| 親知らずを抜いた話 |
<「来週抜きましょ」>
何だか肩や首筋が凝るなあと思いながら、ふと鏡で口の中を覗いたとき、左の下の奥歯の向こう側にわずかに白いものが見えた。直径わずか1、2ミリ。これってもしかして、親知らず? 肩凝りの原因もこれにあるのかな、と思いつつも、歯自体は別に痛くもない。
放っておいてもよかったのだが、気になって歯医者に行くと、「親知らずですね。来週抜きましょ」とあっさり言われてしまった。真直ぐに生えてきてはいるが、途中で骨にぶつかって骨を溶かし始めているとのことだった。それで炎症が起きて、あごの付根辺りに痛みが生じているのだった。
それにしても、来週というのはあまりにも急だった。歯を抜くなんて何年ぶりだろう。歯だって体の一部なのだから、抜くのにはちょっと勇気が要る。でも、放っておいて妊娠してから痛くなったりすると面倒だよ、ということで、結局一週間後に決行となった。
混んでいて、10分ほど遅れて麻酔にかかる。それでも、まあ11時には自由の身になるとそのときは考えていた。麻酔が効いてからは、自分の口の中で何が起こっているかさっぱりわからない。まだろくに見えてもいない歯なのだから、まずは切開して、それから抜きにかかったのだろうが、その過程は想像にすぎない。
肉を切り開いて姿を現わした親知らずを、ペンチ様のものでガッと捕らえる。(あくまでも想像)さあ、いよいよ抜ける瞬間だ。私の顎を押さえている先生の手にも力が入る。(顎は麻酔なしなので結構痛い)全身の力をこめて、えいっ、ガシッ・・・。ペンチ様のものが力のあまり滑ってしまった鈍い音。まあ、先生といえども、一度や二度の失敗はあるだろう。もう一度、えいっ。ガシッ・・・。
「なかなか手強いですねえ」と先生の反対側で助手の女性が苦笑い。何度か挑戦したあと、先生は疲れ果てたように他の患者さんのところへ行ってしまった。時計はすでに11時を回ろうとしている。女性の歯は男の人に比べて柔らかいので、親知らずも簡単に抜けることが多いのだそうだ。だから、こんなケースは滅多にないと、戻ってきた先生は困ったように言った。
麻酔から一時間を過ぎる頃には、感じなかったはずの痛みを感じるようになってきた。ほんの三十分ほどで終わるはずが長引いたので、麻酔が切れてきたのだ。口を開けっ放しなので首や喉も痛い。顎もやっぱり痛い。仕方なく、応急の麻酔をかけて、再度挑戦。歯の根が深くて、その上どこかに引っ掛かったようになっているらしい。ぐらぐら動いていて、今にも取れそうなのに、取れないという状態。
私のせいで予約の時間がずれて、待っている人がたくさんいる様子。他の患者さんの方も覗きながら、開始から1時間半が過ぎた。結局、先生も力ずく作戦をあきらめ、歯を割って取り出すことになった。ガギガギと音を立てて、歯は分割され、まもなく取り出された。そのあとは、糸のついた不思議な器械でカチャカチャと穴を縫合し、口をゆすいで出来上がり。すべてが終了してみるとすでに12時を回っていた。親知らず一本に、実に二時間。
痛くて眠れない状態から、何とかうとうとして目を覚ますと、口の中に変な味と感触。吐き出してみるとどす黒い血の固まりだった。さらに、鮮やかな赤い血も流れ出ている。そんなに大量ではないが、血が止まらない。
何せ二時間もかかった特異な抜歯、心配になって歯医者に電話すると、今から来てもよいとのことなので出掛ける。頑固な歯のために引き起こされた混雑も、午後には緩和していた。少し待って診察してもらうと、このくらいの出血なら大丈夫とのこと。血が出て肉が出来てくるので、全然出ない方が心配なのだと言われた。とりあえず安心して、痛み止めの追加をもらって家に帰った。
軽い気持ちで抜きにいった親知らずだったが、それから一ヵ月以上も後遺症に悩まされた。抜いたところから隣り合わせの三本が痛み、食事も口の右半分だけで食べる。抜糸のために一週間後に再び歯医者を訪れたが、痛み止めはあまりもらえず、仕方なく市販の鎮痛剤を常用する日々。本当、妊娠中でなくてよかった。
(97.2.13)
何がすごいって、たかが歯を一本抜いたくらいでこんなに長々と文章のかけてしまうのがすごい。今は小康状態となり、ご飯も普通に食べられるようになったが、まだ未知の三本が・・・。あなどるべからず、親知らず。
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