住職のぶらり旅             住職の寺報原稿から            

目次 
浄土真宗の旅
成道の地 ブダガヤ (インド)
大無量寿経の地  ラ―ジギル
阿弥陀経のふるさと・祇園精舎

七高僧のおはなし
七高僧第一 インド  龍樹菩薩  ナガ―ルジュナの古都は湖底に
七高僧第二 北インド 天親菩薩
七高僧第三 中国   曇鸞大師
  仙経を焼きすてて 浄土に入る
七高僧第四 中国   道綽禅師  浄土教の祖庭 玄中寺に詣でる
七高僧第五 中国   善導大師  香積寺に墓塔を詣でる
七高僧第六 日本   源信和尚  叡山横川に惠心僧都の墓をたずねて
              惠心院と往生要集
七高僧第七     法然上人源空 ご誕生旧跡 岡山県久米郡浄土院誕生寺                    知恵第一の法然 専修念仏を撰ぶ
           吉水草庵  親鸞聖人の入門
           承元の法難、鈴虫・松虫の事件
             御遺言 「一枚起請文」 ―御廟は知恩院の最高所に−                   まことの弟子 親鸞 念仏はわが身により添う如来さま 



  浄土真宗の旅


 成道の地 ブダガヤ (インド)
 

 今年は仏暦二五三三年(南方暦)南無阿弥陀仏のみ教えは、長い年月をかけて、インドからヒマラヤを越え、ゴビを渡り中国で花開き、わが国へ伝わった。教えを伝えた方々のご苦労ははかり知れない。

 インド北部ビハ―ル州、古いガヤの町の南、釈尊成道の地だからブッダ・ガヤという地名になった。古い石造大塔の背後の一本の菩提樹。この下に坐って悟られた。もちろん現在の樹は何代目かの孫だが、三十米を越す大樹。ピッパラというのが原名それが菩提(悟り)樹と呼ばれるようになった。

 正信偈(和訳)「教主世尊は阿弥陀仏の誓い説かんと生れたまう」お釈迦さまは、阿弥陀如来のこの世に現われた姿である。

 右、北側より拝する大塔、基壇は地面より三米も低い石畳を五体投地する巡礼もいる。

 左、石の柵で囲まれた菩提樹の根方に金剛法座(釈尊の坐所)と、仏足石がある。北側から見る。

 参考―大塔は大菩提会が管理。カメラは五ルピ―、スケッチはタダ。

 

  大無量寿経の地   ラ―ジギル
 

 南無阿弥陀仏のみ教え、浄土真宗の根本聖典、大無量寿経は、当時のインド最強のマガダ国首都ラ―ジギルを囲む連山の一つ、グリドゥラク―タで説かれた。漢訳の王舎城耆闍崛山である。

 この峰を訪れると、岩石がごろごろ頂上には鷲のかたちに似た巨岩、雨やどりの洞窟もあり潅木のとりまく怪異なところ、霊鷲山とも呼ぶ。頂上に釈尊のいました座、香室がある。

 ここにひざまずき合掌して西方を拝する。はるかに低山を越して、広大なインド大地が拡がる。

 参詣は夕方がいい。夕陽があたり一面黄金色に輝やかし、弥陀の浄土さながらになる。

 この経の末尾近く、阿弥陀さまは大光明を放ち、一切世界を金色に輝かし給うて出現された、と説く。

 

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 阿弥陀経のふるさと・祇園精舎

 

 わたしたちに一番したしいお経「佛説阿弥陀経」は、ここ祇園精舎で説かれた。佛のいます処だから精舎。舎衛国祇樹給孤独園という。北インド・コ―サラ国スラバスティ(舎衛国)ジェ―ダ太子の園―祇陀樹園を篤信の長者スダッタが黄金を敷きつめて購う話は有名だ。

 UP州バルランプ―ル西方二0キロ、サヘト・マヘト。王舎城(ラ―ジギル)北西四百キロ。 荒れ果てた舎衛城跡を出て、南接する園の北門から入ると、さわやかな朝の陽ざしの下、木立の影と緑の芝生の中に赤黒い煉瓦の遺跡が拡がっていた。すぐ右が「伝阿弥陀経説法講堂跡」その向うに「佛常住香堂跡」ほか

僧房、寺院、井戸などがある。

 壇に正座して阿弥陀経を誦する。その声が園内に流れるとすぐ釈尊直説のみ声となって身がひきしまりふるえを感じた。み佛はいまにいます。

 祇園精舎の盛衰はこの世の諸行無常を如実に示している。

 

 

   七高僧のおはなし
   
 インド 龍樹菩薩

         ナガ―ルジュナの古都は湖底に、

  南無阿弥陀仏のみ救いを伝えられた沢山の方々。その中から特に七人を択び、宗祖は七高僧と尊ばれた。その第一が龍樹菩薩である。
 和讃に「本師龍樹菩薩は、大乗無上の法をとき、歓喜地を證してぞ、ひとえに念仏すすめける。」
 龍樹は釈尊の楞伽(リョウガ)経予言のごとく、仏滅五百年南インドに生れ、アンドラ王の都で大乗仏教をひろめた。ナガ―ルジュナという町の名は龍樹という意味である。
 そして千八百年が経って古跡の町は巨大なダム(一九六九年完成)の底になった。遺跡はすべてインド考古局が裏山の山頂に移し復元、ナガ―ルジュナコンダ(龍樹の丘)湖はナガ―ルジュナサガ―ル(龍樹の海)と呼ぶ博物館も建っている。ダムの水は発電と潅漑、乾燥の大地に生きる人々に、龍樹菩薩の念じた阿弥陀仏の慈愛と。なって、限りない利益を与えているようだ。
 み仏に次ぐ位、菩薩と崇ばれ、宗祖聖人も本師と呼びかけられる龍樹大士。
 若者のときはなかなかのいたずら者であった。バラモンの秘法に長じて、身を隠す術に達していた。友達と三人で毎夜王宮の奥にしのんで官女にいたずらを繰り返した。ついに他の二人は見破られ斬られ、龍樹だけ奇策でからくも逃れ無常を悟り「邪婬の戒」を説く仏教に転じた。
 鉄塔中にこもり修行、奥義を案じていると竜王が竜宮に誘い大乗教典を与たえたという。アスダナの樹の下に生れ、竜王に養われたによって龍樹と呼ばれる。
 智度論他の著作多く特に十住毘婆娑論、十二礼により多く西方浄土への易行(念仏・信心)をすすめられた。
 和讃に「生死の苦海ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば 弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける」
 ナガ―ルジュナコンダ(龍樹の丘)には直径二十五米の大ス―トバ・仏殿・舎利塔の寺院など。数々の遺品は同所の博物館にある。古代ロ―マの金貨や金銀ルリの五重の器に秘められた舎利など。南インドの仏教隆盛がしのばれる。

                                      

   七高僧第二 北インド 天親菩薩  41号平成4年3月


 正信偈に「天親菩薩造論説 帰命無碍光如来」と念仏伝来の第二祖として天親菩薩をあげる。バスハンズが正式名だが、バスは世天という意味から、天親とも世親とも漢訳された。出身の北インドは現在のパキスタン・ペシャワ―ルと伝記にいう。ペシャワ―ルは今、アフガン反政府ゲリラの根拠地だ。古代からシルクロ―ドの東西・南北の交通の要地で、二千数百年前から文化の華が開いていた。豊かな大地の産物と信仰の地ガンダ―ラ地方である。
 数年前、日本でもガンダ―ラ美術展が開かれ石彫とも思えない重厚端正、深い信仰を秘めた多くの仏像。中でも心を打つ釈迦苦行像を記憶する方も多かろう。
 仏教は実にこの地で思想的大飛躍、大衆を教え救う大乗仏教として実を結んだ。
 天親・バスハンズ菩薩は兄無着と共に代表的な指導者であり、その論説(お経の解釈)はシルクロ―ドを通り中国で訳され、「浄土論」は〃一心帰命〃の信心を教える。
 交通の要衝は、外から攻撃もうけやすい。多くの民族が興亡をくり返し、現在この地には破壊された石造の大ス―トバ(塔)や寺院跡が到る処に見られるのみ。

 当寺本堂の南余間に、七高僧の絵像軸が 掲げられている。最上段の左側が天親菩薩―バスハンズ―千七百年の昔(日本はまだ弥生期)の方。
 その肖像は伝わるはずもないが、千部の論主と称される多くの論述は、漢訳され今も拝読している。自利利他の行を成就した大乗菩薩と崇められる。
 「世尊われ一心に盡十方無碍光如来(阿弥陀仏)に帰命し、安楽国に生ぜんと願い奉る。」とその願生偈の冒頭に述べている。南無阿弥陀仏と一心に念ぜられたのである。

 宗祖は和讃に

 「釈迦の教法おほけれど 天親菩薩はねんごろに

  煩悩成就のわれらには 弥陀の弘誓をすすめしむ」

と深く嘆ぜられ、七高僧第二と選ばれた。宗祖親鸞聖人の親は天親から頂かれたものと思われる。

 本堂で毎日拝する天親菩薩のお姿は、古いながら色彩もあざやかに、宝冠・天衣、胸や腕に装飾をつけ蓮台に趺坐され、両手は前で掌を上にして禅定の印を結ばれている。端正で若々しいお顔は、智慧円満の大乗菩薩の相である。

 ご出身と伝えるガンダ―ラ・プルンヤプラ、現パキスタン・ペシャワ―ルは、花の都と称されていた昔の面影は今はなく、挨と喧噪のイスラムの町。乾燥した半砂漠のアフガンゲリラの根拠地の町となっているので有名。

   

 七高僧第三 中国  曇鸞大師

    ―仙経を焼きすてて 浄土に入る―

 

 山西省北部の五台山に詣でる。麦の熟した暑い省都太原から北へ二百キロ、山中のポプラはまだ若芽であったここは中国きっての仏教の霊地、文殊菩薩の示現の地とされている。古来わが国の留学僧も多く入山した。現在も山中には六十の大寺がある。中国全土からの参詣で賑わい、五体投地の礼拝もしていた。

 浄土真宗七高僧第三、曇鸞大師はここで得度し仏門に入られた。石壁山玄中寺に住されるのは晩年のこと。

 唐高僧伝(道宣撰)の曇鸞伝は興味ある逸話を誌す。曇鸞は山西省雁門関に生れる。五台山の北、古い長城関門の村である。幼くして神童のほまれ高く、村人はこの子供に教えを乞いに来た。五台山に登り出家、生涯かて大集経を研究しようとした。ところが、途中で「気疾」という病気にかかり悩んだという。

 勉強しすぎの神経衰弱だったか。そこで何よりも健康と、インド・中国の医学を究め、当代第一の医僧となった。だが念願の仏教研究大成のためには時間がた

りぬ、長生の要を感じた。

 遠く南方、梁国の陶仙人に不老長生の教えを学びに行く、千五百年の昔だ、山西省(北魏)から江南、いまの南京付近まで。大変な旅のうえにスパイの疑いまでかけられた苦労の果に、仙経「抱撲子」十卷を得た。その帰途、洛陽永寧寺で教典翻訳していたガンダ―ラの僧菩提流支三蔵と会う。

 「仏教に、この仙経より勝れた不老長寿を説くお経がありますか。」流支三蔵はペッと唾を大地にはいて、

 「ばかばかしい。比べものになろうか、そんなものは長生の法ではない。たとい少々長生しても死は免れず、三悪道に堕ちて苦しむだけだ。仏教を学ぶものが

このお経を知らないとは‥‥。」

 観無量寿経一卷を曇鸞に授けた。

 宿縁が実った曇鸞はハッと悟り、ただちに仙経を焼きすてた、という。

 この事跡を宗祖は和讃に

「本師曇鸞和尚は 菩提流支のおしへにて

 仙経ながく焼きすてて 浄土にふかく帰せしめき」 。

     

       宗祖のお名の由来

 中国は魏の時代、日本はまだ有史以前の六世紀初頭。

 インド僧菩提流支から授けられた「佛説観無量壽経」と「天親菩薩作無量壽経願生偈」によって、曇鸞は、阿弥陀如来の、限りない「いのち」と「ひかり」の救いの手が、伸べられていることを知った。

 「無量壽経願生偈」は冒頭に天親菩薩自ら、一心に阿弥陀佛の安楽浄土に往生することを願い、その道を五念門(礼拝・讃歎・作願・観察・回向)で示す。「浄土論」とも呼ばれる。

 曇鸞はこの「浄土論」を更に深く究め、浄土三部経の要義をつくした論註を作った。

 「一心はすなはち他力の信なり‥‥」の曇鸞の訳註に宗祖聖人は「ことに一心の華文をひらく」と感嘆され本師と仰ぎ、三十四首にものぼる曇鸞和尚和讃中に

 「天親菩薩のみことをも 鸞師ときのべ給はずば 他力広大威徳の 心行いかでかさとらまし 」と。

 私どもの朝夕称える、「弥陀成佛のこのかたは‥‥」以下の浄土和讃(宗祖選述)も、曇鸞作の「讃阿弥陀佛偈」による。

 宗祖は天親・曇鸞両師のお名を頂き自ら「親鸞」と名乗られた。三十九才、雪の越後での赦免状に「愚禿親鸞」と自署されているのを初めとする。

 「鸞」は理想上の神鳥、鳳凰の属、神霊の精であるという。その姿や声は、威徳・瑞祥の象徴として、絵図にも描かれ、古来天子のしるしとされている。

 戦争末期「鸞」の通称名の精鋭、滑空歩兵第二連隊が比島クラ―ク航空基地で勇戦全滅したことも附記したい。

 

                                     

   七高僧第四 中国  道綽禅師     45号 平成5年7月

       浄土教の祖庭 玄中寺に詣でる

 

 中国山西省都太原市の南西六十キロ、文水の渓谷に入ると、緑の山ひだの上に白塔がまず見えだす。近づくにつれて、それは二層八角の煉瓦の塔になる。

 浄土教の祖庭とする石壁山玄中寺は、その三方を赤い絶壁の岩山に囲まれて、ひっそりと建っていた。

 曇鸞大師の創建とも伝えられるこの寺、千五百年の歴史の中で、盛衰も幾度か。

 山門の前に「玄中寺簡介」の案内板が立っている。沢山のお経の中から、阿弥陀如来の本願念仏の救いを撰んで、修行も持戒も縁遠い人々に、ナムアミダブツの称名念仏の道を教えられた曇鸞・道綽・善導の三大師の住まわれ、そして自らも念仏に専念された寺である。浄土門の源流・祖庭といわれるわけだ。

 特に道綽禅師(五六二〜六四五)は玄中寺に縁が深い。誕生はこの近く、住んだ歳月も一番長く、この寺で八十四才往生。道綽は先住墓所に詣でて、曇鸞の遺徳を刻った碑文を読んで悟り、浄土の教えを究めた。以来念仏の実践にはげまれた。

 木の実の数珠を作って、初めて礼拝念仏の道具としたこと。弟子たちに観無量寿経を講ずること二百回、文字の読めぬ農民たちには豆や麦米の収穫の時に、その粒粒を念仏と共に数えて、喜びと感謝の気持ちを知らしめたこと、など日常生活の中に念仏三味をひろめた。当時この州の七才以上の者はすべて念仏をとなえたと伝える。

 徳望は唐の王室にも達し、太宗皇帝がこの寺に道綽を訪ねたことが寺庭の碑に刻られていた。

 道綽著「安楽集」上下は彼の講述を弟子たちがまとめたものである。

 本堂(大雄宝殿、本尊阿弥陀如来立像)の後方に新しく三祖堂が建ち、曇鸞・道綽・善導の絵像が祀られていた。東・西本願寺・智恩院からの報恩のしるしだ。玄中寺のシンボルの白塔は宋代のもの。元代に禅院に改められ、永寧禅寺の額が山門にあった。

 案内して下さった老住持の左手は、いつも数珠を繰っていたのが印象深い。

 

 

                                    46号 平成5年12月

  七高僧第五 中国  善・導・大・師・ (1)

           ―香積寺に墓塔を詣でる―

 

 これまで、浄土真宗―南無阿弥陀佛―の源泉、インドブッタガヤの釈尊成道の地、浄土三部経を説かれたラ―ジギルや祇園精舎を拝し、龍樹大士、天親菩薩の跡を巡り、さらに中国へ。念仏を選ばれた、曇鸞・道綽の二大師の住せられた玄中寺に詣でてきた。

 宗祖聖人が崇ばれた伝灯七高僧の第五は善導大師(六一三〜六八一)である。善導は玄中寺で道綽から親しく講義をうけた方である。

 私共は朝夕拝誦する「正信偈」の中程でひと声高く「善導独明佛正意」と読む。善導さまはみ佛の本当のお心、私共の救われる道を明らかにして下さったと頂く。

 善導大師の墓所は、中国西安市南方二十キロの香積寺である。

 去る年六月初旬、さわやかに晴れた朝であった。西安では、まず善導大師のところにお詣りをと、壮大な城壁を抜けて、終南山の麓、神禾原の香積寺に向った。

 唐詩選の中に、有名な王維(七0一〜七六一)作「過香積寺」があるのは周知のこと。

「知らず香積寺 数里雲峰に入る 古木人径なし‥」と、王維は善導没後の五・六十年頃この寺に参詣している。 終南山の麓は道士・隠士の好んだ幽玄の地であり、詩文にもよく読まれる風雅の地でもあった。

 善導は長安(西安)で往生され、弟子たちによってこの地に葬られた。善導が初めて玄中寺より長安に念仏を説くために移り棲んだ所であったからである。

 葬地に十三層の大霊塔が建てられ、善導の徳をしたう人々により塔側に大伽藍が整い、香積寺となつた。

 城壁を出て数キロ、長安という古名の村を過ぎると深い渓谷をもつゆるやかな起伏の丘が拡がる。南山は霞の彼方に淡く、一面の茫々とした見渡す限りの麦秋の野だ。雲峰も古木も見ないままに、地平はるか黒い塔と低い民家の屋根がみえた。香積寺村という。

 王維の詩の風景はなかった。赤い煉瓦塀の寺は、村と小学校に接した静かな野中の寺であった。いつの時代にか、大塔の上三層は崩れ、いま十層がそびえている。大師往生から千三百余年。感胸に満つる思いであった。
 
 

  七高僧第五 中国  善・導・大・師・ (2)

 朝夕の正信偈のおつとめで、中ほど一段と聲を高めて「善導独明仏正意」と読む。「独」とはひとり、この唐代は仏教が花と咲き沢山の高僧が出たが、自力に迷う凡夫をあわれんで、釈尊の教えの本意を明らかにされたのは、善導ただひとりであった。

 浄土門にも流れは幾筋もある。その中ですべての人が救われる浄土の真宗は、曇鸞・道綽の二大師の教えをうけ継がれた善導大師の他力信心の称名念仏である。

 善導大師は厳しい精進の姿に徹せられる。「三十余年別の寝処なく、洗浴を除いて衣を脱がず、目をあげて女人を見ず。……布施をもって、阿弥陀経を写すこと十万余卷、浄土図を画くこと三百余り、道俗に極楽往生、称名念仏をすすめ自ら専修された。……」と。唐続高僧伝に記され、念仏する口から光明を放ち、光明寺和尚の名があった。

 永隆二年(681)三月十四日、自ら予言して長安実際寺で往生された。信者の中に極楽への導きを願って、樹上より捨身するものが続出したと伝へる。墓所の香積寺霊塔は十三層(現在十層が残る)。ほど近い興教寺にある有名な三蔵法師玄奘の霊塔が五層であるのに比べて、この時代善導大師の人気のほどがしのばれる。

 善導大師の著、観経疏・往生礼讃など五部九卷は。五百年を経て我国の法然上人に浄土宗を興させた。「浄土真宗の祖師」とわが宗祖もあがめられている。

 明治四十二年西本願寺大谷探検隊の橘瑞超らがトルファン高昌故跡で、善導の発願文を付した阿弥陀経や往生礼讃の断簡を発掘。善導十万余卷の写経の一である。

「大心海より化してこそ 善導和尚とおわしけれ 末代濁世のためにとて 十方諸仏に證をこぶ」 和讃

 

                                      48号 平成6年7月

   七高僧第六 日本  源・信・和・尚・ (1

     ―叡山横川に惠心僧都の墓をたずねて―

 

 宗祖は浄土真宗のながれ第六として、源信和尚(九四二〜一0一七)を撰ばれた。一切の名利をすてて、比叡山惠心院に棲んだ、世に惠心僧都といわれる。釈尊一代の経を究めて「往生要集」を著し、自ら念仏願生を専修し、人々にも教え勧められた。正信偈に「源信廣開一代経 偏歸安養勧一切」とある。

 「往生要集」は次号に紹介するが、比叡山の念仏の教えはこの惠心僧都の往生要集によって初めて系統立ったものとなる。法然も親鸞もこの山で南無阿弥陀佛の教えに接し、更に浄土真宗の絶対他力の救いに到られた。

 今春、念願の「往生要集」三卷約八万字の書写を終えた。惠心僧都の墓前に供えたいと思った。絵詞伝には「寛仁元年六月十日朝往生、阿弥陀ケ峰に葬す。」とあるが、果してこの師の墓は今いずこ。

 若葉の五月、京都本山本廟を拝した足で叡山に登る。思いがけず慈覚大師円仁の生誕千二百年法要で、根本中堂はテレビ撮影中。老僧に惠心僧都の墓への順路をたずねる。「楽に行けますよ。」との言葉、廻峰行のこの山

のこと「楽に」を言葉通り受取っていいものか。だが午後のこの時間もう横川の門は閉じていた。

 翌朝一番の路線バスで山上へ、すでに修学旅行や一般の参詣バスで大にぎわい、ここから西塔を経て横川への客は私だけ。

 比叡山延暦寺は三塔十六谷の広大な境内である。横川はその北の端、昔から秘境といわれる。

 横川駐車場は広いが人気はない。だらだらの降り道、谷間に横川中堂の朱色が鮮かだ。そこから上りの老杉の道、息切れするとき鐘楼に行きあたる。右に曲り南無阿弥陀佛の大きな石柱の前を過ぎ杉と桧の木立の間を深い渓谷に沿って右に曲りながら奥へ奥へ。不安になりかけたころ老杉の横に巾一米ほどの急な石段と「惠心僧都御墓」と刻入した小さい石柱を見る。石段は苔むし真直ぐ山へ五十五段。登り切った正面が御墓であった。

 一段高い石積みの上に玉垣に囲まれ、笠石をのせた背丈ほどの石柱が立つ。前に石刻の香爐・花立・燈篭が並ぶ。拝所の前に石の小鳥居が建っているのが珍しい。

 参詣の人があるらしく燃え残りのロ―ソクや線香がある。千年の歳月を経ても南無阿弥陀佛は一つである。墓前に踞いて書写本を供えた。身にしみ入るような静けさ、樹陰の微風は霊気を含んで横川はいまも秘境である。

 

  七高僧第六 日本  源・信・和・尚・ (2

           ―惠心院と往生要集―

 

 源信和尚は大和葛城郡当麻の人、幼名は千菊丸。天慶五年(九四二)生。父ト部正親の遺言により年九才で出家、比叡山良源僧正の門に入る。やがて門下三千人の筆頭として僧都に任ぜられたが、僅か一年で僧位を辞して横川惠心院に住み、専ら念仏と著述にはげんだ。

 訪れた惠心院は新築の宝形小堂であった。古書によると、「惠心院は首 厳院の南に在り、法興院入道九条兼家の創建(中略)しばしば火災に遭い長く荒廃」とある。

 参道左側に苔むした石柱が立つ。南無阿弥陀仏と大字。その下に二行、極重悪人無他方便、唯称弥陀得生極楽とやっと読める。源信和尚のお心そのままだ。広い境内は明るい、南隅に小庫裡。作務衣姿の中年尼僧がひっそりといられた。

 往生要集三卷は和尚の最も心血を注いだもの。釈尊一代のすべての経典、インド中国の諸師の論説をつぶさに究めて、その中からまず、地獄の様々のすさまじい様子とそれに墜ちる因を挙げ、次で餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の迷いの六道の因縁から述作される。全て十章、厭離穢土、欣求浄土、極楽証拠、念仏実践…最后に質疑問答の章まで、阿弥陀仏の極楽浄土に到る救いの途を経論の引文から懇切に示された。

 宗祖親鸞聖人が七高僧第六に源信を撰んだのは、第一に往生要集の大著。第二に大衆に称名念仏を教え自らそれに専修専念されたことによる。

 南の島の戦場からからくも生還して間もなくこの書に初めて接した。開卷冒頭に等活地獄の別処、屎尿の熱泥の中に浮き沈みして生きながらウジ虫に身を食われる「屎泥処」の相を読んで、暗然として書を閉じた記憶がある。数ケ月前までの私の戦場の実相だったからだ。

 

                                       平成7年3月
   七高僧第七 法・然・上・人・源・空・(1)

    ―ご誕生旧跡 岡山県久米郡浄土院誕生寺―

 

 宗祖親鸞聖人の師は法然上人である。ただの師ではない。浄土和讃の源空章に「善導・源信すすむとも本師源空ひろめずば 片州濁世のともがらは いかでか真宗さとらまし」法然上人がいられなければ浄土真宗もこの日本には伝えられなかった。これが七高僧の最後に源空を選ばれたわけである。

 京都東山の大伽藍知恩院は法然上人を開祖とする浄土宗の本山であり、そのご廟地であることは周知のこと。上人のご誕生の地はあまり知られていない。岡山市の北四十キロ津山の南二十キロ、国道の西側にある誕生寺がその故地。寺の縁起には「二流の白旗が邸内の椋の木に降った瑞兆に、人々はこれをあがめ父漆間(うるま)時国はそこに一宇を建立した」とも。

 法然上人源空の幼名は勢至丸。美作国久米の押領使漆間時国の子として、長生二年(一一三三)誕生。押領使とは兵を率いて国内の暴徒を鎮圧する役人。だから逆賊の狙う相手でもある。上人九才の春、館は凶徒源定明の夜襲をうけた。勢至丸も矢を放って戦い父を斬った賊の目玉を射ぬいた。父時国の傷は重く、敵討ちを誓う勢至丸に「復讐は更なる仇を生む。この乱世の人々を救うためにただ菩提の道を修すべし。仇討はならぬ。」と遺言して果たと。それ以来勢至丸は僧門の叔父について勉学、母に強くはげまされて比叡山に登った、十五才であった。

 スケッチの山門、ハテどこかで見たような…?

 当尊光寺の門とそっくり型の四脚門で幾分小さい。元祿初年の再建。風雪にたえた欅造り、組物の肘木出鼻はさすがに趣がある。門内左側に法然上人お手植という古銀杏が枝を伸ばしている。小山の樹林を背にした境内は広い。伝説の椋も賊が目を洗ったという片目川(片目の鮒が棲むとか)、勢至堂、祖霊廟など、山陰への旅の途次にご参詣されてよい位置である。

                                 (JR津山線 誕生寺駅)


   七高僧第七 法・然・上・人・源・空・(2

    ―知恵第一の法然 専修念仏を撰ぶ―

 

「父の仇討よりもすべての人々を救うよう立派な僧になっておくれ。」気丈な母に見送られ、勢至丸(法然上人の幼名)は比叡の山にのぼる。平安末期である。

 まず西塔源光の庵に入り、天台の学を東塔皇円阿闍梨に学ぶ。叡山は云わば国立大学、学生は多かったが勢至丸は成績抜群、智恵第一とはやされた。

 西塔黒谷の叡空から惠心僧都作の「往生要集」を授けられた。この書は(49号でふれた)「極楽往生は念仏を以て本とす」と示される。横川惠心流の念仏以本の流れは叡山で大きな動きとなっていた。教学も修行もなぜか心を満たさないところに得た「往生要集」の念仏。法然房源空の名はこれらの師に由来する。

 黒谷は文字の如く山深い比叡でも特に渓深く流れ清く、径は幽かに聖教は蔵に満ち‥という静寂の修行地である。(現在黒谷青竜寺がある)この地で法然房源空はひたすら惠心僧都のあとを学ぶと共に京洛南都の寺々学僧に教えこう。嵯峨清涼寺の天竺渡来の仏を拝し南都興福寺では法相宗を仁和寺慶雅からは華厳を学ぶと伝えられる。そして京都東山真葛が原の絶壁の下で休む。良い水が出た。人呼んで「良き水」―「吉水」という、その岩窟で一夜夢とも現とも覚えず、唐の高僧善導大師と逢った。称名念仏の教えの元祖の善導と法然の間には五百年の時間の経過があるが、その教えは脈々と生きていた。

 「一心専念弥陀名号行住坐臥‥念々不捨者是名正定業順彼仏願故」の文に気付かされる。善導の撰、観無量寿経義疏(浄土三部経の観経の頂き方)の一文。法然も黒谷の経蔵で何度か目を通したこの句が、真葛が原の夢とも現とも知らぬ善導大師との対面で心の中にしっかりと聞えた。阿弥陀様の願いに順う正しく定まった道と気付かされた。

 法然はすべてを捨て南無阿弥陀仏ひとすじの道に入る。承安五年(一一七四)春のことである。法然四十三才何のためらいももなく比叡山を降りて京都東山吉水に草庵を開くのである。

 この頃親鸞聖人はまだほんの幼児、洛南日野の里で生れて間もない。

 真葛が原は今の丸山公園一帯の古称。公園と知恩院の間を登りつめると、慈円山安養寺があり、吉水草庵跡という。その本堂横を下り渓をさかのぼると「法垂窟」がある。法然が善導大師と逢われた修行の窟という。

 窟の上に「法然上人真葛ケ原御対面図」のレリ―フがあった。

 

                                          52―7―11

   七高僧第七 法・然・上・人・源・空・(3)

    ―吉水草庵  親鸞聖人の入門―

 

 この時代、政治は大きいうねりで、平安の貴族の手から、武家政治へと流れはじめていた。栄華をきわめた平家はすでに西海に滅亡し代って源氏が幕府を鎌倉に開いた。依然として京都は政治文化の中心であったが、後白河法皇・後鳥羽上皇と院政が続き、不安物騒な世上で、誰もが諸行無常の哀歓を身に味わっていた。

 法然が専修念仏の教えを洛東吉水の草庵で説き且つ実践して、すでに二十年が経っていた。捕われ人平重衡への念仏十戒(寿永3)、洛北大原の勝林院での高僧たちを感銘させた「大原談義」(文治2)後白河法皇崩御に当っての浄土礼讃法要(建久2)など、法然の名は宮中・武人の間に聞えた。ただあるがままに南無阿弥陀仏を称えるだけで救われる。その簡明な弥陀の大慈大悲は、文字も知らぬ庶民の心にも深くしみ透った。

 吉水の門人の中には、関白九条兼実も源氏の武者熊谷直実もまた学徳の僧たちの名と共に、阿波介という大盗賊も遊女や白拍子もいた。

 念仏を称えるものはみな弥陀如来のお手の中にあると、上人は差別なく受け入れられたのである。ただご自身は自然にそなわった厳しい戒律の姿ではあったが、他に対しては、極めておほらかであった。

 そのころ宗祖親鸞聖人はまだ叡山にあり、常行三味など苦行の念仏に心をはげましていた。だがこれでよいのであろうか――の思いに悩む。京都の六角堂の本尊観世音の教えを頂こうと百日の参篭をした。その九十五日目法友の聖覚法印にゆくりなくも出あった。(聖覚は保元乱の大立者藤原信西の孫で唯心鈔の作者)誘われて法然の吉水の草庵を訪ねる。法然上人は円熟の六十九才親鸞は多感の二十九才、時は建仁元年辛酉(一二0一)

 同じ六字のみ名ながら、法然上人の念仏は安らかに甘く大慈大悲のみ仏の手に抱かれてきく思いであり、これまで修行した山での念仏は遠くから救いを求める絶叫であった。求めていた往生の道はすでにみ仏から頂いていると悟られた。

 「建仁辛酉の暦 雑行をすてて本願に帰す、慶ばしき哉、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。深く如来の矜哀を知りて、良に師教の恩厚を仰ぐ。‥」とそのよろこびを後年ご本典化身土卷末に記されている。

 

 六角堂は京都市中京区頂法寺の俗称。華道池の坊流の家元。西国三十三番第十八番。この時代聖徳太子建立、最古の寺と信じられていた。

 



  七高僧第七  法然上人源空(4)

      ―承元の法難、鈴虫・松虫の事件―

 

 吉水の法然上人門下には市中のあらゆる階層がいた。流動する時代のさまざまの思いが重なり合っていた。

 建永二(1206)十二月後鳥羽上皇は南紀熊野の参詣にでた。その留守中、法然門下の若さと美声で人気の住蓮房・安楽房らが、東山の麓鹿ヶ谷で別時念仏の法会を催した。別時念仏とは特に日時を定めての念仏会で、唐の善導大師作の往生礼讃をのびやかに曲唱する。鹿ケ谷は東山の大文字山西麓、談合谷と呼ばれている秘密めいた山峡の地だ。夜を徹しての念仏と六時礼讃文は参集の男女をしびれさせ法悦に陶酔させた。

 後鳥羽上皇の女官−鈴虫・松虫−たちが剃髪して尼になってしまった。帰洛して知った上皇は激怒した。上皇は浄土門の支持者のひとりだっただけに怒りも格別だ。

 (絵)法然院の山門、住蓮・安楽らが別時念仏を行った草庵 の跡に江戸初期知恩院万無が再興した。善気山法然院万無寺。 惠心僧都御作の阿弥陀如来像を本尊とする。

 南都・北嶺の諸寺からの告発もあり、年が明けた承元元年(1207)二月九日、安楽房・住蓮房ほか二名が死罪、六 条河原で衆人の合掌のなかで斬殺。師の法然上人は藤井元彦 という名で流罪(土佐)ほか弟子七人も流罪となる。宗祖親 鸞聖人もその一人で藤井善信の名で越後へ。阿波に配流にな った弟子もあった。(成覺房配所阿波国など 捨遺古徳伝)

 京は満開の桜、三月十九日花の下で師弟の涙の別れ。末は 倶会一処の極楽浄土での再会を約した。法然は七十五歳の高 齢、鳥羽南門を出て水路摂津経ケ島・播磨高砂・室津を経て、讃岐塩飽に上陸、小松荘生福寺に落ち着かれた。(翌年八月 勅免、摂津の勝尾寺まで帰られたが入洛は許されなかつた。)これを承元の法難という。

 後年親鸞は教行證文類の末尾に「臣下法に背き義に違し忿 を成し怨を結ぶ。罪科を考えず猥りに死罪に坐す。或は遠流 に処す。予はその一つ也。」と語調強く難ずる。しかし、「 大師源空もし流刑に処せられたまわずば我また配所におもむ かんや、もし我配所におもむかずんば、何によつてか辺僻の 群類を化せん。是なを師教の恩致なり。」とこの苦難も一つ の好機と喜ばれているのだ。

 この法難について別の視点がある。            後鳥羽上皇の宿願は、鎌倉幕府北条氏を討滅して政権奪回 することだ。法然門下には有名な熊谷直実ほかの関東武士、 土豪も多くこの住蓮安楽の事件を口実に、京都の庶民に拡が る幕府勢力の摘発一掃の動きであった。わずか十三年後承久 三年(1221)後鳥羽上皇は討幕の兵を起こすが幕府軍に 敗れて隠岐の島に流配される承久の乱が起る。



            七高僧第七  法然上人源空(5)

    御遺言 「一枚起請文」 ―御廟は知恩院の最高所に−

 

 京洛東山のふもと緑の樹間に知恩院は宏壮だ。そびえ立つ三門(正門)は木造世界一とか、高さ二十四米・横二十七米、畳二帖分という「華頂山」の扁額は小さい。つづく石段も並の歩幅では登り切れぬ段差だ。やさしいお念仏を教えられた上人のお寺のはずだが?。江戸時代初期将軍秀忠・家光によって、四万六千坪の境内諸堂が整備された幕府ご威光の寺と聞けば納得。法然上人像を祀る御影堂の横の石段を上がってゆくと左に「御廟」立札の門がある。正面は勢至堂(室町期旧本堂)。門内右手の石段をさらに上がると拝堂、奥が廟所である。慶長十八年建立の荘厳さ。市中はおろか境内諸堂もはるか下だ。              上人は静寂の最高の所から騒がしい下界境内を見守っていられる感じだ。ここの石段は歩きよい。

 承元の法難で配流され摂津の勝尾寺に留まっていた(前号)、源空が晴れて京都に帰ったのは三年後建暦元年初冬である。京

洛の道俗に喜び迎えられ、懐かしの吉水・大谷禅房に帰られた。

八十才になられている。京の冬は特に厳しい。永年の疲れか正月早々には臥床せられ、弟子たちと共に念仏を称えつつ正月二十五日往生された。建暦二年(1212)である。

 看病する弟子源智坊の請いによる遺文「一枚起請文」がのこされている。当代第一の智者と称賛されていた源空の最後のお教えはやさしいお言葉。

「念仏はむつかしい観念でも悟りでもない。南無阿弥陀佛だけが疑いなく極楽往生のみちと信じ、一文不知の愚者となりて称名念仏すべし、」と、大きく双手を押印されている。

 阿弥陀如来の、捨てたまわずとのお誓いを疑いなくいただく信の念仏である。これは御著「選択本願念仏集」の根本である。  弟子たちは師の遺骸を住房の東側に葬り、廟堂を建て(その地が現在の廟所位置か)文暦年代から大谷寺となった。だがこの地は徳川時代まで安穏ではなかった。叡山大衆の破却に遭い、弟子たちは西山に移し、栗生野(現光明寺)で荼毘 に付した。

 親鸞聖人は越後から関東へ移られ、この一枚起請文を見られてない。だがその和讃(高僧和讃源空章)に

「知恵光のちからより 本師源空あらはれて         浄土真宗ひらきつつ 選択本願のべたまふ 」と

 また正信偈に

「本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人 眞宗教証興片州     選択本願弘悪世」と

 浄土真宗は南無阿弥陀佛。本師法然上人源空は日本における浄土真宗の元祖であるとされる。

 


  七高僧第七  法然上人源空(6

   まことの弟子・親鸞゜念仏はわが身により添う如来さま。」

 

 人との出会いはまことに不思議。長いとて無縁もあれば一言で意気投合することもある。

 法然と親鸞、この師弟の場合はまさにこれだ。

 悩みの果てに六角堂の観世音にみちびかれ、吉水の法然上人の門を訪ねた親鸞は二十九才、建仁元年(1201)だった。当然のこと多くの門弟のなかの新参、序列は末輩。

 だが、親鸞にとって、師上人の一挙一動、一言半句みな今までさがし続けたみ佛と映じた。ひたむきな叡山二十年の修行がいま眼を開かせた。いや、前世からの深い縁がいま花と開いたというべきか。

 経文に「佛佛相念」とある。上人の慈眼はするどく弟子親鸞の心の中に輝く念仏の光を見抜かれていた。

 入門して僅か五年目初夏(元久二年)「選択本願念仏集上下」の書写を許し、親しく筆をとって、その内題の字と南無阿弥陀仏往生之業念仏為本と書き署名して与えられた。更に自らの画像までも模写を許す。「撰択集」は法然が心血を注いだ念仏の奥義書である。当時の関白藤原兼實公のもとめによって、釈尊一代の経、印・中・日三国伝来の祖師の論釈から、南無阿弥陀仏の如来回向のお救いの生起本末をつぶさに著されたもの。たやすく未熟の者に見せる本ではない。

 親鸞の感激、感謝は想像を絶する。後年ご本典「教行信證」

六巻を著された末尾に、ひときわ格調高くこの感激と光栄を特筆されている。同じ信心に恵まれたよろこびが、終生鮮やかにお心の中に輝いていたことがうかがえる。            

「正信偈」に、「本師源空明佛教 憐愍善悪凡夫人 真宗教證興片州 選択本願弘悪世」と述べる。浄土真宗は阿弥陀如来の本願であり「片州」この日本に法然上人が華と開かせたと教えられる。

 和讃にも「智恵光(弥陀如来)のちからより 本師源空あらはれて 浄土真宗ひらきつつ 選択本願のべたまふ」と、法然上人は宗祖親鸞聖人にとって、阿弥陀如来のご化身であった。

 今日、法然上人の名跡を継ぐ宗門を「浄土宗」と名づけ、親鸞聖人の流れを「浄土真宗」とするが、親鸞は法然上人こそわが国の南無阿弥陀仏の浄土真宗の祖であると断ぜられている。

 法然と親鸞、その年齢差は四十年、親子以上のへだたりがある。南都北嶺からの念仏への圧迫もせまり、危機を予感した法然は将来を託す若い門弟に、自らの著を書写せしめみ教えの広く長く伝わることを念願されたにちがいない。

 法然と親鸞、親しく接したのは僅か六年間。承元元年(1207)春三月には、共に冤罪を被って南北に別れ、再びこの世で会うことはなかった。だがお二人ともに念仏のなかに生きて、私どもといつも一緒にいられる。

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 長い長いおはなしでした。

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