住職のつぶやき      住職の寺報原稿から

目次
「千鳥ヶ渕墓苑」ご存じ? 釜墓地の悲しき無言の帰還兵 H16 3
戦争と平和  十二月八日の想い 
無佛の地 湾岸戦争の地獄を悲しむ                H3年3月 寺報38
大噴火   比 ピナツボ山  その追想と警告
門徒とは親鸞聖人の弟子 直弟 二十四輩―阿北二十四輩誌と土成赤田山二十四輩―
金輪山 石垣物語      ―参詣人と老院とのはなし―       H4年7月 寺報42
五十回忌、惨めな敗戦の時代を想起せよ ―いのちは羽根よりも軽かった― H5年3月 寺報44
近づく「お盆」意義と教え ―踊りだけでは地獄ゆき―        H5年7月  寺報45
師走雑感      因果はめぐる小車の…             H5年12 寺報46
大震災は教える。  砂上の楼閣に安住はない            H7年3月  寺報50
外道の「妖怪」   その化学兵器で何を狙う           H7年7月  寺報51
ネズミ年のねがいは 鼠賊退散・退散・退散・退散         H8年3月
「脳死」      死ぬことまで法律で決められたか。      H9年7



  桜の名所     (戦没無名戦士の墓所)
  
「千鳥ヶ渕墓苑」ご存じ?   H16 3

 春、花便りが来る。花といえば、桜、とされるのはそう古い昔からではない。古くは梅が花の代表だ。早春に清潔な香りと色を放つ。花びらは散っても花は残って実を結ぶ。人も「花も実も」あって尊敬される。
 若者たちを「花と散れ」と命じ、果ては「草むすかばね……かえり見はせず」と何百万の兵が南や北に放置された。「千鳥ヶ渕墓苑」は、重い腰を押されて政府が建てた「草むす屍」の納骨所だ。
 皇居の北側、靖国神社脇の田安門から内堀にそって南に歩く、堀は広く深い緑の静閑な地が千鳥ヶ淵。小さな六角堂が建っている。戦友や遺族の努力でやっと収集受領の約三十五万体が納まる(平成十五年)という。
 まだ南北辺地に放置のままの、草むす屍は百万体以上とか。今年もささやかな集骨受領の政府派遣団が来ると、比島在住のK氏からEメールが届いた。
 住職も南の戦場の収骨追悼に何度か加わり、政府による墓苑納骨式にも参列した。平素は参詣自由、数珠を掌に好きなだけ落ち着いて念仏できるところだ。
 千鳥ヶ淵は桜の名所としても有名だ。本願寺は毎年秋彼岸、九月十八日に千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要を盛大に御門主の導師で執行している。有縁の方々のご参詣を希っている。
 九州佐世保市に釜墓地(カマボチ)がある。
 一七四病院(捕虜病院)に勤めた軍医から、戦後三十年も経て知らされた。
 ルソン島の戦後、生き延びた将兵はマニラ南方五十キロ、カンルーパンの収容所に集められた。傷・病・飢えの草むす屍の一歩前の姿であった。やっとの思いでこの地に着いて、すぐ息を引き取った者も多かった。広いサトウキビ畑に白い墓標が並び、連日その数を増したのを無感動でテントから眺めていた遠い記憶。
 昭和二十四年一月輸送船「ぼこた丸」がこのカンルーパン収容所の埋葬遺体を送還して佐世保に着いた。その数四、八二二体、それぞれローマ字氏名と整理番号が付いていた。市街より十キロ南西、大村湾に面したひっそりとした釜海岸に揚陸された。夢にみていた祖国に無言の帰還、冬の雨は冷たかった。
 まだ米軍の占領軍政下、飢えと混乱のさなかでは政府も知って知らぬ顔。名前の調査もされることなく放置もされ、土地の有志が連日、一ヶ月かかって焼骨した。それは二十平方米高さ一米にもなり、四囲をコンクリート壁で囲んだ。その上に小さな墓石を建て、釜墓地とよんだ。
 のちに千鳥ヶ淵墓苑に移されたというが、残った遺骨塚と墓石は今もこの地にある。この釜墓地に過年やっと参詣して積年の想いを果たした。





     戦争と平和  十二月八日の想い

 

 二千五百年の昔、十二月八日、曉の明星の輝きを見て釈迦は衆生を救う法を悟って仏陀・如来となられた。み教は求法の人々の汗と涙で中国・日本に伝わり。お念仏の華を開かれいまも私共を教えられている。
 五十年前のこの早曉、ハワイ真珠湾に奇襲攻撃をかけ、破滅の戦争に入る。実際にはその十年前、昭和六年九月十八日、満州で始まった戦火は中国に広がり泥沼化していた。十五年戦争である。そして無条件降伏の終局。三百万の人を死なせ国土は瓦礫となった。寺の過去帳にも二百三十余人の法名が記されている。戦場となった東南アジアだけでも二千万人以上の犠牲があったという。
 戦争は何を生み出したか、戦いの愚かさを体得させ反省させたはずである。そして今、平和と繁栄がようやく訪れてきている。今を生きる私たちは何千万何百万人の人々を踏みつけて立ているわけでふる。
 のどもと過ぎれば何とやら悲惨な体験をした人々は減り、人々の反省も薄れつつあるのではないか。「悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり」聖人の正像末和讃のお言葉が心に響く。 「念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心」(歎異抄)

 

 

無佛の地

  湾岸戦争の地獄を悲しむ   寺報38 平成三年3月

 

 戦跡に佇むといつも空しさ悲しさとがこみあげてくる。文明を誇る人々がなぜこの戦争の愚をくり返すのか。

 昨年八月、イラクが富める隣国クエ―トを奇襲占領した湾岸戦争は、多国籍軍の武力によるクエ―ト解放で一応終結。瓦礫の山、燃える油井群、民衆の苦難が残った。
 それにしても、平和的解決を標榜しつつの交渉がなんと理解できない奇怪さであったことか。国連錦のみ旗のアメリカ・イギリスの単刀直入さ。聖戦と強弁し最後まで利にねばるサダム・イラクの強欲商人型、しょせん時限がちがった対立の感であった。
 乾燥した不毛の砂漠アラブの世界は、緑したたる温潤の地に住むわれわれには想像外であり無縁でありすぎた。
 「月の砂漠」の童謡は広く愛唱されている。可憐な王子・王女がラクダに乗って、おぼろ月夜の砂漠を越えて旅をする。鞍には金や銀のカメ‥‥。この夢のようなロマンと平和が私たちの理解根底にある。現実は「王子と姫が二人でとぼとぼと旅をしたら、たちまちベトウィン・アラブたちに略奪される。おぼろ月など猛烈な砂嵐のあとぐらいだ。‥」という。アラビアンナイト「千一夜物語」に眩しいバグダットの都の美女も財宝も、“アリババと四十人盗賊”殺人と略奪の集積だ。
 酷薄な自然に生きるものには苛酷な社会規範も必要。「コ―ランか貢納か剣か」このスロ―ガンで知られるイスラム教は砂漠の掟。国家民衆の法律となり生活規準となる。略奪も破壊も殺戮さえもときに正義となった。
 インド大菩提樹下の佛陀のみ教えは、大陸の内部に広がり、各地に殺すな盗むな嘘つくな‥‥五戒を基とする平和で豊かな国々や都市が栄えていた。イスラムの徒が、手にコ―ランと剣をもって侵略し、略奪・破壊・殺戮をくりひろげた。インド・パキスタン・中国北西‥‥佛跡を巡って、こうして破壊されお顔をえぐられた佛像や美しい佛塔の残骸を到る処無数に拝して涙した。
 湾岸戦争は終っても、業火は焔々と天をおほい、太陽もかくしつづけまさに地獄である。み佛はこれら五逆謗法の末裔にも一切衆生と悲しまれ、恵みと救いの手を伸べようとされているにちがいない。無佛の地・無縁の人々と捨てられることはない。この地の人々に平和に生きる佛教徒の温い手をさしのばし、そのぬくもりと親しみを通わすべきである。

 

 

  大噴火  比 ピナツボ山  その追想と警告

 

 雲仙普賢岳の噴火のニュ―スが連日詳報され、現地被災の方々への想いに心が痛む。この山は二百年も休止していたが恐るべき力を持っていた。溶岩は岩魂となり高温ガスと共に突然山麓を襲った。火砕流という言葉は耳新しい。
 雲仙にかくれがちだか、フィリピン・ルソン島のピナツボ山も六百十年目に火を噴いた。今世紀最大規模の大爆発、雲仙の千倍とも万倍ともいわれる。噴煙は三万米の成層圏上に達し、六月十二・十四・十五日と連続大爆発。折からの台風の豪雨と重なり被害を大きくした。東二十キロの極東最大の米空軍クラ―ク基地を破壊、南西四十キロのスビック米海軍基地もマヒ、南百キロのマニラ国際空港を一週間も閉鎖させた。周辺地域の惨害は想像に余る。
 このピナツボ山(一七四五米)周辺は四十七年前、私(住職)の戦場であった。ピナツボ山は、クラ―ク基地の北と西を擁する山波の要である。
 翼を失って山に退いたのが、昭和二十年一月初旬。山々は意外に険しく、絶壁の谷に阻まれ進入は困難を極めた。草原は随所に深い侵食亀裂をかくし、溶岩と火山灰土の堆積にコゴンという萱草と潅木が根をからませた堅くてもろい裸山であった。水は当然のように乏しかった。
  戦争は砲爆撃だけではない。弾薬以上に水や食糧の大切さを九ケ月間身をもって味わった。
 この地域の戦没者四万人。遺骨の収集と慰霊が許されたのは、ベトナム戦争が終った昭和四十八年十一月。生還者(千二百人)の一人としてこの古戦場を訪れた。谷はいよいよ広く深く荒々しく削られ、私たちをかくした草原は砂礫と枯れ木立の石原になっていた。 だが、この山が夢にも思わぬ大爆発。山頂はふっ飛び、周辺数十キロを焼け石で深く埋め荒涼とした砂漠にしたという。未収骨の戦没者の骨も山の土深く埋もり、火山灰と同じ色をいつまでも保つだろう。この山に生きていた裸の小黒人ネグリ―トたちはどうしているだろうか。私たちの植えた追悼記念の果樹群も焼け埋れたか。
 諸行無常、大地も山も形あるものはつねに移り変りゆく。この仏教の基本思想はわかりきっているつもりでも、その事実に直面すると驚きふためく。ましてやそれが地獄からの音ずれに似た火山の噴出ならなほ更だ。
 阿波のこの地は火山も地震も津波も地滑りもないと、安心している。だが地図を展げると、日本を南北に分断する中央構造線の直上にある。吉野川をはさんで南と北の地質のちがいは、土の色、岩石の色を見ただけで明白である。この意味するものは何か。案外地獄は私たちの足元にもひそんでいると思わねばなるまい。

 

 

 

 門徒とは親鸞聖人の弟子  寺報41 平成四年3月

 

 直弟 二十四輩   ―阿北二十四輩誌と土成赤田山二十四輩―

 

 小春日和の午後、赤田山の「二十四輩さん」を詣でた。祖母やお同行につれられて、弁当持ちで来た六十年も昔の楽しい思い出がよみがえる。
 小高い尾根道に沿って西向きに一列の舟型石碑が並ぶ。「見眞大師二十四輩御旧跡」と刻った八十センチほどの石柱、それから二メ―トルほどの間をおいて、「第一番下総国 報恩寺」「第二番 下野国 専修寺」‥‥‥と二十四の寺名石が続いている。
 石は五十センチ足らずだが、中心には同じ姿の阿弥陀さまが、暖かい日ざしの中でやわらかくうかび上がっていた。そのお姿といい、踏まれる二重蓮台の型といい、手彫りの心がこもっている。刻字は風雨にさらされ薄くその一つ一つの施主名は、成当・柿原・秋月・浦ノ池など村名のほか多くは読みずらく判読も出来ない。
 最近この二十四輩さんの話をあまり聞かないが。道沿いの雑草はきれいに刈り取られ、供物や賽銭まであがっていたのは嬉しくさすがだと思った。
 見眞大師とは宗祖親鸞聖人の謚号、二十四輩とは宗祖の御直弟子、門侶交名帳に名を連らねた二十四名のことである。
 浄土真宗のみ教へをいただく私どもは「門徒」即ち聖人のみ弟子である。二十四輩はいわば私どもの大先輩に当る。筆頭の性信房の寺は下総報恩寺であり、二番の眞仏房の寺が下野専修寺‥‥という次第である。いずれも関東とその周辺で私どもの阿波からは遼遠の地であった。
  宗祖のご足跡をしたう旅は昔は至難のことである。今でも容易ではない。
 この赤田の二十四輩さんはご本跡寺の名を刻して建て、すでに百年以上は経ていると思われる。これとは別に阿北の地方には、この関東の本跡寺になぞらへて、当寺から東へ鳴門にかけて「阿北二十四輩」の寺々への順路があり、四季折々に近隣が誘い合せ寺々を巡り聞法する風があったが、いつしか薄らぎ木印だけが残っている。昨秋、古い記録に残る寺々のご協力で「阿北二十四輩」なる小冊子を出版、その発刊の辞を赤田山ミニ二十四輩を想いつつ書かせてもらった。春の桜の下、先人のご遺徳をしのび念仏とともにご参詣ください。

 

                   

  金輪山 石垣物語     寺報42 平成四年7月

       ―参詣人と老院とのはなし―

 

 若葉が香る、午後、二十四拝さんのお詣りが見えた。

「院主さん、お久しぶり。二十四拝さんの判お願い‥。」
「ようこそ、まあご本堂へ…。」
「門のところ、練塀が崩れましたんか…。」
「いや全部やりかえと決って、崩したんや。」
「高く長い石垣練塀、そりや大変。西の方の石垣はやっときれいに組めた、けどスロ―でんな…。」
「藤吉郎のスノマタ一夜城みたいには行かん。そら、ここは金輪山いう寺じゃ、しっかりした高い石垣は当りまえ、けど一遍で出来たんではない。」
「そうそう、字を刻った石がありましたな。」
「百年以上もたつと、字も薄れる。一番古いのは石段のところ、イチバ芳助母などの字が見える。 次は石垣の中、明治十九年・世話人十人の名がある。続いて明治二十五年築之と七十七人もの名、その西側、つぎ足し積みがあった。大正十二年三月…。」
「もうこんな手間のかかる仕事はする人がいない、はやりませんな。」
「いや、これがコンクリ壁になったら殺風景、金輪山が泣くわ。昔の人の苦労のあとを、そのまま伝える、これが大事じゃ。」
「ほな、そのまま放って置いたらええ。」
「石垣でも練塀でも齢をとる。諸行無常は人間だけでない。石垣も齢をとると傾き弱って病気になる。雨水も入るし、木の根もバイ菌みたいに入り込む。腹が裂けて崩れたこともある。台風や地震もこわい急病や。」
「なる程老衰か。積み直しの大手術をしたら、しゃっきりと昔通りに若返る。人間はそういかんけど…。」
「元来、金輪ちゅうのは大地の底の一番固いところ、その上に立つのが金輪山、つまり、その石の数ほどのご門徒の心ががっちりと寺を支えてきた、というしるし。だから昔の寄付者の名石も残さな…。」
「そうやな、改築したら名も消えた、では化けて出るかも…。」
「お浄土に行った人にはそんなミレンはない。ボツボツやっとるわい、と笑ってごらんになってる。」
「でもスロ―・スロ―は、皆さんも心配でしょう。」
「古い樹木も出来るだけ切らず、石の寿命のある限りの長持ちするようにと、工事はご門徒の方が入念にやって下さる。だが早い方が良いに決っとる。台風も来るし」
「お金もかかるでしょう。」
「あんたらも手伝ってくれる気になったんかい。うちの御本尊阿弥陀様はちゃんと心得て下さるけん、心配ない。早う本堂にお詣りに上りなはれ、ナマンダブ・ナマンダブ。」

 

                                    

五十回忌、惨めな敗戦の時代を想起せよ  寺報44 平成五年3月

           ―いのちは羽根よりも軽かった―

 大晦日の夜、本堂の「書出し」を新しく張替える。次の年に各回忌を迎える過去帳の人々と共に、元旦の修正会から聴聞し念仏できるように、長い巻紙に墨で書出す。新年にお詣りした方が「書出し」を一覧して、ご自家の法事を確認する方もいられる。
 張り終えて、例年になく外陣いっぱいになったのに気ずいた。五十回忌昭和十九年が極端に多い、前年秋には寺の釣鐘・仏具も応召、食べ物も乏しく暗い食卓にはなっていたが、まだ激戦は遥か遠くの感じだった。
 十九年は大平洋戦争が惨敗へ急傾斜した。1月のマ―シャル群島の玉砕に始まり、本土への大空襲、「一億火の玉」「一億玉砕」の掛声のもと、翌夏の原爆まで人々は業火のなかにわれを忘れた。この全貌を国民が知るのは戦後数年を経てからである。
 寺の過去帳には昭和十九年百九十三名の記載の内、戦死者七十五名(戦死者昭和十八年十四名・同二十年九十三名)十代から三十半ばまでの、一家の柱であり前途ある若者ばかりだ。
 過去帳の記入は非常に乱れている。遺骨・遺品はおろか、日時・場所・状況も定かではないまま数年も過ぎての戦没認定が多いからである。
 終戦ではない、無惨な敗戦だ。内外を問わず薬も食糧もなくほんのカスリ傷や病気で死に到り、野草を口にしながらの餓死も何十万とあったことを知ってほしい。何を想い何を願いどのくらい無念の思いであったか。
 幸にしてわが国は復興し現在の繁栄を得た。これは敗戦の屈辱をはねかえしての懸命の働きの結果である。だがこの再建に全力を尽した者はほとんど老い且つ死んだ。そしていま忘却の彼方におしやられている。
 東京の一羽の矢負いの野カモのいのちに、全国の新聞テレビが大さわぎする、地球の裏側の内戦や飢えの映像に心をいためる。わずか五十年前、自分たちの肉親が、これ以上に惨めに傷つき飢え死んでいったことを忘れてはなるまい。念仏の声を聞かないまま果てた魂魄は、いまだ人しれず密林や海底をさまよっているのではないか。
 忘れることは、未曾有の貴重な大教訓も失うことだ。忘れた頃にやって来るのは。災害だけに止らない。五十回忌は、敗戦とそのもたらした事実の反省から、次の時代をどう進むべきかを教えてくれるはずである。

 
        

 近づく「お盆」意義と教え   寺報45平成五年7月

      ―踊りだけでは地獄ゆき―

 「お盆には地獄の蓋があく」という。

 だが地獄は地の底、苦しみの果なく繰り返される獄。次の世界に生れるまで地獄に休暇はないし、蓋も開かない。
 お盆は正しくは盂蘭盆会(うらぼんえ)。この仏教行事が日本で行われるようになったのは、飛鳥時代、斎明天皇四年というから、すでに千三百五十年が経つ。
 仏弟子たるもの、せめてお盆の季節には、その意義と教えをふり返るべきである。
 盂蘭盆経によると、釈尊の大弟子の目蓮が神通力を得たので、いまは亡き父母を想い、その恩を報じようと天眼通でその姿を捜した。いい母だったからさぞや極楽にと思ったが見当らない。捜しあてた母は餓鬼の姿、飲食もかなわず骨皮になってなげいているではないか。驚きふためき、自分の力の限りを尽して、その境界から救い出そうと法力を試みたがどうにもならない。
 釈尊に涙ながら子細を告げて、救いを求めた。「お前の母ごは、自分の子供だけ可愛がり、他人の子には邪険であった。腹をすかしていても食べ物をわけてやらなかった。だから死して餓鬼道に落ちた。自業自得の姿である。一人の力では救い難い、徳を積んだ沢山の僧たちの力をからねばならぬ。そのために、雨期が明け、修行(安居)の終る次の満月の日(七月十五日)に衆僧を招いて百味飲食の供養し布施しなさい。」と教えた。
 目蓮は謹んで、釈尊の教えの通り供養布施すると、母は他の多くの餓鬼たちと共に救われて、仏界に入ることが出来た。人々は歓びの声をあげ、手が舞い足の踏むところを知らず踊り上ったと、経に説く。この説話が、盂蘭盆会―お盆のはじまりである。
 陰暦の七月十三日〜十五日を中心に祖霊、新仏、無縁仏に香華百味を供養する。庭に精霊棚を立てる、一切の精霊に供養する。
 盂蘭盆経の目蓮の母の姿は、すべての世の母親の姿であろう。餓鬼道におちるほどの苦を積み重ねて、わが子を愛し育てるのは今も昔も変らない。教育ママの姿がしのばれる。
 子供たちはこうした苦しみを親に与えて成長して来たことを、自らも覚らねばならぬことを教える。
 阿波踊りが陽暦八月に固定されたのはつい二十年ほど前のことか、煌々とした電燈が淡い自然の月光を圧倒し去って、騒音の観光商策が、しっとりとした宗教的情緒にとって変った。
 踊らな損々と阿呆踊りにまぎれ込んで、行きつく果が不毛の石山笹山、飲食もままならぬ餓鬼・地獄でないことを願いたい。
 私どもの救われるべき途を知り、救われた喜びの踊りこそ本来の盆踊りである。
 浄土真宗では盂蘭盆会を歓喜会という。地獄に落ちる心配の絶対ない南無阿弥陀仏の救いのうちにあることを思い、更に喜ぶのがお盆の法要とされている。
 
                  

 師走雑感            寺報46 平成五年12月

  因果はめぐる小車の…

 歳月は無常迅速、もう十二月、毎年のことだが報恩講の季節で寺は準備に追われる。
 思えば昭和十六年十二月八日早曉、母艦を飛び立った海軍機がハワイ真珠湾を奇襲、太平洋戦争の開幕。緒戦の勝利に酔った。いま真珠湾は観光名所。
 十二月八日は又「成道会」釈尊が二千五百年の昔、菩提樹の下で曉の鶏鳴を聴き明星の輝きを観て悟りを開かれた。釈迦如来のみ教え八万四千の法門はこの日から始まった。仏徒は肝に銘ずべき日であるのに忘れがち。
 私は昭和十八年のこの日、学徒出陣で海軍に入るべく寺の門を出た。まだ激戦の地は遥か遠かった。
 あれから五十年、人も世も代った。
 今年も秋彼岸前の九月十八日、東京千鳥ケ渕の国立戦没者墓苑で浄土真宗本願寺派の「全戦没者追悼法要」が行われた。
 千鳥ケ渕は宮城の堀にそった樹木の多い静かな所、先の戦争で命を失ったすべての人々の死を悼み、平和への思いを新にする無名戦士の墓である。私(住職)たちの戦場巡拝で収めた無名の遺骨もここに納め、その納骨式にも参列したことがある。
 今年の法要は参列者三千二百人の盛儀だった。門主は「全戦没者とは自国民、他国民の区別を越え、軍人軍属民間人のすべてを…」といわれ、「追悼は仏法にてらして、自他のいのちをかえりみることから始まる…」と述べられた。ありがたい言葉である。
 細川首相は「今次の戦争は侵略戦争だった。…」と事もなげに議会で云った。戦後育ちには責任ない、という雰囲気。かけがえのない人を喪った遺族や傷疾の人、国のためと信じて銃をとった人々には素直に受け入れ難い。侵略者の手先にされたか。その議論はいま起りつつある。
 戦争に到った理由はさまざまある。一億総懺悔の声もあがったがすぐに消えた。「戦争は一部の軍国主義者によって起され、国民は被害者である。」とする認識が定着したかのようだ。それで開戦の日の反省は殆どされたことなく。敗戦の八月十五日、原爆の無惨さ―これは当然だが―を声高に云う。その原因、開戦を糺そうとしないのは何故か。再論の要がある。

 双葉文庫に住職(赤松信乘)の著     五六0円

  「特攻基地の墓碑銘」赤松海軍予備学生日記

   東京新宿区東五軒町三―二八  株式会社双葉社

    (講談社刊の同書を改題し再版したものです。)

 
                 

 大震災は教える。     平成七年3月 寺報50

  砂上の楼閣に安住はない

 

 夢想もしない大惨事。あの日早暁の大揺れに驚いたが、まさかこれ程の災害になるとは思いもよらなかった。
 「阪神・淡路大震災」一月十七日午前五時四十六分は永く語り継ぎ、平和と繁栄になれて、いささか傲慢になっていた私たちへのいましめの地獄の業火としなければならない。人口密集の大都市直撃とはいえ、五千四百余の犠牲者、被災家屋十四万余とはいかにも多すぎて心が痛む。先進文化国家という名に恥ずかしい。
 震度を未曾有の「七」に格上げしても、ライフラインや安全太鼓判の高速道路・新幹線があの状況では、わが国のもろさがあばき出されたことに変りはない。
 御本山膝元のこの地区、本願寺の寺は多い。全壊四十四ケ寺、殆どの寺(二六七ケ寺)が被害。そのうけ方もさまざま。元総長豊原師の西福寺(西宮市)は壮大な本堂・会館は無事だったが、老朽の庫裡は全壊。老師と寺族が犠牲に。将棋の谷川王将の実家高松寺(須磨区)は半壊、同名の尊光寺(兵庫区)は不思議と被害なく、周辺住民の避難所として即救援活動に入った。モダン寺の神戸別院・教務所(中央区)は改築中だったが無事、本山の救援対策の活動拠点になった。すでに対策金庫設置など全寺院への協力活動・募金などの呼びかけ、当寺もその第一次分は送っている。息の長い協力と温かい同一念仏の激励が必要だ。
 国や県市は巨額の援助復興資金を示すが、個人やまして寺院には期待出来まい。私どもはただみ仏の南無阿弥陀仏に励まされ、人々と共にふんばり立ち上るばかりだ。
 震災のあと、いやという程地震のメカについて専門家学者の解説を拝聴した。さて自分がいま立っているこの地はどうなるやらさっぱり判らない。昔から地震の元凶は地下の大鯰。ぬるぬるのナマズがつかみ難いのと同じだ。鯰退治など考えず鯰さまと仲良くはなれないか。
 寺報三九号で、阿波のこの地は中央構造線上だ、地獄は私たちの足元にひそんでいるかも…と書いた。今更移住も出来ずせめて心構えを備えたいもの。これが「地獄は一定住み家ぞかし」の平生業成。  (二・一七)

 
                 

  外道の「妖怪」          平成七年7月 寺報51

      その化学兵器で何を狙う

 今年もすでに半ば、今一番忙しいのは警察の方だろう。日本の中をゆるがす大事件の続出だ。あろうことか国家治安の大元締の警察庁長官が出勤途上狙撃された。
 阪神大震災の被害と復旧も超々円高の経済危機も驚きがさめると納得して対処もできる。奇怪面妖なのは東京地下鉄の毒ガスサリン一斉攻撃に始まる数々のオウム関連事件である。警察もやっと全機能をあげて、ここ数年来の各地で起きた不可解な事件の多くはオウムの組織的犯行だったことを解明しはじめた。
 オウム真理教というもっともらしい名前は猛毒殺人ガスサリンと共に事件があって始めて知った。オウムが数々の強圧手段で東京都に宗教法人の認証をさせたのは、昭和天皇の崩御の年、それから僅か六年である。
 宗教をかくれみのに、各地に巨大な拠点を築き、毒ガス製造からソ連製大型ヘリ、自動小銃や各種麻薬を持ち、自衛隊員を信者兵士として動かしていたとは。これは宗教法人の姿ではない。危険極まりない武装私兵集団と云える。その衣の下のオウムの正体は、その狙う目標は何か、この背後に黒幕はいないか、徹底的解明がされなければならない。警察の責任は重く期待も大きい。
 オウムの組織が、幹部はそれぞれ各省庁大臣を呼称しその頂点に法皇庁をもつという。アニメ映画の暗黒帝国みたいと笑っていいか、逆に強い政治権力への願望志向の表現でないか。更に現実に所有する武器(猛毒サリンや各種麻薬)はすでに少量のテスト段階の松本や東京地下鉄で絶大な威力を実証している。武器を持てば使いたがるのは途上国の内乱でも知られるとうりだ。ハルマゲドンの予言は武力革命の実行宣言であり、彼らがオウム王国建設を夢みたとしても不思議でない、むしろ納得できるところだ。
 警鐘を打つべき新聞テレビは連日大きく報道はしても、興味本位の軽い調子。ナメているのか遠慮なのか、或いはシンパを思わせる小細工をした電波を流す局すらあったのは極めて遺憾である。     (六・二八)

 

 ネズミ年のねがいは          平成八年3月 

 鼠賊退散・退散・退散・退散 

 

  今年は丙子(ひのえね)、ネズミの年である。

  大昔の中国のムラ、大切な村の米倉に残っているのは空俵 ばかり。世間ていが悪いと旦那はムラの皆から米を出させて 倉に入れようと云う。皆は怒った、倉に巣食うネズミどもと倉番のネコを呼び出して大評定になった。
 「食べませんよ、ふやそうと俵を齧ったら床板がぬけて落ちてしまって。悪いのは抜けた床で‥‥。 」
 とずる顔のネズミはもとの穴へ。
 「寝込んでいたわけではない。注意して俵数はちゃんと数えて、たまたま調べたら中身が空でして‥‥。」
 と肥え太ったネコは真妙そうにする。
 責任のがれのなすり合い。煙でネズミをいぶり出そうにも倉が焼けては世間のつまはじきだと思案の旦那。
 ネズミもネコも旦那もぐるではないかと勘ぐりたくなって沸き立つムラの衆。

 中国古典に「鼠社につきて貴し」という。手のとどかぬ所に住みつくネズミは捕らえも出来ぬ福ネズミか。
 現代の住専処理問題さわぎそっくり。「欲ボケしすぎて皆様に申し訳ない。」という者がない。義務も責任も感じない恥知らずは人間ではない。大衆の怒りは至極当然。
 この騒ぎの合間に、さわやかな一陣の風が吹いた。ご存知、谷川浩司前王将の敗戦直後の声だ。

 「内容が悪すぎた。ファンの皆様にも、羽生名人にも申し訳なかった。」
 この素直に自らの責任を語るいさぎよさ、谷川さんは神戸の本願寺派高松寺の令息だ。子供の時から「お仏飯」で育ったからであろう。

  蓮如上人の法語(本願寺八代宗主 平成十年五百回忌)
 「わが心にまかせずして心を責めよ」
 「口と身のはたらきは似たもの、心根はなりがたきものなり、心の方を嗜み申すべきこと」

 


「脳死」                平成九年7月

  死ぬことまで法律で決められたか。

 今国会の閉会直前゛臓器移植法゛が駆け込み成立。
  七月公布、十月施行と決まった。

 ゛心臓が生きているのに死んだ人゛(万柳)
 ゛心臓と頭に分けて議論され゛  (万柳)

 こんな句が即日新聞に投じられた。移植に限りと厳重らしい条件付きながら、ともかく普通の者ではさっぱり確かめようのない゛脳死゛という死に様が法律で認められた。認められると独り歩きをはじめかねない危険なもの。人々の不信・不安と頭の上で決められた自嘲がこの句から聞こえてくる。
 まだ脈も確かで寝息も安らかなわが子が、見知らぬ白衣の人たちから「脳死です」と密室でブラウン管の青白い光で説明されて「ハイそうですか」と親は納得出来ようか。熱い血の流れる心臓を取り出す、ついでに腎臓も目玉もモッタイナイから....気絶しそう。
 昔から死は人生の終局、最も厳粛に自然のお迎えを待ったものだが、医学の発達は移植法を生み出し、その代わり人間はモノにされてしまった。助かりたい人や腕を試したい人は、早く誰でもいいから脳死にして生きのいいのを一つ‥‥と注文し始める時代になった。脳死判定は一種の免責殺人でないか。 臓器移植を反対するものではない。自らの身体を投じて他人を救うのは最高の布施行、菩薩行だ。法隆寺玉虫厨子に描かれている「投身餓虎」もそうだし、終戦直前の「特攻隊員」も崇高な利他心である。だが欲しい側から「人助け、利他行を」要求するのは下々の貪欲。受ける資格も与えられる資格もさらさらないのではないか。
 恐ろしいのは勝手に知らぬ間に「人助け」の美名で脳死にさせられそうなこと、本来志願の筈の特攻隊員が実際は指名強制になっていたのだ。死んだ者は語れない、あとになって美化されても無念は晴れない。
 恐らく近く臓器提供者募集のキャンペーンが大々的に始まるにちがいない。進んで手をあげるのはあなたですか。私は老人の持病もち、提供しても受け取ってくれそうにない。だから老人世帯が多くなった、寿命がのびて医療費がかさむなど、耳が痛い。

 ゛老人は死んでください国のため゛(万柳)   
 などのイヤ味もごもっともです。でも御迎えがくるまで、おまかせしまして、ナモアミダブツ。

 

 

最後まで読んでくれてありがとう。 

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