懐かしの福井座

 戦前から戦後の長い時期、人々の最大の娯楽は映画であった。どんな小さな町にも映画館や芝居小屋があり賑わっていた。久万町にも、大正6年から昭和37年ごろまで福井座という小屋があり、芝居、浪花節、映画(活動写真)などの興業で人気を集めていた。そこで当時の事情に詳しい天野文子さん(77)=福井町=に『懐かしい福井座』を語ってもらった。


<少年の村田英雄も訪れた>

 大正6年7月13日の夜、橋長旅館(現在おもご旅館)に町内の主だった人々が集まった。福井座誕生のきっかけになる『定小屋再興発起人會』だった。
 すでに新築されていた興業場が、学校に近いため興業が許可されず、民有家屋として保存されていた。ところが学校が移転されることになり、修築して定設興業所(定小屋=じょうごや)にしようというものだった。この年の8月27日に県知事の新設許可が下り、福井座株式会社が発足した。
 天野さんは福井座近くの橋長旅館の娘。母親から三味線の手ほどきを受け、現在は藤本秀媛として日本民謡藤本流直門師範、藤本秀媛会会主として後進の指導に当たっている。天野さんのお話は−−。

 私の実家は旅館なんで、福井座に出ている浪花節語りや三味線弾き、無声映画の弁士や楽士が泊まっていましたよ。浪曲師の酒井雲に付いて、まだ少年の村田英雄も来ていて、ちょこちょこ働いていました。お師匠さんが豆腐が好きで、「豆腐は有りませんか」と探していましたね。
 無声映画の楽士は、ピアノ、三味線、尺八、太鼓などで、画面に合わせてアドリブ(即興)で演奏していました。福井座の斜め向かいの魚屋・魚辰の息子の、登さんという人が櫓で客寄せの太鼓もたたいていました。映画が掛かる日には、町筋に楽士が出て客寄せの演奏をしていましたよ。

 懐かしそうに昔話をする天野さんは、肌も艶々していて、薄化粧したふっくらとした顔は、77歳とは思えない色気さえ漂う。
 福井座では、芝居、浄瑠璃・義太夫競演会、演説会など、多彩な催しが開かれていた。巡回映画もよく掛かった。
 正面の舞台の前には、楽士が入って音楽を演奏するボックスがあり、桟敷の客席の右側には下足や売店、左側には花道があった。桟敷の後には巡査席があって上演する内容の検閲をしていた。また、福井座の周りの水路には物売りの掛け小屋が作られていた。


<三味線を教わるのがうれしくて>

 私は子供の頃から浪花節が好きで、舞台の裏から見ていると、「子供じゃのに聞きに来とるぜ」と言われましたよ。三味線が好きで、楽士の三味線弾きのピンちゃんにかわいがられて、映画の中の伴奏曲を教えてもらいました。チャンバラのときの曲なんかをね。弾いてみよか。
(天野さんは、傍らの三味線を膝に取り上げると、こともなく軽快な曲を弾いてみせる)
 これは、『竹の雀』という曲で、玄人は『たけす』と呼ぶけどね。ピンちゃんとボックスに入って、演奏を聞かしてもらいました。弁士の人に「弾いてみんか」と言われたけど、旅館のお嬢が楽士になるわけにもいかずねぇ。
 無声映画の連中は、前日の興業地からフィルムを抱えて夜遅く来るんよね。朝になると部屋の外で撮影技師がフィルムを手回しで巻き戻しながら、「わしら難儀士よ」と冗談言うてました。私は三味線を教えてもらえるのでうれしかった。場面毎に違う曲を次々と習いました。

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<思い出は無声映画の中に>

 高橋卓良さん宅=福井町=には、福井座株式会 社の設立準備が始まった大正6年8月から福井座が老朽化して昭和37年に取り壊されるまでの詳その中の大正9年度の営業概況を見ると、小屋貸し日数は69日間(大正7年度は79日間、同8年度は68日間)、その内訳は、一般興業47日、演説会1日、義援金募集興業2日、無料興業19日となっている。

 11年前の春、西条市の『無声映画を守る会』が無声映画会を計画、天野さんに三味線伴奏を依頼してきた。出し物は『血煙り高田の馬場』(坂東妻三郎主演)、『凄絶荒神山』(大河内伝次郎主演)、『いろは仁義丁半三度笠』(坂東妻三郎主演)の三本立て。天野さんは見たことのない映画だったが、ピアノなどの楽器に合わせるうちに、自然に三味線を弾く手が動いたという。福井座のボックスや、ピンちゃんの思い出がよみがえったことだろう。

 子供の時に習った曲を、よう覚えとったです。映画を映しながら演奏するのは初めてなのに、場面につられて、次々と夢中で弾いていました。50年もたっとるのにねぇ。
 今でも、無声映画さえあれば、伴奏は弾けるよ。尺八やピアノの人も知っとるよ。ただ弁士がおらん。

 天野さんの話は、無声映画上映への夢を脹らませてくれた。もし実現できれば、町内はもちろん、各地から無声映画を懐かしむファンが集まるに違いない。
 多くの観客を集めた福井座は老朽化し、大雪が降れば危険だと、昭和37年に解体した。奇しくも、豪雪の降った前年だった。
 久万町の映画館は、一時は3館もあったという。その一つ宝映劇には、曙町の村上鮮魚の村上盛男さん夫妻が勤めていた。改めて宝映劇の紹介もしたい。また、高橋さん方に残されている貴重な資料をもとに、福井座の記録の詳細を紹介したい。

(取材・文責 河野真紀子・篠崎克己)


平成7年12月1日発行「停車場Vol.1」より


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