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新聞に僧侶募集という記事を前に見た事があるのですが お寺のご住職というのは世襲ではないのですか?
     昔お寺に嫁に行きたかった女より


今はほとのどの寺院が世襲になってますが、本山のある寺の住職は、世襲でも本山からの任命という形をとります。、

明治までは浄土真宗の寺院以外は世襲ではありません。

明治までの浄土真宗以外の寺では、本山がある寺は本山から任命れた住職が赴任します。寺には格式があり僧侶の地位が上がるにつれ、より格式の高い寺へと、自らの修行と格を上げることにより転任していきます。ですから出家(家族を持たない、世間事に関わらない生活)をし、寺は修行の場であり、教え第一だったのです。
昔の言葉に「唐傘一本」という言葉があります。これは僧侶が次の寺へ赴任するとき今いる寺から持ち出せるのは唐傘一本しか無いと云うことですが?。
また 本山を持たない在郷の寺(庵)などは、旅の僧侶などが居着き 庵住となることもあります。昔話によく出てきます。
浄土真宗の寺院は宗祖親鸞聖人が妻帯していた事から、昔から世襲で寺を守っていきます。
明治までは浄土真宗以外では公には僧侶の妻帯は認められませんでした。
明治になってすべての僧侶に対しての妻帯を認めるという事になり、浄土真宗以外の僧侶も妻帯し家庭を持つことになり、僧侶の移動が次第に無くなり今に至ってます。
仏教は教えが一番大事ですから、世襲であれその教えを守れない僧侶は寺から出なければなりません。又寺の後を継ぐことをいやがる子弟も増えています。
そこで、一般から仏教に興味のある人を募集し本山で修行させ、住職のいなくなった寺へ派遣しようと考えている本山もあるようです。また都会で多忙な寺院などは手伝いをしてもらえる僧侶を捜している寺もあります。

新聞広告の真意はわかりませんが、寺の住職は世襲であって世襲では無いのです。何もせず継げるものではなく、いろいろな条件を満たすことにより継ぐ事が出来ます。





2002/9/16

真に不躾ではありますが、
兼ねがね疑問に想っていることをお尋ね致します。
盆になると先祖霊を迎え、また送ると云われています。
そうなると霊はお墓やお仏壇、お位牌、
はたまたあの世とやらを行ったり来たり、
何かと急がしそうで落ち着きません。
霊は平生にはどこに居られるのでしょうか?

 
お答えになるかどうかわかりませんが、
私なりいただき方をお話しします。
 
真宗(お念仏)のお教えでは、「南無阿弥陀仏」の名号には
阿弥陀様が私を必ず浄土へ救い、御仏とすると言う願いと力があります。
ですから 南無阿弥陀仏を唱える人は必ず仏になることができます。
仏様の居場所は、位牌でも墓でも仏壇でもありません、西方極楽浄土(阿弥陀仏の作られた仏の国)です。
仏になると、御浄土で阿弥陀様と同じ願いと力を頂くことができます。そのためには色々ありますが、
ただ仏様になると時間と空間を超越しますから、そのための時間は関係なくなります。
ですから 浄土真宗では往生即成仏(この世での生涯が終われば すぐに仏となれる)と頂きます。
そして、仏としての仕事と力が生まれます。それは私たちを救うと云う仕事ですが、具体的には護り・導き・教えです。そのための力は自在力といい、いつでもどこへでも、どんなものにでも姿を宿せると云うことです。同時多発も可能だと云うことです。私の隣にいつも居られるということになります。仏様は大変忙しいのです。でも人間ではありませんので、それが喜びであり、苦しいことではありません、行なのです。
でも普段の私たちには、仏様を観じることはなかなかできません、ですから仏壇の位牌や・墓と云う身近にご先祖を通して観じ、仏壇やお寺の姿が御浄土の姿として頂きます。「南無阿弥陀仏」の名号が仏様なのです。
このように頂くと、仏様を送ったり迎えたり、人の都合で動かれるものではありません。私たちを真実へと導かれるのです。
他の教えでは、死後なかなか仏となれず、そのための時間と修行が大変で、その間この世に残るものが手助けをしなければならないと教えますので、後の者は大変です。失敗すると仏にはなれないと考えます。
一般的に霊と考えるものも、お念仏のお教えからは全く違ったものになります。また、御仏に護られておりますから、わけのわからないものに、おびえたり、おそれたり、嫌ったりする事が無くなります。
それがお念仏の力です。