S先生の思い出
大学の講師から、私たちの病院の外科医長として、S先生が赴任して来られたのは、桜の花が満開の頃だった。
私たち外科のスタッフは、とてもしあわせだった。
優れた技術の手術を直接教わることができた。
学会発表も、論文書きも先生の助言でどんどん進んだ。
たいていの医師には、何らかのくせがあるものだ。
たとえば、手術はうまいが、論文はにがてだとか、技術は優秀だが、患者さんに冷たい、とか。
しかし、先生は知識、手術技術、患者さんへのやさしさ、そのどれをとってもすばらしい先生だった。
そんな完璧な先生にもたった一つだけ、弱点があった。
それは、以前に腎臓を悪くされたことがあることだった。
S先生の毎日はハードそのものだった。
朝早くから、病室を見て回り、患者さんにやさしく話しかける。
午前中の外来は、大勢の患者さんで、終わるのが、午後の手術に間に合いかねるような毎日だった。
昼食をそこそこに手術、そして夜はカンファレンスや研究会。
まわりの人たちは先生の体を心配して、もう少し、休息を取られるようにお勧めしたが、先生は相変わらず、ハードな毎日を続けられた。
そして、わたしたちの心配がとうとう現実になってしまった。
先生の腎臓病がふたたび悪化したのだ。
S先生の主治医をしていた内科医長のW先生が首を横に振った。
「もう限界ですね。透析をはじめなければ・・・」
血液生化学検査の結果は内科的治療の限界を超えていたのだ。
そんなに悪いのに先生は元気そうに振る舞っておられたのか・・・
私たち外科のスタッフはみんな驚いた。
そうと知っておれば、無理やりにでもお仕事を休んでいただいたのに。
私たちは、それができなかった自分たちを後悔した。
わたしたちの病院に透析装置がないので、先生は、H市民病院で透析を始められることになった。
透析は順調に進み、先生はふたたび元気になられた。
まわりの人たちは、内科医に転向を勧めた。
しかし、先生の外科へ復帰の決心は変わらなかった。
ある日、私たち外科のスタッフは病院長室を訪れた。
「院長、先生はこの病院で、外科医を続けたいといっておられます。」
「透析の施設がないのはどうするのかね。」
「一人用の透析装置をお願いできませんか。」
「そうすれば、術後の急性腎不全にも対処することが可能になります。」
「透析のスタッフはどうするのかね?」
「スタッフがいないのなら、私たち外科の医師でやります。」
「そうか、君たちがそこまでいうのなら、考えよう。」
ついに院長は一人用透析装置の導入を決心した。
「そのかわり、スタッフの増員はないのだから、外科のものみんなが協力して透析をやり給え。」
「はい、ありがとうございます。」
私に透析係が命じられた。
私はよろこんで引き受けた。
大好きな先生のためだから、何でもするつもりだった。
* * *
私は国立O病院で透析の訓練を受けることになった。
期間は二週間。
その間に透析装置の使い方から、消毒法、透析法を習わなければならない。
昭和・年・月・日、私はM空港を出発した。
宿舎は、公務員宿舎のあいているところを使わせてもらった。
国立O病院から歩いて5分くらいの所だった。
研修初日の朝、当然私が一番早いと思って病院に行ってみると、もう透析の先生がこられていた。
透析の準備はこんなに朝早いのかと驚いた。
「すみません、遅れて。ぼくが一番早いと思ってきたのですが。」
「好いんだ。私が早すぎるのだよ。」
「明日からは必ず先生より早くくるつもりです。」
「まあ、そうかたくならないで。それじゃさっそく手伝ってもらおうか。」
何でもしようと思うのだが、何をして良いかわからない。もどかしい。
「そんなに、必死にならなくて好いよ。だれでも最初はわからないのだから、ゆっくり見ていなさい。」
次の日から、私は必ず一番に病院に行った。
S先生を僕の未熟な腕で、危険にさらすわけには行かない。
機器の準備から、検査データの解析、機器の後始末まで、すべてのことがふしぎなくらいスムーズに体に入った。
二週間はあっというまに終わって私は、自分の病院に帰った。
透析の機器が大急ぎで導入された。
私は、業者の人に見てもらいながら、機器の操作の復習を重ねた。
S先生に準備オーケーの連絡がいった。
「君は心配しないでいい。私が自分で透析できるんだから、君は手伝ってくれるだけでいいんだ。」
先生はそういって私を安心させてくれた。
* * *
先生と私で透析ができるかどうかテストする日がやってきた。
その日、H市民病院の技師さんと一緒にS先生は戻ってきた。技師さんは、ぼくとS先生の協同でやる透析を見守るだけだ。
タンクの透析液の調整は、すでに済ませていた。
浸透圧計で、浸透圧をはかり、透析液の電解質も念のために検査課に出して検査した。
先生が自分で足のシャントを消毒した。(先生は透析開始後も、手術をつづけるために、足にシャントをつけていた。)
「いいですか。それでは接続します」
人工腎臓の回路をつないだ。ポンプを回しはじめた。プライミングした回路が血液でさっと赤くなった。
「気分はどうですか?」
順調だった。次第に回転をあげていった。限外濾過圧をあげてゆく。先生は私の操作をじっとみている。
テストはオーケーだった。
* * *
ついに私たちが待っていた日がやってきた。
先生が正式に私たちの病院に復帰したのだ。
復帰後第一回の透析はうまくいった。
次もそして3回目もうまくいった。
秋が来た。中四国医学会が近づいてきていた。先生はその輸血学会の会長だった。
学会の三日前、とんでもないことが起こった。シャントがつまったのだ。
先生は自分の手で、一生懸命に通そうと努力した。私も必死だった。
「どこがつまっているのか、造影してみてみよう」
「君が造影剤を入れてくれ給え」
「先生好いですか入れますよ」
先生の顔が苦痛にゆがんだ。
そうこうしながら、私たちはやっと血栓を除去することができた。
透析は週に3回行った。
その日は私は早朝から、準備をした。
院長の約束通り、透析用のスタッフは与えられなかった。
何から何まで自分一人でやらなければならなかった。
手術室の看護婦が、私一人ではかわいそうだといって、手伝ってくれた。
透析が終わると、透析装置の消毒がある。タンクもきれいに洗浄しなければならない。
ある日私はタンクに水を入れながら、眠ってしまった。
ふと気がつくと、タンクから水があふれて、透析室が水浸しになっていた。
先生の透析は順調に進んだ。
週3回透析し、透析のない日は、今まで通り外来をされた。
手術も今まで通りだった。
私は週3回先生の透析係をし、残りの日は、受け持ち患者の手術をした。
手術の役割分担は今まで通り先生がされた。
先生は私がどの手術につきたいかをきいて、いつでもその通りにしてくれた。
透析の日、先生はほとんど論文を書いておられた。
論文書きに疲れると、先生がいままでたどってこられた若い日々の話、外科医としての生活の経験などを親しく話して下さった。
* * *
それから、またしても外シャントのつまる事故が起こった。
必死の努力でふたたび通すことができたが、このことで先生は「内シャント」を作ることを決心された。
K大学病院の・先生を招いて、左の腕に内シャントをおく手術が行われた。
シャントは非常にうまくできた。
透析の度に針をささなければならないが、もう今までのようにシャントがつまる心配をすることはなかった。
私も先生もほっとした。
しかしほっとしたのはつかの間だった。
内シャントをおいた時から、先生が肩で息をするのが目立ちはじめた。
心不全が起こりつつあった。
ある日、手術室でならんで手洗いをしていると、先生は肩で大きな息をしておられた。
「先生、しんどいのではありませんか?」
「君はそんな事を心配しなくていい。これからの手術のことだけ考えていたまえ。」
その日の先生の手術は今まで見たこともないくらい早かった。
出血はごくわずかで、こんなに早く、しかも丁寧な手術ができることが不思議だった。
助手の私も精いっぱいついていった。
器械だしの看護婦も手術室で一番うまいナースがついていた。
手術は終わった。
いつもの先生はそこでにっこりと笑われるのだが、今日は術衣を脱いで、無言で手術室をでてゆかれた。
標本を整理して、先生の部屋をのぞくと、先生は眠っておられた。
ぐったりと疲れていた。それは彼が人前で決して見せたことのない顔だった。
私は先生を起こさないようにそっとドアをしめた。
秋頃から、先生が肩で息をすることがさらに多くなってきた。
胸の写真をとってみると心臓が次第に大きくなってきていた。
内シャントにしたのが心臓の負担になっていることが明らかだった。
お正月が近づいてきていたが、先生の病状は、はかばかしくなかった。
透析で水分を引くと、循環器への悪影響が明らかとなってきた。
そこで、毎日少しずつ透析を繰り返すことにした。
透析の負担に耐えられる時間が毎日短くなった。
* * *
「このままではH君がつぶれてしまします」
「もしもの事があったときに、彼がどんな行動をとるか心配です。もう、H病院へ転院していただくときと思います」
同級生のKがいった。
「それでは君たちが連れていってあげてくれるか」
院長は悲痛な面もちでそう言った。
Kと二人で、先生を広島のH市民病院に転送することになった。
Kは柔道3段で、力は強い。
フェリーに乗った後、先生は外にでたいと言われた。
私はKと二人で先生を抱き抱えた。
足がよろけそうだった。
二階のデッキで先生は瀬戸の海をじっと見ていた。
「久しぶりに見る海はきれいだね」
肩で息をしながら、先生はそういわれた。
苦労して先生をここまでつれてきてあげて良かった。
わたしたちは、甲板に毛布をひいて、先生を後ろからささえた。
デッキは寒いので、先生が風邪を引かれるのではないかと心配だったが、先生は、じっと海をみていて、車に戻るとはいわれなかった。
フェリーはU港についた。
病院までは、もう少しだ。
H病院に着くと、スタッフが玄関で待ってくれていた。
私たちが帰るとき先生は、いつまでも手を振っておられた。
それから、二度私は先生をH市民病院に訪ねた。
先生の状態は改善の傾向を見せなかった。
* * *
先生をH病院にお送りした二ヶ月後のある日、私は胃癌の受け持ち患者の手術をしていた。
手術が中程にさしかかったとき、外科医長のO先生が手術室に入ってきた。
「S先生が先ほど・・・」
O先生はそこまでいって口ごもった。
私は振り向いて、O先生を見た。
先生は黙ってうなづいた。
* * *
6月・・日、高浜港は雨だった。
霧のような雨が瀬戸の海をつつんで、島影がぼんやりとかすんでいた。
遠くで、汽笛の音がきこえた。
私たち外科スタッフ一同は傘をさしてS先生が到着するのを待っていた。
やがて、霧の中から水中翼船がゆっくりと岸壁に接岸した。
先生は乗客の一番最後にでてこられた。
先生はとても小さくなっていた。
奥様の胸に抱かれた小さな箱の中だった。
愛・希望・勇気