陸
多度津発、讃岐の文明開化
四国の鉄道のルーツ 多度津。
それは、景山甚右衛門が上京して見た、
新橋〜横浜間の汽車の強烈な印象から
はじまる。
讃岐鉄道1号機関車
矢よりも速い汽車!
“女ボーイ”や食堂車も登場!

 蒸気船の普及により、海上は盛んになったが、陸上での整備はまだ十分に行われていなかった。阪神をはじめ、中・四国各地から船に乗って上陸した人々は、金毘羅参詣をして、航海の安全を祈ると共に、観光や遊山を楽しむのが普通であった。
 多度津・丸亀は金毘羅参詣の玄関港でありながら琴平への往復は金毘羅街道を歩くか、人力車を利用するほかなかったのである。
 回船問屋大隅屋五代目の景山甚右衛門が上京して見た新橋〜横浜間を走る汽車をヒントに、金毘羅参詣客の輸送に着眼し、鉄道の開業を計画し、明治二十二年(一八八九)多度津を起点として、丸亀・琴平に至る讃岐鉄道株式会社を設立したのである。
 この鉄道は、伊予鉄道株式会社より七か月程おくれたが、四国の鉄道網は讃岐鉄道が根幹となって拡張されたもので、現在の「JR四国」のルーツとなっている。
 そして、当時の人々の間では 矢よりも速い と驚かせた画期的な出来事でもあった。明治三十年には宇多津・坂出・鴨川・国分・端岡・鬼無・高松の七駅が設置されたが、三十五年には美人の給仕「女ボーイ」を乗せた食堂車もデビューし話題を呼んだ。当時多度津〜琴平間の上等(席)運賃は二十四銭、下等で八銭であった。
 また志賀直哉は、名作「暗夜行路」の一節に「停車場の待合室にはストーブに火がよく燃えていた。其処に20分程待つと、普通より少し小さい汽車が着いた。彼はそれに乗って金刀比羅へ向かった」と多度津駅をこう描いている。
 明治三十七年、山陽鉄道との連絡運輸が始まり合併され、明治三十九年、鉄道国有法によって国有に移管されていった。多度津は海上交通に加え、陸上交通においても、四国の鉄道発祥の地として、文明開化の旗手として歴史の一頁を飾っている。


「文明のあかり」電気事業

 香川県で最初に電気事業に着眼したのは、旧藩主松平家の援助を受けて、明治二十六年(一八九五)高松電灯株式会社を設立したが、西讃においても、丸亀・多度津・善通寺・琴平の讃岐鉄道沿線を対象に明治三十三年社名を讃岐電気株式会社として発足し、次々に点灯を開始していったが、石炭に値上がり、増大する需要を賄うために、新たに電源を火力から水力に切り替え、同四十三年(一九一〇)社名を四国水力電気株式会社に改め、県下各変電所を結ぶ送電線を建設した。
 これによって電灯ばかりでなく、工場などの電力需要にも供給できるようになってきた。以来、昭和十七年電気統制令で四国配電となり、同二十六年電力再編成では四国電力多度津支店として、香川県下電力事業の拠点となった。



明治30年丸亀〜高松間の開業に登場した列車ボーイ
讃岐鉄道時代のキップ、当時は琴平行きが上り、多度津行きは下りだった
現在のJR多度津駅前