愛
学生時代、外科病棟でのある日、手術室に連れていかれた私は、手の先から、上腕の中程まで一面に赤い色素を塗られ、手洗いを命じられた。
ブラシでいくらこすっても、色素の赤はなかなか落ちなかった。
爪の先、指のあいだ、前腕の内側、赤色の強く残った部分が、手洗いが不十分になりやすいことを、色の残り具合をもって教えられた。
その日、病院が終わって、色素の残った赤い手を見ながら、私は外科医になろうと決心した。
その時の指導医が、志水先生であった。
外科医になって数年後、国立松山病院(四国がんセンター)勤務を命ぜられた。
患者の大多数が、悪性腫瘍の患者であった。
放射線診断部には、築地から派遣された笹川先生、治療部には吉田先生、病理には森脇先生、三木院長のもと、全員が一体となって、がんの診断治療に情熱を傾けていた。
翌年の四月、大学の講師であった志水浩先生が外科医長として赴任された。
先生は外科医の鏡のような方であった。
朝早くから病棟を見て回り、患者にやさしく、スタッフには厳格かつ寛容で、手術は正確、安全、無血であった。
正確な解剖にもとづいたリンパ節郭清がいかに少ない出血で可能であるか。
必要とあらば、何時間かかろうと徹底的に根治を得る手術をめざさなければならないこと。
組織が最大の活力をもって早く回復するために、無菌、止血、組織を愛護的に扱うことがいかに大切かという、W.S.ハルステッドの教えを,実地に骨の髄まで我々はたたき込まれた。
そして同時に、患者の安全の為に、退却する勇気をもつことが、外科医にとって最も困難でかつ大切なものであることも。
忙しい診療の合間をぬっては講演にとびあるき、夜はカンファレンス、論文書き、翌日はまた診療、手術ーーーそんな無理が重なってか先生は腎炎になられ、人工透析を必要とする最悪の事態になられたのであった。
自分の右腕と頼む志水先生の病気に三木院長はさぞ苦悩されたことであろうが、広島市民病院で透析をつづけながら、志水先生の外科復帰の意志はかたく、急遽,国立病院内に透析室がつくられたのであった。
手洗いをする為にシャントを足につくられ、週二回の透析を受けながら、先生はがんセンター医長の重責をりっぱにはたされた。
中四国輸血学会の会長もされ、透析の日には、患者のこと、手術のこと、学問のこと、先生がいままで歩いてこられた道のことなど、親しく我々スタッフ一人一人に話をしてくださった。
診療の日は元気なころと全く変わらぬ笑顔で患者に接し、外来、回診、手術と、てきぱきと仕事された。
手術室で隣り合って手洗いをしているとき、先生が肩で息をしているのを見て、
「先生、しんどいのではありませんか。」
とたずねると、
「ありがとう。大丈夫。君はそんなこと心配せずに、手術のことだけ考えておけばいい。」
と答える先生であったが、手術のスピードが以前よりなお早くなった。
しかしそれは、決して粗雑でも出血の多い手術でもなく、正確、安全、無血に近い手術のままであった。
やさしい奥様やまわりの人達の必死の努力のかいもなく先生は若くして他界された。
先生は私に患者を「愛する」ことを教えてくれた。
「勇気」をもって果敢に病気とたたかい、どんな事態に陥っても「希望」と笑顔を失わないことを教えてくれた。
「忍耐」強く、「実践」をもって、私に示して下さったのである。
「愛」「勇気」「希望」「忍耐」「実践」、この五つのことばを、「志水浩」の名とともに、私は一生忘れず、後輩に伝えてゆきたいと思っている。
S先生の思い出