れ地開拓に原士の制を定めたのもその一つだ。
 大野島の尊光寺の寺域は家老の賀島や長谷川らの配慮によって定まったものか。元和元年(一六一五)大阪夏の陣が終わり、閏六月に一国一城の制が定まり、七月には寺などに対する本寺本山制も決まる。まだ若い尊光寺九世正尊(八代正淳弟)は赤松家を継ぐ賀島主水に援助を求めた。川島城を廃したあとの奥郡押さえの要地として大野島に寺を構える許しをうけ、播州以来同行した門末(尾崎氏など)も集まった。
 九世正尊は寛永四年(一六二七)家老長谷川越前、賀島主水らのすすめで上洛、六条門跡本願寺直末に列し、同六年には蓬庵家政より金銅阿弥陀佛の寄進を受ける。この尊像は寺の内佛として現在も庫裡に祀っている。
 慶安三年(一六五0)三代忠英公の来訪にはじまり、以降代々藩主の来寺があり、種々の外護をうけている記録が伝わっている。阿波国の安定と共に地域門徒も増し、中興の寺基がいよいよ堅固となった。


そんこうじ物語 9
 
  中興の祖 九世 正尊と外護の人びと

 
九王野を降りて大野島の現地に寺基を定めたのは九世正尊である。中興の祖だが、過去帳は歴代と同じく簡単な一行のみ。
一、第九世尊 承応元辰正月廿八日 八世正淳弟・十世宗光父
 寺地を移して新たに寺屋敷を建てるには領主の許可が必要。阿波
で滅亡した赤松宗家の則房との俗縁でむすばれた、藩祖家政や家老の賀島、長谷川らの外護が伝承されている。
 
解説
(上)十四世惠空又は十五世惠俊代に提出書類に添付した書簡の控え(部分)藩祖家政以降代々太守との「仕合な因縁格別の当家の儀別書記録の程は如斯御座候」と結んでいる。
(下)「尊光寺記録之覚」承応二年七月住職就任と十二世順了自筆に始まり、十四世惠空、享保四年正月までの住職覚え書きである。

 写出は六代藩主綱矩公の巡国(天和二年八月)に際し当寺が昼食の宿となる準備状況を、十三世惠海より郡奉行西弥次郎(三百十石)へ報告書の控(部分)である。
今回ご本堂修復で、かなりの古書・古文書が後堂からでたが、期待の寺史資料は少なかった。縮小図で恐縮だが二例紹介。上の書簡の控は年代不明。ひょっとすると宝暦の頃十五世惠俊が現本堂建立について藩へ一件書類と共に協力の申請をしたものか。内容に代々藩主の来寺の際の応答などの親しいニュアンスが感じられる。
 下は解説通り十二世順了から十四世惠空までの覚書(一冊)。
代々藩主の来寺の時の詳細な記録もある。
 長谷川越前は天正十年播州で蜂須賀に仕え、阿波に来て家老となる。長谷川家は播州名家の一で揖西郡の長福寺城主という(播磨古城記)。
 賀島主水は天正十六年(1688)十六才で赤松則房の養子となった細山帯刀(蓬庵家政の甥で猶子)である。阿波全体の支配を目論む家政が甥を利用して赤松家乗っ取りの策としての養子縁組(賀島家系図)であったという。

 

そんこうじ物語 10 ー当院代々過去帳考ー

大野島尊光寺中興 初期の伝承と住職筆跡記録(上)

G正淳┬H正尊(承応一1652)ーーI宗光(寛文四1664)ーーL惠海(元禄二1689)
     │尼正薫(徳島日外氏娘) 尼妙光(徳島渋谷氏娘) 尼妙寂(徳島三浦氏娘)  
     │ (明暦一1655) (延宝五1677) (享保十八1733)
   ?
    └J貞山(寛文三1663)ーK順了(延宝五1677)ーM惠空(享保十三1728)
       尼妙照    尼妙順(飯尾村曽十郎娘) 尼智空(粟島村弁右衛門娘)
        (延宝八1680)     (延宝六1678)       (明和一1764)

 
大野島の台地に尊光寺を中興した九世正尊から十一世貞山まで、己述(寺報69.70)のように、蓬庵公の命により寛永四年、上洛して本願寺直末となる。寛永六年、蓬庵公より家老長谷川越前、同賀島主水を通じ善光寺千体仏の阿弥陀如来を頂いた。慶安三年、二代忠英公の来寺などの伝承の記録があるが、直接資料はない。門徒過去帳も、慶長から明暦の五十年の間に僅か十余名が記載されているのみ。


 整理の古文書の中に「尊光寺記録の覚え」があった。承応二年巳ノ七月十日より住持職請取申候(十二世)釋順了に始まり。十三世釋惠海、十四世惠空の三代の覚え書だ、その最後は惠空筆の享保六丑三月九日よりの門普請の記録である。材木代やら大工・左官の名から経費など。現在当寺山門(明治初年改築)の修復工事中だから興味深い。それぞれ風格達筆の自署を掲げて中興の労ををしのびたい。
 旧地九王野山を真北に望み、この地に定住したのは天正末年頃か。讃岐入野山の三宝寺(赤松氏)の伝に「赤松氏大多遠坊天正十六年(1588)阿州板野郡瀬部村より阿弥陀石像を担いで来た(全讃史)」と。大多遠坊という名は、戦国の世に生きた阿弥陀如来を中心にした一族郎党の武装集団を思わせる。尊光寺の中興初期もそうした集まりであって当然だ。
 大阪夏の陣が終わってわずか三ヶ月、元和元年(1615)七月徳川幕府は本寺本山制の法度を発令した。寛永四年(1627)正尊が
上洛して本願寺に正式帰属、蓬庵公から仏像を頂戴したのは、「武装解除」だったか。これを機に正尊は隠居して十世住職宗光を後見しつつ集団の中心指導者として多忙だった。
 貞山も正尊のもとで寺の中興に尽くした家族の一人であったか。その坊守の法名妙照尼は、瀬部明照寺を連想させる。この寺は三宝寺や当寺と今も法類縁戚にある。


そんこうじ物語 11     伝承と住職筆跡記録(中

 北方巡視・新藩主の来寺のこと
  殿様の昼食は「くずうどん」とお煮付け 
             お茶はあるか‥‥


 
藩政初期の新藩主阿波北方巡視で、当寺は宿(昼食・休憩所)となるのが例になっていた。代々住職覚え記録には。
 慶安三年寅(1650)八月二十五日 三代藩主忠英公
 寛文十三年丑(1673)七月二十五日 五代綱通公 
 天和二年戌(1682)八月十日 六代綱矩公 
 いつも御目見(おめみえ)に、藩祖家政蓬庵公から賜った当寺のお内仏の金銅阿弥陀像の由来・因縁を尋ねられた。

 天和二年の模様を十三世住職惠海が詳細残している。
 偉い人の巡視が一大事なのは今も昔も同じ。上からは「惣じて諸人に難儀をかけぬよう‥‥‥そのまま、そのまま。」と云われても、先ず書類や打ち合わせに始まり、御座所の修理、便所の新設、番所に馬屋‥‥‥郡奉行以下大忙しだ。寺内はもちろん、近隣村々の庄屋や村人は奉仕に動員される。何しろお供に百二十余名。家老以下が殿様の御駕籠を中心に戦陣さながらの威示行軍である。

 天和二年八月九日御城出発、吹田泊まり(行程十二キロ)吹田(板野町)は讃岐への大坂峠の麓で重要拠点だった。
 八月十日、四ッ(十時)当寺着(行程十六キロ)休憩と昼食。
 「殿様はゆるゆると遊ばされ候」とある。お供も上下それぞれの役柄で忙しいはずだが地方に出た気楽さはあったか。
 「一、殿様御膳、く壽うどん、御につけ次に御茶漬上がり候」台所奉行が殿様専用のお茶を忘れたらしく、「お茶はあるや否やと仰候に付 拙僧宇治の袋一つ嗜(たしなみ)置 我らせんじ上る事」といささか自慢らしく特記してある。
 く壽うどんは葛粉入りのうどんであろうか、白くなめらかな特別製と知れる。今から三百二十年の昔、上質の茶やうどんは一般にはめったに口に出来ぬものだ。
 この白いうどんがお供の衆に行き渡ったかどうか。何の煮付けだったか、味はどうかは書いてない。
 お目見への時の献上品は前例通り、梨の実は十七ヶ、新しい高木具に盛って差し上げた。この梨は郡奉行の命令で村々庄屋に手を廻して集めた逸品であった。
 出発は八ッ上刻(二時半頃)寺での逗留は四時間余り、「殿様はゆるゆる」と書いてある筈だ。脇町泊まり(行程十五キロ)。
 住職惠海は行列の後を追うように十五キロの道を脇町へ。その夜「ご機嫌伺い」に参上を言上する。
  八月十四日早朝六ッ(午前六時)脇町発、川御座にてと帰路は舟で、当寺の前は五ッ過ぎ(八時過ぎ)。お見送り。
 十六日、徳島へ手みやげの扇子や梨、たばこを持って家老山田磯部、長谷川主計、左渡将監ほかを訪れた名書がある。
 惠海の律儀さもさりながら、これが十五世惠俊の本堂建立への布石だった、としたらすごい。


そんこうじ物語 12ー当院代々過去帳考ー
     伝承と住職筆跡記録(下)
 
酒呑みでは住職は勤まらない。〃
 「不思議の霊夢」と次代への諭しか


 「住職覚書」の中に十四世惠空の筆跡で、唯一奇妙な記録がある。
 「正徳五年未年(1715)三月二十三日深夜丑の刻(午前二時)突然の来客あり、八十才ほどの黒衣の老僧。「其方儀は向後は酒を停止されるがよろしい、酒を呑むと嘘を云ったり、万事不埒を演じたり、人を狂わす。これは僧の本意ではない、禁制は尤も至極………」と、これだけが聞こえ、すっと帰ったところで目が覚めた。言葉の調子はどこかで聞いたよな「言々是不思議の霊夢。故記置物也。向後、此寺(尊光寺)の住職又僧坊は、盃三杯より上は酒を呑むべからざるもの也」と禁制を定めている。
 飲酒戒は八戒の一、今更「不思議の霊夢」と特記するのはおかしい。先代十三世惠海は藩主来寺の天和二年八月(1682)から僅か七年後、元禄二年(1689)急逝。残された嫡子惠俊はまだ幼い四才。だから傍系ながら惠空が継職した。
 正徳五年惠俊は三十才になり、次代住職の学問に上洛する。その春の夜の夢の記録だ。ひょっとすると、若い惠俊は父惠海に似て活発で酒好きの若者だったのかも。
 筆跡や記録の内容から律儀だったと想像される住職惠空が、次代惠俊へ心をこめて「尊光寺住職心得」の一としてこの夢告を記し、八十歳の黒衣の老僧とは惠俊の父惠海を暗示したものか。次代住職となれば必ずこの「覚」を引き継ぎ味読してくれる筈だから。
 実際に今も昔も酒呑みでは尊光寺住職は勤まらない。酩酊千鳥足では遠近の檀家・門徒へのお参りできない。しかも酒をすすめられることは多い。昔も今も。
 惠空は細字で多くの記録を残す。十年前まで使用の御本尊の朱塗前卓は元禄七年證如上人百五十回忌上洛時の購入品だ。仏具類も揃え本山への懇志も怠らず、山門は惠空が享保六年(1722)建立、この精細記録がある。(今回修復山門は明治初年の再建)



 
そんこうじ物語 十三 当院代々過去帳考

┳L惠海(元禄二没1689)42ーN惠俊(宝暦十没1760)76ーーーーーーーーーーーーー
 尼妙寂(享保十八没1733) 尼妙慶(享保十四没1728) (麻植郡山崎竹内氏娘)
┃   (徳島三浦氏娘)  尼貞秀(宝暦九年没1759麻植郡山崎竹内氏妹)
┃             
┗M惠空(享保十三没1728)67
 尼智空(明和一没1767粟島辨右衛門娘)
 
                      惠教嫡子惠雲明和九没
ーO惠教(天明八没1788)ーーーーーーーーー P惠伯(文化二没1805)
 尼智暁 (寛政五没1793) (鴨島常教寺娘)     尼蓮乗 (寛政十三没1801) (郡里安楽寺娘)
      



  
宝暦年中 本堂建立の伝承
        当寺第十五世惠俊の業績考証

 現本堂は十五世惠俊の代宝暦(1751-1764)年中と伝わるが、惠俊の記述文書は少なく直接の記録はない。
 享保二年(1717)惠空が提出した本山誓紙には(惠空五十六才)惠俊三十三才京都で学問中とある。父惠海を喪ったのは四才のとき。以後母に育てられ、父の果せなかった願いや活動ぶりを繰り返し聞かされ育ったであろう。
 惠俊は父惠海の血をうけ、同じような精力的な活動の人であった。享保十七年頃の門徒への手紙、寺務について雄渾達筆で論旨もきびしい。尊光寺俊花押とある。延享四年(1747)卯三月本山誓紙は円熟堂々の文字、尊光寺惠俊花押、筆跡からもなかなかの人物が浮かぶ。
 先代惠空は山門を建て台所も再築した。次は度々の上洛で仰ぎ見る御本山のような本堂を建立したいと念願をしても当然だ。有力門徒とも相談したであろう。だが田舎の貧しい末寺。本山の「御寺法度禁制」の数々、丸柱も向拝も箱棟など禁止だし、本堂が正式なら御本尊も本山正式点検が必要。ハードルは高く多かった。寺報70号上掲の書簡も惠俊の藩への請願かか。
 惠俊はこれらを次つぎ越えた。宝暦六年八月十一日本山点検許可、同年蜂須賀十一代謙光公より山号に播磨赤松家ゆかりの金輪山を賜る。仕置家老賀嶋政良の特別な計らいがあったとか。
 藩有林の欅に面白い伝承がある。先々代の御約束でも、藩有林は伐採出来ぬが枯れ欅一本だけなら寄進と。山頂近くの古い大木を(枯れは古に通ずと)有難く頂戴して、皆が集まって切り倒すと下の欅によりかかる、その欅も切る。その次も、高所の古欅一本を川辺まで降ろすため何本も伐採した。山掃除してそれらも頂いたと。このお礼か又はお詫びか、本堂中央の大虹梁に蜂須賀家紋丸に卍の大彫刻が二つ揚げている。
 
「宝暦年中に十五世惠俊が建立」とは、惠俊の代に面倒極まる手続きー許可、資材調達棟梁選定その他もろもろの準備完了の事か。今回の修復総指揮の鴻池組小川勝巳氏はいう、「準備が出来れば七割できたようなもの」と。
 実際の工事は十六代惠教以後、三・四十年かけている。梁や懸魚の墨書、瓦のヘラ書が証だ。惠俊は宝暦十年庚辰(1761)四月十日往生七十六才玄亮院が追号されている


そんこうじ物語 十四 当院代々過去帳考

 
御本堂の光と影 天保一揆の時代を迎える。
         O世惠教P世惠伯Q世厳城R世淨空
  
「新鋳の天保銭 小判形でも中は大穴」

 
寺の門徒過去帳は、ご本尊の次に大切なもの。厚い和紙の袋綴じで、各年度、往生された門徒の法名・命日・地名・俗名等を記してる。
 当寺の過去帳第一冊は、元禄元年(1688)に始まる。古いものは丈夫な和紙も汚れ、ささくれ破れて、読めないところもあるが、滅失はない。(当住になり新しく副本を作った。故秋山好久氏のご奉仕で古い文字も何とか読め、原本は厳重に保管)だが天保八・九年から幕末に至る過去帳は格別粗末になっている。用紙はお布施の包み紙の裏、縦長の通帳式で記載もれも多い。何故かわからなかった。
 天保時代は第十九世淨空が当住、文化十二年(1815)に就任してすでに二十年になる。先代の叔父厳城が突然の隠居。二十才の若さで住職になったが、もう四十才。蕉園と号している。
 文化文政年(1804-1830)は化政時代と称され全国的に町民文化が興り、世の綱紀は弛み、風俗は華美になった。余裕のある門徒は何ヶ月もかけての本山参り、関東・越後の二十四輩参詣の記録が多く残る時代だ。尊光寺も新しい本堂は聳え輝き風雅な鐘楼は妙音を流して、外面は一見豊かそう。新装成って寺には学者・画家・書家等々の文人が訪れ画仙紙に墨跡を走らせ、酒を酌み詩作したようだ。淨空も漢詩や連歌に筆跡を残している。
 天保の改革、大判小判の貨幣改鋳があり、金銀に縁遠い庶民用には当百文の天保通宝が小判型で「天地と共に伝わらん」と発行。老中水野忠邦は倹約・風俗匡正・物価引き下げ策を強行するが、各地で天災地変に加え農民一揆が続発する。
 この阿波の地も例外ではない。天災地変も続発、天保十三年(1842)徳島藩最悪の年。美馬・三好地方の上郡一揆。阿波郡の西野川一揆は天保十三年二月五日夜、西野川庄屋の川人藤三郎家を打ちこわし。七日夜は香美村玉屋瀧郎宅にも百姓三百人が押し寄せる。ー香美騒動ー。尊光寺を宿所として郡奉行が郷鉄砲を引き連れ出張。次々と召し捕り、寺は「御留置場」として使われる。
 今回の修復工事で、本堂裏のゴミから「尊光寺勤化牒」と題書の五枚ほどの一綴りを見つけた。天保六年十月十一日付けの「尊光寺全会計を檀家管理」に移す世話人議案であった。半読して大驚した。
 「尊光寺当住職二十ヶ年之間住職以来」云々と、借金凡弐百四拾両剰りを年々返済する為とある。書類は整い文字も専門家的で、門徒世話人の作成とはおもえないもの。
 予算のうち、寺の台所には飯料から味噌醤油までで銀弐百八拾匁(米三石六斗)に対し、隠居所飯料は銀百四拾四匁(米壱石八斗)と半分に達し、その上に隠居料として四百五拾匁を計上している。更に、布施物寺納處を聴泉處隠居と指定する、との条目まである。
 これでは住職は経済封鎖の制裁をうけたようなもの、台所も大変だ。一切の文化活動を門徒から禁止されたというのか。この世話人案が実行されたかどうかは伝わってない。
 天保一揆の捕方への接待もこうした実情の中で行われたとしたら、過去帳用の上質和紙を買う余裕もあるまい。お布施裏紙の過去帳の出現も納得できる。

そんこうじ物語 十五 当院代々過去帳考
 
 御本堂の光と影 (承前)
  み佛の光明あまねく この世の極楽
     活気にあふれた   淨空の代 十九世


惠教 天明八没(1788)┰P惠伯 文化二没(1805)ーR淨空 嘉永六年没(1853) ーー
          │    住職十七年        住職 文化十二年〜嘉永三年 (三十五年)
       │           
妙蓮 明治二十年没(1887)九十才
       
┗Q厳城 嘉永元年没(1848)      香美 佐藤丞左衛門娘タキ
        
  住職 文化二年〜十二年
―――――――――――S顕乗 文久二年没
(1862)
住職嘉永三年〜
 

 前号は影の部分をこく書いた。照らす光が鮮烈であったから影も濃くなった。
 父惠伯が大事業の疲れで若く逝き、継ぐ十八世厳城叔父も僅か十年で隠居。淨空が十九世住職になった文化十二年は二十才そこそこの若さであった。
 聳え立つ新本堂の大屋根の輝きは遠くからも望め、尊光寺も一段と格をあげたかに見える。寺内には有能な役僧、多くの小僧さんらが日常を勤める。ご門徒も活気にあふれた。本堂内も正面三間の竜欄間(猪尾六左衛門・同与吉郎寄進、)南北余間の極楽鳥牡丹の大欄間(田上幸助・大塚清兵衛寄進)も文化十年代である。(共に平成三年修復)
 本堂の余材で鐘楼も引続き改築か。続いてふさわしい大鐘も文政七年に再鋳された。(この鐘は昭和十八年戦時供出、現在の大鐘は戦後二十一年参鋳)「豊瀬」と大書した大きな手洗い石は天保十四年、達筆の十九世淨空代である。本堂・境内が現在の姿になったのはこの時代なのだ。
 ご門徒のあふれる熱意はみ佛の限りない光明から生まれる。その光明は堂内の荘厳な輝きである。ゆらぐ灯明に照らされる本堂は金色に輝き、群参のお同行のお念仏の声も高く、堂内の新しい彫刻を見て、その深い意味を語り合ったであろ
う。大屋根破風の「兎」を見ては説法聴聞せねぱと思い、堂内の宝袋から「宝の山に入りてむなしく帰るか」の言葉をくり返した。
 冬の報恩講・春秋の彼岸会法要も盛大さが想像される。時代は平和な文化・文政期、地味豊かな農山村も懐があたたかくなり、漢詩・発句・連歌の集まりやら、茶・華・芸事、遠く京・越後、御開山親鸞聖人ご旧跡めぐりや本山詣りと長旅の記録も残っている。
 淨空が漢詩や発句に凝ったのも時代文化の流れの中での新しい仏縁であったものか。遺された文書にも赤松藍州・紫野碧海・阿部椋亭・ほか多くの学者文人の名もある。
 多くの門徒の詣る報恩講にも奉燈発句の会を持ていた。今まで寺には無縁の人々も集まったか。
   馬方も手に数珠かけてお講かな 
桑村嵐朝
   報恩講の参り下向や鶴の声、
   前髪のおさなき声も報恩講 
藤太夫塚橋北
   一年の花の根じめや水仙花 
 淨空は蕉園と号する。寺庭の芭蕉は彼の招来したもの。寺宝とする山陽・栗山松翁等の書画はこの時代のものである。
 住職三十五年、趣味・道楽に見えた文化活動も、広く遠近に仏縁を弘め寺門の興隆にも連なったといえよう。


そんこうじ物語 十六 当院代々過去帳考

 (幕末から明治維新「天下大変動」のひびき) 
 
尊光寺を護持した人々(上)
    第二十世顕乗 若く逝くー血脈断絶ー

R顯憧院釋淨空 嘉永六年没(1853)  ┌  S善立院釋顕乗
住職 文化十二年〜嘉永三年 57      住職 嘉永三年〜文久二年八月
│┌女 淨空三女 文化九年没  │ │   文久二年閏八月三日没(1862)三十才
├┴─────────────┘  ├─ 嫡子 諦忍 安政五年三月没(1858)
│                  │
坊守 淨池院釋尼妙蓮          坊守 歓信院釋尼妙行
香美 佐藤丞左衛門娘タキ        天保十一年生ー大正十二年没八十六才 
明治二十年没(1887)九十才       郡里 西教寺法岸二女コト

 嘉永三年十月、世間の毀誉の声に耐えつつ、住職三十五年。十九世淨空はやっとその嫡男顯乗に寺務を譲りほっとした。
 顯乗の住職は嘉永三年亥年十二月より本山許可。
 寺の本堂・鐘楼ほか新装がなり、大寺の風格も出来ると、それだけ住職の肩の荷は重くなる。門徒檀那のそそぐ視線も多くまた厳しい。蕉園と号した淨空は、肩も軽くゆっくり隠居で詩文を楽しもうと思った。
 顯乗はまだ十八才の若さ(天保四年生1833)だが、坊守コト(郡里西教寺娘)を迎えた。五才下でまだ幼い。ーよく近所の子供たちとお手玉をして遊んでいた、との話が伝わっている。
 顯乗の筆跡が書庫に残っている。
 四十八願聞書、正信念仏偈聞記、御絵伝解ほか数冊、天保十五年(十二才)弘化二年(十三才)など、堂々とした文字で、現代の大学生も脱帽だ。記述の中味も充実している。
 文人の淨空が手塩にかけていつくしみ教えたものか。だが喜びの日は短い、嘉永六年正月淨空は往生、五十七才。
 当寺門徒過去帳第十一号(嘉永三年ー文久元年 十一年間)は顯乗代のもの。天保期の物と比べると紙質もはるかに上等。顯乗の住職就任の張り切りぶりが感じられる。
 時代は幕末へ。ペリーの来航、安政開国条約と江戸周辺は騒がしくなった。阿波の田舎は平和そのもの。寺には人々が集まり楽しい場所であった。
「秘密録」と題した厚い顯乗の手帳がある。種々の覚えや詩文のメモ、さては説教のタネ類まで、なかなか面白い。

 ホレラレテ、ツラカローケレド辛抱サンセ。
 ホレタ私ノ身ノツラサ。ホレタトイウハ難儀ナモノ。
 植木ニホレテ金銀費シ、酒ニホレテハ其身ヲ忘レ。
 女ニホレテ命ヲ捨テル。ホレタガ因果、ホレラレモ因果。
 大慈大悲ノミダ様ハ、悪人・悪女ニホレヌキテ、
 七宝樹林ノ楽シミモ、宮殿楼閣ノオ座布モ目ニツカズ、
 悪人女人ニホレラレテ、五劫ガ間ウキ身ヲサラシ、
 長イ永劫修行ヲカサネ、イヤイヤ忘レヌモノカイナ、
 右ノオ手ヲアゲサセ玉ヒテハ、早ク来ヨ待ッテオル、
 左ノ手ヲ下ゲ玉ヒ、摂取不捨トニガシハセヌゾ、
 歌ヲ詠ム人、月ヲ待ツ、茶屋ノ女ハ客ヲ待ツ、
 拝ム大悲ノミダ様ハ、コイシイオ前ヲ待ッテイル。
 金剛堅固ノ信心ノ、サダマル時ヲ待ッテイル。ー(続)ー

 人々の生活と信仰が明るく解け合っている。
 妻コト(十五才)に待望の嫡子が誕生した。が満二年もたたず先立つた。
 人寿ははかり難く無常の風にさそわれて朝露のようにはかないのは乳児だけではない。若くたのもしかった顯乗が忽然と往生した。住職就任より十一年。文久二年閏八月三日。多忙な期間の続いた晩夏であった。過去帳は、八月特に異常、四十余名の老若男女が累々と名を連ねる。
 寺の表は諸役も寺務も支障なくとも裏は尊光寺の一大事。浄土真宗の寺は血脈と法脈の二相の相続が宗祖以来の伝統だ、その赤松氏の直系の血脈の断絶である。残された寺族は先代坊守の妙蓮こと母のタキ五十五才、おろおろする若い嫁のコト二十四才だけだ。泣くだけではすまない。
 タキは香美村佐藤家より嫁ぎ四十年余、留守がちな淨空を支えてきてた実績と経験があった。どうするか、自薦他薦の候補をあげて、法類の寺々門徒の世話人らの鳩首協議が続いた。この間の論議は伝わってないが、寺の過去帳の十二号・十三号は各二年、その薄さは当時の様子をものがたる。



そんこうじ物語 十七 当院代々過去帳考


 
天下大変動 「幕末から明治維新」
     尊光寺を護持した人々(中)
老坊守(十九世淨空坊守タキ)とお同行たち
跡継ぎをどうする ー噂話にみ佛の声をきくー

住職 文化12年〜嘉永3年  住職 嘉永3年〜文久2年
19淨空 嘉永六年没57才−−20 顕乗 文久2年閏8月3日没(1862)30才
 坊守 タキ 佐藤氏  |      嫡子 諦忍 安政5年3月没3才
  明治20年没90 才|   坊守 コト 千葉氏 大正12年没86才
            |    
            └21養子到岸M43没 73才----- 22養嗣子 一乗T12没66才
          (明照寺生)住職 慶應3ーM25  (明照寺生)住職M26--T12


 文久二年(1862)閏八月若い顯乗が急逝した。「朝に紅顔ありて 夕べには白骨となる」ご文章の聖句のどうり、みな悲嘆にくれ、母親の前坊守のタキは誰にもまして悔やみ落胆した。私の代で赤松氏の血脈が切れる。
 余宗とちがい浄土真宗だけは宗祖親鸞聖人以来妻帯が公認され、「坊守」として寺務にもかかわる。タキは本堂でもお内仏でもお念仏しながら、どうすればよろしいかと繰り返し願った。
 気安いお同行(お参り仲間)が来てさりげない話をする。この時代、女たちの世間は案外に広く情報通でもある。お講やお彼岸の各寺の法座には誘い合い参詣聴聞して廻るのが楽しみで、どこの寺にも親しい同行がいる。あけすけな噂話、笑い話のうちに、縁結びの仲人ぐらいはなんでもない。世話好きぞろいだ。
「ええ養子さんないかいなあー。若い後家さんが可愛そうやー。」
「瀬部のお寺さんの跡取りの到岸という若さん、気の毒で。叔父さんが住職になって、それに男の子が二人も。到岸さんを養子に出したがつている。讃岐の三宝寺から来た祖父に名前もらって、かわいがられていたというのに。」
「二十四輩参りに行って実物をよー見てこんで。」
 誘い誘われ老女たちは気が早い。その声は佛さまからのようにひびいた。
 浄土真宗には宗祖聖人の直弟子たち二十四人の寺々を巡拝する風習がある。その本跡は関東や越後。それを手軽に阿北の二十四ヶ寺で代わりにする。
 秋晴れの日、明照寺の本堂で若い到岸さんにも会えた。女たちはなかなか話し上手、天保九年生まれ二十六とまで聞き出す。寺は広々とした田圃の中にある。本堂も鐘楼門も門前の松の枝振りまで皆がほめた。三宝寺の出の人の直孫なら赤松家の血筋、それに若坊守より二つ上、とタキは納得した思いで本堂に合掌し、振り向くと竹箒を手にした子供がビョコリとお辞儀をしてニコリとした。 
「坊はお寺の子、えらいね、お歳は」
「まだ七歳、でもお正信偈はあげられるよ」
「お名前は」「いちじょう」 
タキには妙にこの子供が気になった。亡くなった孫と同い年、「いちじょう」て、どんな字であろう。
 女たちはシナリオは巧に作るが決して表面には出ない。晴舞台の役者はすべて男たちだ。顯乗の一周忌が過ぎるとすぐ門徒世話人が正式に話を進めたか。
 簡素な披露に門徒の人たちの目を驚かしたのは、数十冊の書写本であった。難しい文字の並ぶ標題の下に、阿陽到岸記と達筆の署名がある。「若いに似合わず学問好き、ええ若院さんが来てくれ、寺もこれで大安心じゃ」と喜んだ。
 だが時代は急転し攘夷はいつの間にか尊皇倒幕に変り、攘夷の孝明天皇は三十六才の若さで崩御。十七才の明治天皇が即位。
 到岸の住職任命は慶應三年三月二十四日付けである。十二月王政復古が布告され神仏分離令「諸事神武創業ノ始メニモトズキ・・」と。政府に神祇官が出現し、廃仏毀釈の運動があふれた。寺々の破壊、仏像仏具を壊したり焼いたり、国宝級を二束三文で外国人が買った。
 明治四年四月は宗門人別制・寺請制度の廃止。檀家を自由に止めてよいと、田舎末寺もゆらぐ。各宗本山もゆれ、真宗でも興正寺が西本願寺離脱独立を表面に出し、門徒の間で論議が湧いた。
 大寺の住職になった喜びよりも、到岸はその忙しさに戸惑い疲れるばかりだ。若い坊守コトは頼りないが唯一人の可愛い存在であった。子供は次々と生まれたが女児ばかり。過去帳にはタキノ・ヤエノ・蓮江と名が連なりみな一、二歳である。
「院主さんには男の子種がないナー。こりゃまた後嗣ぎ養子を決めとかんと」口さがない人々はあけすけ。
 タキは自分の元気なうちに一乗を跡継ぎにほしかった。

 そんこうじ物語 十八 当院代々過去帳考

 「幕末から明治維新」
    尊光寺を護持した人々(下)
       二十一世到岸から二十二世一乗へ

  
嵐のあとに お念仏の花が咲いた

 到岸が住職になったのは慶應三年三月。この正月には十七才の若い天皇が即位。薩長の志士たちが尊皇倒幕の錦の旛を立て、明治維新の大革命爆発の年である。
 京・大阪の火の粉は阿波の田舎にも飛んでくる。寺に残る文書にも、郷学校創設の協力毎年米一石五斗上納・西民政掛(明治四年五月)、県第四大区役所尊光寺設置(明治五年五月)など。乏しい台所には重荷だ。
 田舎のこと、住職も信頼を得るには歳月が必要、檀家の法事が顔見せ品定めの席では気も休まらない。到岸は時代の大変転に揺られなぶられ、内も外もひたすら耐えて頭を低く黙るほかなかった。疲れ果てていた。
 老坊守タキの願い通り、明照寺の一乗は得度した(明治二年三月)。「お坊さんになってくれてありがとう。お勉強や手伝いにずっと来ておくれ」三才で死んだ孫諦忍の面影を同い年の一乗に重ね可愛がった。
 寺には似た年齢の小僧もいる。同じに扱われたが勉強し、多くの携帯用の手帳や控を残している。講習会の聴記があるが京都遊学の記録はない。法事のお伴や法会の準備や手伝いに門徒の人々と気軽に接していたか。
 一乗は到岸の養嗣子(二十才明治九年六月)になった。以来、寺の過去帳ほか公私控えも一乗筆跡がほとんどだ。
 維新の動乱も明治十年西南の役で終わる。
 老女タキは生きている間にひ孫の顔をと、嫁候補は決めていた。大柄で健康な佐藤イワ(安政六年生)である。実家と親しい児島の佐藤権平長女だ。村名こそ違うがほんの隣である。一乗の三つ年下で字も読めるし気だてもよし。この娘なら複雑な寺の台所もきっと護れるとタキは思っていた。
 春秋農繁期の寺はヒマ。食べ物はできるだけ自給、オナゴシや棟梁ハン、さては小僧も院主も鍬を打つのは当たり前、若い嫁ハンは有力な働き手となる。待望久かった男児も生まれ、性信(親鸞聖人第一の弟子のお名)と名付けた。
 維新の騒乱期を黙って耐えた到岸の思わぬ功績か、門徒は動揺もなくむしろ増加していた。報恩講など法座は超満席、本山なみに賽銭受けの柄付き箱が寄進されるほど。
 近隣の門徒が先頭に立って寺の護持荘厳に尽力されている。古い山門の改修が行われた。山門は(享保六年十四世惠空代建立)古いままだった。本堂内に「大門建築芳名」の板(到岸筆跡)に、発起人・桜川大蔵、世話人・湯浅辰蔵・外山和平・大野菊五郎・尾崎光太郎(他)、寄付 槻戸板森純四郎、槻柱日開谷稲荷中、槻柱二本松永孫七郎、槻柱三本岩野名中、御影石地盤唐渡玄郎、同雨切唐渡嘉平、大楠一本大池名中、松上具江沢孫蔵・大塚精二・大塚由蔵ほか、練塀六間外山和平・湯浅辰蔵・大野菊五郎ほか(以下略)が大きく記されている。明治十六・七年頃か。
 タキは長寿を恵まれやっと血脈の孫も見届け、坊守の責任を果たし満足して眼を閉じた。
 淨池院釋妙蓮大姉 明治二十年七月十二日 行年九十
        十九世淨空妻タキ 佐藤氏 到岸養母
 当院代々過去帳の文字は丁寧な一乗の筆である。
 到岸は大門の新築を花道にして住職退任。一乗が二十二世住職就任、すでに尊光寺では二十余年間も住み勤めて、遠近の檀家とは気安い間柄であった。
「帝国」となった日本の前途には戦争が続く。日清戦争・北清事変・日露戦争と門徒の中にも出征、戦死者が出る。一乗は多忙な寺役法要のほか宗門内外に活躍、郡仏教教会(進徳会)結成にも尽力している。
 到岸は晩年縁先の三好郡の寺で客死し、その遺体は村の若い門徒たちが二十里の道を徹夜して担ぎ帰った。この搬び手の一人が近年まで存命し細かい話を残している。
 二十一世 弘誓院釋到岸法師 明治四十三年一月二十五日行年七十二歳 墨濃く書かれている
 


そんこうじ物語 十九 当院代々過去帳考
 み仏にささえられ 我行精進忍終不悔(大経)
    二十二世 一乗と坊守イワの生涯
      大庫裏の改築 終わりよければすべてよし

 若者が希望を持てない国はダメになる
 家でも国でも発展期は子供達の活気ある声から始まる。新鮮なエネルギー噴出の音だ。この推進力で飛躍するのだ。
 明治もなかば、二十二世一乗住職の尊光寺も法義繁昌。本堂は荘厳に念仏の声があふれ金襴の袈裟が灯に輝いた。
 庫裏もにぎやかだったが、可成り深刻でもあった。住職は寺の最高責任者だが、新制定の戸籍法の「戸主」の家族統率権はまた格別、その戸主権は前住職が握っていて、隠居どころかだ。
 昔の庫裏の間取りは判らないが、藩公来寺の記録からも古くて広いそれなりの部屋は残っていた。寺の台所は「寺」と「家」とが混在する処、三度の食事も、役僧・弟子僧のほか寺の雇い人と子供など家族を合わすといつも十五・六人。米麦野菜は自給してもその賄いの財布は住職がせねばならない。
 今も昔もお講当番やらお詣りのご門徒は気安く奧まで出入りする。寺の内緒は外につつぬけで「住職ノ財政困窮ニツキ……」と総代さん発議の頼母子講形式で援助さえあったと。
 一乗と坊守イワは子宝に恵まれ、みな健やかに育った五男三女。子供たちはそれぞれに才覚の玉をもって生まれてくる。下から次々と押されると上は飛び出る。長女は十四で嫁ぎ長男性信、次女ハキエ、三女なつと、可愛がってくれる瀬部の達照伯父の所に泊りにゆく、ここは飯も山盛り勉強も出来たしうるさい爺もいなかった。
 この自然に得た積極性がそれぞれの生涯を飛躍展開させた。長男性信は本山へ学問に上洛。当時本願寺では教学発展のため政治文化の中心東京の高輪に仏教大学・高等中学を新設した。性信は選抜され高輪中学に移り築地本願寺ほかでも広い学友を得た。また明照寺の縁で七条村(上板町)出身の松岡康毅氏(農商務大臣・男爵、元阿波藩家来)の知遇も得た。学資の用意か、明治三十四年母イワは相続していた家屋敷を処分している。高輪中学から東京外語学校を経て農商務省に入り妹も上京させ、以後弟たちの進学を助けている。我が国も発展拡張期であった。
 珍しい写真がある。この庫裏は大正三年秋、総代尾崎儀三郎・外山和平・松永孫三郎・北岡亀五郎・中村・湯浅氏ほかの発議で「当寺庫裏改築ノ件」として大正四年二月改築決定の檀家総会があった。「時節柄に付き工事等モ倹約」と総工費千六百円。大玄関破風・彫刻ほか建具、台所梁柱等が再利用された。
 やっと移渡りした大正六年の早春、先住到岸の七回忌に性信が初めて妻子供を伴い帰郷の記念か。老い疲れているが満足げな住職一乗が中心、横の老女は先住坊守コト。左の紋付袴の長男性信、坊守イワ、角帽は三男教信、右端は性信妻ヨシと息信一、ハキエ・ナツも子たちといる。軍務の二男・在学中の四・五男は見えない。そして九十年、みな倶会一処のお浄土にいられる。

そんこうじ物語 二十 当院代々過去帳考
  早春の寺庭に立ちつくす葬送の人々
 
二十二世 圓頓院釋一乗(大正十二年三月十一日)   
    写真が語る諸行無常 尊光寺八十年の変化

 前八十号の庫裏改築の記念写真では、まだ角帽姿だった三男教信(二十三世)が、翌春卒業帰寺してから、一乗住職は病臥しがちになり、そして孫の男子が誕生してすっかり安堵してしまったか。まだ若い六十八の春。
 謚号圓頓院は宗祖作高僧和讃(曇鸞章)より頂くと伝える。
  本願圓頓一乗ハ 逆悪摂スト信知シテ
  煩悩菩提体無ニト スミヤカニトクサトラシム
圓頓とは、円満にして欠けずかたよらず、速やかにすぐそのままで南無阿弥陀仏の極楽浄土に生まれさせて下さる、の意。ご和讃をお味わい下さい。
 一乗晩年の写真は、沢山残されている。苦労を共にしてきた坊守イワが身近に大事にしていたからだ。中でもお葬式の写真はアルバムからはみ出る格別の大判が二枚。庫裏二階から寺庭の「出棺勤行」を俯観したもの、南の粟島の河原に正式に五具足荘厳した野辺の「葬場勤行」を横から撮ったもの、いずれも葬輦(ソウレン)と棺が中心のスナップである。葬輦は往生人が極楽へゆく乗り物の名だ。
 寺庭の写真(縮小)、見なれない大老松や古木のモチが本堂大屋根の上を高くおほう、下に蘇鉄の葉がわずかに見える。風字型の椋亭碑は現在も同じ位置だが、大灯籠(昭和三年鴻野各家の寄進)も淨池堂(昭和十五年大島佐三郎寄進)はまだない。早春の南山は霞む。広い庭の真ん中に葬輦と棺、七条袈裟の法中や郡内他宗諸寺院。参集は山高帽に紋付き袴で白足袋、遺族の女性は白無垢を着て並ぶ。荷物を担ぐお供がいる。肩衣の人が葬輦を調えている。
 本堂ご本尊へのお礼とお別れの「出棺勤行」が終わり、いよいよ灯籠・旛を先頭に棺に結ばれた長く白い「善の綱」に連なって粟島河原の野辺の葬場への出発しょうとしている。
 この一枚の写真からも、昔ながらの同じ姿と思っている寺が、たった八十年でこれだけ変わっている。
 刻々と全ては転変して止まることはない、とはみ佛のおさとしの基本であったと、今更のように知れるではないか。
 老松も古モチも全て消えた。強そうな大木ほど台風に倒され、松食い虫の流行に枯らされる。練塀ぎわに若々しく伸びた一本のモミが、現在の寺庭で最も目立つ大樹である。この木は本尊供華を続け百近い長寿で往生された湯佐武助さんが、子供の時父と一緒に植えたとか。
 見はるかす大野島の野は拡がり、眼をこらすと粟島河原が白く見えている。まだ堤防が築かれていない。ついこの間まで人々が住んだ懐かしい粟島村、野辺送りの葬場がここに結界されたかがわかる気がするではないか。
 四十年前なら、この写真から「これが私です」と指さす方があったかも。だがこの画面だけでも二百人が数えられるなかで、(八十年後)今は何人がこの世にいられるか。
 葬輦が霊柩車になるのは時代のせいだが、せめて元気なうちに、み教えへの入門帰敬式(おかみそり、法名拝受)はご自身で受けておられたらよい。いつの世も「死の縁無量」いつどこで何が起こるか分からない時代です。 

そんこうじ物語 二十一 (終) 当院代々過去帳考

 尊光寺は、鎌倉時代の末から始まり、資料も少なくわかり難い時代ですが、勉強させて頂きました。

 前号で二十二世までたどり終え、後は昭和時代。
 二十二世一乗坊守(昭和九年七月九日)
 二十三世教信(昭和四十二年五月十八日)
 二十三世坊守コマツ(昭和五十四年十二月五日)
稿を改めてその時代を回顧もしたい。
 「そんこうじ物語」の出版、尊光寺創建「徳治年中」は明年で七百年になります。記念に「尊光寺報」から宗祖の足跡や中国インドの巡礼記ほか写真なども加え編集、「そんこうじ物語」と表題の美しい三百四十頁の本になりました。近くご縁のみなさまに謹呈の予定です。ご期待下さい。
 去る十一月十三日(日)鎌倉市一乗庵で縁に連なる若い方々で出版記念会が開催され、寺を代表し京都から信映と順子が出席、尊光寺や赤松の歴史を話題に、親睦歓談、二十六名も出席で盛り上がったとのこと。
 



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