集団疎開と尊光寺 八幡小学校 五年 赤松 信弘

 
戦争中、我が家で集団疎開をしていたことを知り、このことについて、もっと知りたいと思ったので、知っている人に聞いて調べてみることにしました。
 学童疎開ー太平洋戦争の末期に戦争の災禍をさけるため、大都市の国民学校児童を農山村地域に集団的または、個人的に移動させられたこと。
 終戦直前の昭和19年9月に大阪市大正区の大阪府立三軒家西国民学校より疎開に来て、終戦後の昭和20年10月までいた。
 
 疎開場所
  国民学校 三年生  尊光寺 市場町大野島
四年生  大野寺 市場町山の上
五年生  西福寺 阿波町林
六年生  文明館 市場小学校入り口あたりで 
         映画館が封鎖になり旅館をしていた

 尊光寺は国民学校三年生の男子30人と女子27人と大阪から中出教頭先生と担任の中川先生、それと地元で雇った寮母さん3人(湯浅さん・小池さん・寺の坊守)。寮母は子供達のそばで寝るまで身の回りの世話をしていた。掃除、洗濯、炊事には地元の稲井さん(26才)三浦さん(18才)の二人が雇われていた。当時は各家庭にまだ風呂が無く、風呂に入ってから帰っていた。

服装 
 来たときはまちまちの服装で、たくさん持っている子もいたし、少ししか持ってこなかった子もいた。そでの長い着物を持ってきている子もいた。黒っぽいもんぺをはくようになり、上着の胸には、住所、名前、血液型を書いて縫いつけた。

はきもの
 来たときはくつ、後はぞうり、くつの配給が五〜六人ずつあった。
 
昭和19年9月20日  尊光寺疎開児童
食事
 もうそう竹を輪切りにした食器で、ご飯用とおかず用大小あり、竹で作ったはしを使っていた。タニシを捕ったりカタツムリを捕って焼いて食べた。カボチャを食べた後、種を洗って干していって食べた。疎開の始めの頃は米の配給があり、白いご飯も食べていたけれども、だんだんきびしくなり、米の代わりにそら豆やいも、大根の配給になったこともある。砂糖だけの時もあった。いで干し、切り干し大根、すいとんなども食べた。すいとんはみそ汁の中にメリケン粉を柔らかく練って入れ、だんご汁のような食べ物であった。
「ほしがりません、勝つまでは」という気持ちで、みんなががまんして生きることにせいいっぱいだった。
正月や祭りの時は近くの農家の人が2〜3人ずつ招待して、ごちそうしてくれた。
学校に田んぼを実習田として貸していた。そこでできた米の供出した残りを疎開の子供にも食べてもらっていた。「仏様でもないのに 一膳飯とはなさけない」と言いながら食べていた。

遊び 
 たくさんの子供が人形を持ってきていた。羽子板、かけっこ、合唱、タニシ捕り。おはなしをよく聞かせてもらっていた。小泉八雲「耳なし芳一」など。

当時の様子
 「しらみ」を持ってきた子がいて、皆にうつり、風呂で服をたいて、しらみを殺した。しかしなかなか死ななかった。その時服から色が出て白い服に付いたりした。子供達が疎開から帰って二年ぐらいしてやっと「しらみ」がいなくなった。
おなかをこわしたり、病気になる子がいて、かわいそうだった。
おなかがすいて、何かもらおうと付きまとう子もいた。
便所はぞうりをはいて、外へでなくてはならず、夜はこわくて「おねしょ」する子もたくさんいた。3人から11人くらい毎日おねしょしていた。
夜になると泣いている子がたくさんいた。
風呂にはたまにしか入れず順番待ちもたいへんで、10人ずつぐらいのグループごとに入っていた。明るい内に子供から入り、その後家族が入っていた。水道がなく井戸から水を運んでいたので、60人分の風呂をわかすのは大変だった。
冬は暖房もなく、今の時代より寒かったようです。
手、足、耳にも、しもやけができ、医者へ行っていた子もいた。
当時、国民学校二年生のおばさんは、疎開の子に、よく遊んでもらっていた。
今回、当時疎開に来ていた室谷芳子様から、手紙や写真を送って頂いたのは、おばさんと、ずっとお付き合いが続いていたおかげです。
当時、18才で、八幡幼稚園の代用教員をしていたおばさんは、焼夷弾が寺の前や後ろにも落ちてきて、毎日、「明日の命がある、とは思えなかった。」と言っていた。
疎開の子供達にせがまれて、よくお話を聞かせてあげていた。
両親が、腹が立つくらい疎開の子供達を大事にしていたので、やきもちを焼いていた。
母親は、疎開の子供達に、付きっきりで世話をしていた。
疎開の子供達に、だんだん部屋を占領されるような思いだった。
自分に家族の食事を全部任され、生きていくのに精いっぱいだった。
思い出したくない一番いやな時代だった。
親が買い出しをかねて子供の面会に来ていた。
昭和20年に入ってから空襲がひどくなり、それぞれの親から、「もしもの時は、子供を頼む。」という内容の手紙が何通も届いた。
八幡国民学校高等科の生徒は、勤労奉仕で、吉野川の河原で芋を作った。
14才ぐらいから、学徒動員で大阪や兵庫の工場へ働きに行った。
香祖母は嫁にくる前に時々奉仕で疎開の子供達の世話にきていた。
寺の梵鐘も仏具も供出させられ、代わりにからつの仏具を使っていた。
八幡国民学校の校舎の中心に奉安殿があり、天皇の写真と教育勅語を安置してあり、式典の時、講堂へそれを白い手袋をはいて箱に入れて持ってきて、式の始めに「教育勅語」を読んだ。
バスケットは籠球、テニスは庭球と言っていた。
当時は、八幡国民学校には800人ぐらいいて、一学年は50人の3クラスづつぐらいで男女別クラスだった。義務教育は六年生までで教科書は有料であった。
信乗祖父は学徒動員でフイリッピンにいて終戦を知らずに敵と戦っていた。
幸代祖母は徳島で住んでいた家を焼かれ、井川町で疎開していた。
成人になるとタバコはすわなくてもタバコの配給があり、祖谷の山の人たちは配給により、お米を食べるようになった。

戦争はたくさんの人たちを犠牲にして、とてもむだな事だと思います。早く世界中が戦争のない平和な世界になってほしいと思います。そのために戦争を知らない僕たちもこの悲惨な戦争を二度と起こさないためにも、もっと戦争について勉強し、語り継いでいかなければいけないと思います。けっして戦争の事を忘れてはいけないと思います。今度は、たくさんの方が協力してくださり、資料を送ってくださって、とても感謝しています。


三年生男子 尊光寺にて