|
室町時代の山岳城「天霧城」
城下町としての多度津には二つの歴史がある。
一つは相模国鎌倉香川荘の出である香川氏が、戦国時代に本台居館を設けて多度津を城下町としたことと、江戸時代に丸亀京極藩の分藩が置かれたことである。
香川氏は約二百年間この地を城下としていたが、城郭として構築されたのが県下有数の山岳城として有名な天霧城である。
天霧城は、標高三六〇メートル、鳥坂峠を見下ろし、瀬戸内海を広く眺望できる戦略にも重要な場所であった。戦国時代に、西讃一円を領有したと伝えられ、山頂の本丸付近には空堀、井戸、石垣の一部が残り、重要な文化遺産として国の史跡に指定されている。秀吉の四国征伐とともに滅び、江戸期京極高通が丸亀から分封されるまで町は荒れ果てていた。
多度津藩「陣屋」
京極氏が入部するに及んで、町は再び城下としての息を吹き返した。多度津藩の創設は元禄七年(一六九四)京極高通は一万石の初代藩主となり、以後高慶・高文・高賢・高琢・高典と明治維新まで百七十六年間続き、多くの文化的遺産を多度津の町に残している。
多度津藩三代目までは丸亀城内居館で執政されていたが、四代目藩主京極高賢公の時に、文政九年家中屋敷(陣屋)の構築工事にかかり、居館(御殿・新御殿)・調練城・武具庫・鼓桜・藩校自明館・剣術道場・藩米倉庫・作業場などを完備し、外廊、外門三カ所を設け、同十年に完成した。
陣屋とは、城の築造を許されない大名の屋敷で、天守閣や大規模な櫓・堀・城壁をもたないものを呼んでいる。
多度津陣屋の敷地は、およそ六千六百坪で、御殿の正面には堀を渡って東側一帯に家中屋敷、中央の大手通りに面して武家屋敷を配している。
また、通称東御殿と呼ばれる建物は、家老の屋敷で昔の姿を残し、ここより御殿大手門に通じる四間半の大道路大手筋を中心に、一見行き詰まりを思わせる鉤の手・袋小路・見附など、武家屋敷独特の道路構成や白壁造り(漆喰塗り)の旧屋敷、なまこ塀・土塀などをめぐらせた威厳ある門構えは、多度津藩家中屋敷の面影をしのぶことができる。また、五代目藩主京極高琢公は、天保五年〜九年まで五年の歳月をついやし、多度津湛浦(築港)の大工事を実施し、瀬戸内海屈指の良港を築造し、今日の多度津港の基盤を築いた名君である。
|