Christopher Columbus
大発見時代の背景
彼が生まれた時代を理解しないでクリストファーコロンブスを理解し始める事はできない。15世紀は躍動的な変化の世紀であった。西ヨーロッパは多くの歴史的事件が起こり社会に深く影響した。身近に将来の探検家に直接影響した地中海沿岸の出来事は3つある。
1415年 ポルトガル人による北アフリカのCeutaの征服
1453年 イスラムトルコによるコンスタンチノープル陥落
1492年 キリスト教系スペインのイスラム系グラナダ攻略
以上3つの出来事はキリスト系とイスラム系の世紀に渡る紛争によりもたらされた。
チュータ(Ceuta):
15世紀に入りポルトガル人はイスラムの国を上手に追放し、どの西ヨーロッパの国よりも早く王政権を成立させた。1415年にポルトガルは北アフリカ侵攻に強い姿勢で臨みイスラムの商業都市チュータを攻略した。ある歴史学者はこれを1世紀以上も前から保留になっていたキリスト教十字軍の巻き返しとみる。作戦は強力な政治的及び軍事的基盤に立ちポルトガル人はイスラム人に対するキリスト教国の長い戦いを再び始めようとした。イスラムを破壊しその商業帝国を破壊する事を決めたポルトガルは上手に市を攻略し直ちに儲かるアフリカ貿易に参入した。これは中産階級から金持ち成金を輩出させ王室と連合し中産階級はアフリカばかりか大西洋の島々との交易で成功した。後に愛称で航海者と言われ、南ポルトガルに航海者養成学校を創ったヘンリー王子の後見指導のもとで、ポルトガル人はアフリカの先端を回る道を発見するためアフリカの西海岸を探検し始めた。この戦利品によるポルトガル人の恩恵はヘンリーの1460年の死後まで続いた。1488年にBartolomeu
Diasが16ヶ月の航海から帰るまでポルトガル人はアフリカの先を回る旅行が可能である事を知らなかった。Diasから11年後にヴァスコダガマが1497〜1499年にかけ、最初の航海で東洋の財宝への直接貿易のルートを探す中世からの夢を満たし喜望峰を回った。
大発見時代の重要人物の名前の記念碑の高位に大航海者ヘンリーがある。多くの歴史学者によると、彼は時代に対する息吹を与えたばかりか、アラブから借りた海洋船、航海、航海補助具などの発展のため試行錯誤を数十年かけ、それにより得られた実際の知識を提供した。この時代の探検に使用された軽快な帆船はよりよく走る船への勤勉な研究の賜であった。ヘンリーは発見にも大変貢献し財宝のために向こう見ずな冒険をした者の意欲をそそる手助けをした。
コンスタンチノープル:
ギリシャ正教ビザンチン帝国への数十年に及ぶ攻撃後、オットマントルコはムハマドU世の指揮の元1453年にコンスタンチノープルをイスラムに占領した。東地中海ではイスラムは日の出の勢いで東ヨーロッパ深く侵攻しつつあった。イベリア半島のポルトガルとスペイン両王国だけが西地中海でイスラム人に対し善戦していた。15世紀の前半に例えばポルトガルのキリスト教徒は7世紀続いた戦い後イスラム人をすでに追放していた。スペインは15世紀の終わりまでこの努力は実らなかった。多くの商業経済都市の一つで、北イタリアの大航海国家としてコロンブスの生まれた町ジェノアは多くの植民地を造り東地中海、エーゲ海、黒海に他の商業センターを有していた。商業の動力発電所のような旺盛な活動をし、織物、食料品,金、木材、造船、調味料、東洋の贅沢品やとりわけ砂糖などの貿易をしていた。ギリシャの島々からポルトガルの島々(大西洋を渡る距離の3分の一)をへてアフリカのギニア湾までジェノアは地中海と大西洋貿易による巨利を得ていた。市の支配権はバルカン半島にまでおよんだ。エーゲ海で起こる出来事はジェノアの裏庭で起こるようなものであった。コンスタンチノープルが陥落した時コロンブスはたった2才であった。ジェノアのような航海国家にとっては東地中海に植民地を失うことはすなわち市場を失うことで大きな不幸であった。コンスタンチノープル陥落を大パニックとせず、機略に富んだジェノア人は商業経済力を維持するため全く新しい戦略に出なければならないと考えた。こうしてジェノア人ははけ口として商品や資本ばかりでなく技術のある操縦士や後悔者や水兵など、西地中海に向かい始めた。商人や船大工や銀行家やその他色々がリスボンやセビリアやバルセロナやカディズに向かい始めた。しかしジェノア人だけが大挙して押し寄せたイタリア人ではなかった。ベネチア人やフローレンス人や東で彼らの財産を取り上げられたギリシャ人やその他もいた。コロンブスは彼の言葉で早い時期に海に出たというがこの争乱の世の中で船舶操縦術を学校で習った。世の中は彼にも又他の冒険家にもチャンスのある時代であった。
ジェノアからイベリアへの移住はジェノア人の東地中海から大西洋へ向かうごく普通の移動であった。コロンブス一家は毛織物や衣服の輸出の仕事に従事していたが、元々彼の家族はだれも海の仕事に従事していなかった。皆の話によるとこれが当時のコロンブスを含むジェノア人の普通の姿であったという。ジェノア人の運命財産が東から西の地中海に移るに連れコロンブスも毛織物工から船乗りになった。コンスタンチノープル陥落にまつわる出来事は将来の新世界発見者の経歴を理解する上に重要であるし彼のジェノアからポルトガルやスペインへの移住はその時代背景の中で理解される事である。
グラナダ
クリストファー コロンブスの生涯に重大な影響を与えた次の出来事は1491−1492年のグラナダ陥落である。キリスト教のスペインにとりグラナダの攻略は15世紀における最も重要な出来事であった。8世紀間の戦い後にキリスト教スペイン人がイスラム教イベリア人をついに打ち破ったのである。1492年1月2日
King Ferdinand と Queen Isabellaは征服者としてグラナダに乗り込んだ。しかし彼らのそばに憂いに沈んだコロンブスがいた。カトリックの君主に伴った他の者たちはグラナダが王家の象徴のキリスト教に変わるのを見て喜んでいたが、コロンブスは落胆して座っていた。
グラナダへの最終攻撃の間に王の軍隊のキャンプで2〜3日前に起こった事は、専門委員会がインド冒険企業構想に対する王室の援助を確保したいコロンブスの願いを却下したのである。祝賀式の後、彼は彼の敗れた自尊心を癒すため近くのLa
Rabida修道院へ出かけた。当時コロンブスは何年も待って承認が遅い事に対し我慢しきれなくなっていた。しかしイスラムの侵入者達を追い払うこの長い戦いがおわり、王と女王は戦争以外の事を考え始め、コロンブスの熱望に注意を払ってくれる時が今や訪れていたのである。
Columbusの紹介:
Christopher Columbus (スペイン語でCristobal
Colon, イタリア語でCristoforo Colombo)は1451年イタリアの
Genoaで生まれ 1506 年スペインの Valladolidで死亡した。
1492年10月12日カリブ海にこれまでに知られていなかった世界の小さな島が見つかった。東洋への直接ルートを探してスペイン王家の援助の下探検航海中にコロンブスは偶然に新世界を発見した。しかし1492年から1504年の間のカリブ海への4回の航海で、発見者はマルコポーロが13世紀に陸路で達した大陸を発見したと信じていた。コロンブスはカリブの島々を通ってCathay(中国)やCipango(日本)への通路が見つかるのは時間の問題と思っていた。この時代のヨーロッパ人にとりインダス川より東はインドであり、インドに達したと思ったのでコロンブスは人々をインディアンと呼んだ。その時代の冒険家はこれが古い世界の部分であると思っていた。フローレンスの冒険家アメリゴヴェスプッチは彼のためにアメリカという国名が付いたが、この大陸は全く以前には知られていない新大陸と信じていた。
幼小児期
コロンブスの伝記に関しては著者毎に異なるが多くの学者の間でクリストフォロコロンボは1451年の8月25日から10月31日の間にジェノアで生まれた事や父は
Domenico Colomboで毛織物工で地方の政治にも参画していた事、母は
Suzanna Fontanarossaで毛織物工の娘であった事などが大体一致している。5人兄弟の長男でクリストファーはいつも弟の
Bartolomeoの近所にいた。この2人は共通する事がたくさんあった。彼らは海図を研究したり本を売ったり、西への旅行も計画した。又彼らは一緒に新世界へ旅行している。もう一人の兄弟の
Giovanni Pellegrinoは若くして死んだ。妹の
Bianchinettaはチーズ屋と結婚した。一番下の兄弟の
Giacomoは17才年下であった。1470年に家族はジェノアの西のSavonaに移住した。コロンブスが子供としてどのようなまともな教育を受けたか不明だが、イタリアの同業者組合では学校で子供達に基本的な読み書きは教えていた。子供から青年期にかけクリストファーは家族の仕事であった毛織物制作と販売をして父を助けた。彼はたぶんジェノアの本屋さんでも店員として働いた。息子が父の家業を継ぐ事が期待された時代ではあったが、経験のため海の仕事に出る事は普通の事であった。他の若い連中と同じように大港町に育ち、コロンブスは10代前半に海の生活を始めた。
14才で専門職に入る新米の他の見習いと同じく、コロンブスも小間使いや船のボーイや普通の船乗り、そしてたぶん21才まで私略船乗組員として働いた。多くの歴史家は旅行をした事を疑っているが、息子のFernandoはクリストファーコロンブスの伝記と証書History of the Life and Deeds of Christopher
Columbusと言う本の中で1472年にコロンブスはチュニスへ船で遠征に行く命令を受けたと記載している。
失われた手紙の中でコロンブスは息子に、フランス人のナポリ王位要求者Rene d’Anjouの使命を受け北アフリカ沿岸へ出航し、スペインの大帆船を不意うちする使命を受けたことを述べている。王位を賭けたReneとスペインのアラゴン王家との敵対関係は明白であった。又、ジェノアがスペインに対し敵対していた事も明らかであった。ジェノア商人が彼らの同盟者の Angevinsを助けるのももっともな事であった。しかし歴史家が最も疑うことは、コロンブスが遠征の命令を受けた事実である。
それより確かな事は以下の遠征である。1474年にコロンブスはエーゲ海のキオスChios向けの地中海汽船の普通の船乗りとして雇われている。これが彼の最初の長い航海であったし少し儲けて家族より経済的に独立している。次の冒険の計画のために短期間帰った以外はコロンブスはサボナに生活のために2度と帰らなかった。ジェノアが後ろ盾をやめたように彼も家業の毛織物商をやめてしまった。コロンブスはキオスに1年過ごし、その地域の政治的、商業的、宗教的紛争に影響された。ギリシャは20年も前からトルコの支配下にあったコンスタンチノープルの影響下にあった。大いなる皮肉はエーゲ海への旅行がアジアを目指した彼にとって最もアジアに近ずいたものであったと言う事である。
1476年8月13日,イギリスへの5艘の船によるジェノアの商業的探検がコロンブスに最初の地中海を離れ大西洋に乗り出す機会を与えた。しかしそれは大海の提督になった男にとり不運な始まりであった。ジブラルタル海峡を通過中に船団はSt. Vincent岬沖でフランスの私略船に襲われた。双方が船を失いコロンブスの船は火災になり泳いで岸に渡る以外なかった。息子が誇らしげに言うには彼が生き延びたのは水泳が桁外れに得意であったためと言う。沖合い6マイルから残骸につかまりながら岸に上陸しLagos港で体力を回復して、地位も金も無くコロンブスはリスボンにある商人や造船技術者らからなる大きなジェノア人共同体社会に転がり込んだ。その時彼は25歳であった。
1477年までコロンブスはリスボンに住んだ。地中海沿岸に生まれ育った者にとって、その新しい家は奇跡と期待に満ちていた。Tagus
Riverの河口に座ると, Lisbonの律動は入り口の踏み段に押し寄せる大洋の波のそれであった。大西洋に突き出て2面を海に面したポルトガルは海事活動の中心になった。航海者ヘンリー王子のアフリカ沿岸への探検以来、リスボンは探検者、冒険家、企業家、商人、その他貿易風と海流にまかせて幸運を夢見た連中にとり天国であった。まもなくコロンブスの弟のBartolomeo
がリスボンに住み、地図の製作や地理の研究をしている。時々兄弟は地図を創る仕事や書物の収集に一緒に働いた。
好機をとらえてコロンブスはリスボン到着後まもなく最初の仕事を得た。1477年イタリア商人としてコロンブスは荷物を積んだ船団で北大西洋の港に商売のため出航した。寄った港の中にはアイスランドがあった。そこは昔からUltima Thuleと呼ばれ世界の果てという意味であった。色々航海をしてコロンブスはFelipa Perestrello e Monizにめぐり会い結婚した。父のBartolomeo PerestrelloはコロンブスがFelipaと会った時はすでに病気であったがPerestrello家は貧しかったが尊敬された高貴な家系で Madeiras諸島のPorto Santoでヘンリー王子により元々任命された世襲の知事であった。Bartolomeo P. は元は海の男で、その家族は1世紀も前にイタリアからポルトガルに移住していた。1478年か79年の結婚後まもなく新婚夫婦は残りの家族とFelipaの長兄が知事をしているPorto Santo に帰った。まもなく息子のDiegoが1480年か81年に生まれている。コロンブスとフェリパはMadeira諸島の大きな島に移住し、その後まもなくフェリパは死亡したと考えられている。
次の2〜3年は他の航海と読書に費やされた。1481年の後半か82年の早期にGuinea沿岸のEl minaと言うポルトガルの新しい砦に航海している。El
Minaが赤道の南にあると言う間違いを信じ、アフリカがポルトガルに提供しなければならなかった財宝特に金に関心を持っていた。コロンブスは風や海洋の流れについて地方の案内人や水夫に熱心に習っていた。ある歴史家はアフリカ沿岸から離れたこの海域で、又Canary群島の近くでコロンブスはCanary海流と言われる海の現象を一人で観察していた。大洋の中でCanary群島からBahama諸島に向かい川のように流れる海流の事を知ったことがコロンブスがIberiaより遙かに南のCanary群島の緯度で大西洋横断をしようとした理由であった。
インド企業The Enterprise of the Indies:
この頃の情勢が西に向かって出発し東洋に達する計画を思いつかせ、これが彼の言うインド企業構想であった。彼がポルトガルに着いた時から1484年にポルトガル王John
U世に会うまで、コロンブスは西に航海して、インドに着くかなり完全な計画を持っていた。着想は多くの源から出たが、コロンブスははっきりと後の発見の航海に直接関係した多くの経験をすでに持っていた。先に述べたように彼の Felipa Perestrello e Monizとの結婚は彼女の家族がポルトガルの貴族に属していたので、コロンブスに宮廷や王への近づきを与えたばかりかFelipaの父の所有する多くの地図や書類の収集を見せてもらう事ができた。かなり貧乏であったが家族はそれでも宮廷と関係がまだあった。コロンブスは明らかに病気の前知事の書類を調べて地図や海洋の流れに関する海図や水夫との個人的な会見や、西から小さな島に流れ着いた物に関する話などから重要な情報を得ていた。 相当な影響を与えたのは知事の未亡人が伝説の航海者ヘンリー王子のために同行航海した男の雑誌や海図を手渡した事であった。もし前もってそんな事がなければ、遠く離れた海洋上の島で暮らしながら、コロンブスに更に西への航海探検が可能と考えさせる理由はなかった。ここで彼のインド企業構想が熟成された。
企業構想に貢献した他の重要な事はポルトガルのジェノア人共同体に属していた事とイタリア人やポルトガル人商人を雇用した事であった。どちらも大西洋の海水に関する知識を提供し、彼のアフリカへの旅によりCanaryの群島や潮流に関し馴染みにさせた。しかし他の連中に言わせると、それは、コロンブスが出発する所として選んだCanary諸島からマルコポーロがジンギスカンの国土をめざしたと同じ方向に設定したのみであったと言う。.
コロンブスは他の航海で北大西洋に出かけている。英国、アイスランド、アイルランド、や他の北の陸地へ寄港し、アイスランドより西の陸地に関する知識を含む過去の歴史を知っている人々と会う事ができた。ヴァイキングの武勇伝は中世ヨーロッパの人々の知識の基礎には決してなっていなかったが、彼らが北大西洋を渡って次々と島々を見つけた事は 船乗りや海図製作者が大西洋全体に多くの島々がある事を信じる理由になった。コロンブスの優れた資質は地中海や大西洋に関するすごい情報収集能力にあり、彼の現実の経験と彼の本から得る古い知識とをほとんどの航海者がしなかった様なやり方でまとめたのである。それは局部の知識をこつこつ集めて情報を得るやり方である。
しかし彼自身の海の経験よりもっと有益な物があった。コロンブスは西へ航海して東洋に行く考えは彼が最初ではなく、又それが過去にあったとも述べていない。コロンブスは千年間に貯まった知識と科学を.
引き出した。古代より地球が丸いと言う理論があった。ギリシャやローマ時代には、例えば宇宙誌学者はヨーロッパとアジアを繋ぐ地球の表面の水は一体であると言う理論があった。もしそうなら理論的には人は西洋から東洋へ航海可能である。距離のみ問題であった。中世ヨーロッパになり Ptolemy (Claudius Ptolemaeus)と彼の紀元2世紀のユニークな世界地図(基本的にはローマ時代の世界地図)が現れた。15世紀になり 彼の地図のラテン語訳がフローレンスで出版され、
Ptolemyへの関心を再燃させた。 Ptolemy
までは世界の陸地を取り巻く海は航海不能と思われていたが、ポルトガル人は無限の海の概念を受け入れるのを好まなかった。コロンブスも又、無限で境界のない海の概念を拒絶した。しかし一方で他のプトレミーの地理学上の形態は喜んで受け入れた。コロンブスにとってプトレミーは単に人は西へ行くともう一方の世界に行くことができる事を教え、二つの離れた岸壁が共通の海で隔てられている事を教えた。
中世暗黒時代と中世時代にはその様な事に注意ははらわれなかった。生きると言う様な他の問題が強調された。しかし中世の終わりに、海は1つと言う古い理論が復活した。特に年老いた地理学者で医者のフローレンスの
Paolo del Pozzo Toscanelli は人は海路で3000マイルほどで東洋に到達すると信じていた。Toscanelli
は1470年代の後半にポルトガル人と交際があったので結果的にこの情報はコロンブスに伝わったと信じられている。
The History of the Indiesを書いた, 神父 las Casasとコロンブスの息子 Fernando の両者がコロンブスとトスカネリの間に交信が有った事を示している。
最後にコロンブスは何年も大量の本を集めていたといわれ、それらの内2〜3冊は特に彼に影響を与えた。 疑いもなく聖書はコロンブスにとり影響大きいものであった。彼はそれから引用し彼の名前を“Christ Bearer,"キリストの運び屋とし、真面目に成し遂げるべき神の使命を受けていると信じていた。地球に関するコロンブスの発展的なイメージに影響を与えたのは、法王
Pius II世の Historia Rerum ubique Gestarum,(1477年に彼がまだ枢機卿の時に発行された),
と枢機卿の Pierre d'Aillyの Imago Mundi ( Sorbonneの学長の頃の1480年初期の刊行),
と The Travels of Marco Polo, (13世紀にモンゴル王国への旅行にでたマルコポーロが帰還後1298年に書いた)であった。又コロンブスの読んだ書物の中にはPlinyの
Natural Historyと Plutarchの Lives.があった。
イタリア及びポルトガル商人としての大西洋を航海する8年間の経験の後、彼の時代の学識を加えてコロンブスは西に航海して極東にゆけると確信した。.
パトロンの捜索
15世紀の探検には王室の援助が必要であった。 王室以外に誰が主権を維持し、発見を正当化し、外交関係を取りまとめ、陸地を植民地化し、新しい植民地を守り護衛し、法律を公布し、財宝の開拓の監視をし、海外の政府を作る事ができようか?
私的な個人でも商人でもなく又銀行家でさえもできなかった。発見の時代が西ヨーロッパに始めての真の国家が出現したと同時に起こったことは偶然の一致であった。
はっきりとポルトガル人がヘンリー王子の探検で学んだ事は新しい探検と発見を始め維持するためには強い政治的及び軍事的基盤が必要であると言う事であった。更にどのような商業的企業でもその成功に不可欠なことは金持ちの援助であった。事実発見と探検はしばしば王室の認可のもとで金持ちに雇われた者達で行われた。
コロンブスのポルトガルでの王室の援助を求める決心は巧くいく様に見えた。ほとんど妨害なくポルトガルの王は1世紀以上も探検を激励し支持し、ほとんどの大西洋における新発見はポルトガル人によった。その上君臨する王家のKing John II,は1481年に即位したが個人的にインド洋と極東への直接の海路を発見する事を試みた。ヘンリー王子のアフリカを回ってと言う満たされない夢はJohn王の熱望であった。その上王は断固としてアフリカ貿易と通商と土地の人々のキリスト教への改宗を行おうとした。
地理学上の探検に対する王の強力な支持を得ようと、コロンブスがJohn二世王に接近したのはもっともな事であった。更にコロンブスはポルトガルに7年滞在しポルトガルの貴族の女性と結婚しポルトガルでは海運伝説の主人公であった。伝説によると1484年に王は西に行く事により東洋に航海する提案を聞き略式でそれを地質学関連委員会に諮った。しかし公聴会の後で委員会はあまりにも費用が高すぎる事、コロンブスはただの空想家で距離と計測に過ちがある事、西への上陸は価値のない岩の地点であったこと、そしてその様な計画はポルトガルの望むアフリカを回って航海しアジアへの東向きの航路を発見する事とは正反対であった事などの理由で要求を否決した。
ポルトガルとフランスと英国の援助に失敗しコロンブスは息子を連れて1485年にスペインに移住した。しつこかったが彼の意図は今やスペインの王家に近づき彼のインド企業構想を持ち込む事であった。 スペインは地中海において長い海運の伝統を有しながら聖戦をするキリスト教国家ではなかったのだろうか? 又大西洋に興味はなかったのだろうか?Canary群島はすでにスペインの影響下に落ちていた。スペインは大西洋の探検にはポルトガルにかなり遅れをとっていたが両国は仲の良いライバルであった。
事実スペインがアフリカや大西洋の島々についてのポルトガルの苦情に対し反論し始めた14世紀以来は両者は公に争いを始めた。スペインは最近Canary群島を手に入れたがポルトガルは苦情を言っていた。どちらも戦争を望まない事は事実であった。もともとコロンブスの西への航海プランに対するポルトガル王の拒絶の理由の一つがCanary群島でのポルトガルの主権を脅かすのではと言う関心による。
スペインでのコロンブスの最初の滞在場所の一つがPalos de la FronteraのLa Rabida 修道院であった。ポルトガル国境からさほど遠くなくTint川沿いの静かな町Palosは大西洋に開いていて、彼の後妻の親類が住んでいた Huelva の町に近かった。
La Rabidaでは幸運な出来事がめぐってきた。コロンブスは息子のDiegoを寄宿させる場所を見つけたばかりか、修道士から援助を受けた。その修道士のうち何人かは彼の構想の熱心な賛成者であった。そして
コロンブスは修道士Antonio Marchenaに会い、地図について多くの時間を議論に費やした。宇宙誌学の知識で
Marchena は古代の書物や大洋を西に横切る考えを支持していた教会の権威者達の書物を見せてコロンブスの計画を形作る重要な役目をした。Marchenaを通して,
コロンブスは実力のある貴族を紹介された。影響力をもつ友人は王宮での請願に協力的で、それは 修道士 Juan Perezであった.彼は修道院の管理人でイザベラ王妃の懺悔聴聞者であった。Perez
がコロンブスを Ferdinand とIsabellaの宮廷に紹介した。
La Rabida はコロンブスの最初の航海の歴史上重要なもう一つの役割を演じた。そこは尊敬されていた海運業者のPinzon家を含む地方の船乗り達と縁故になり、多くの長い会議と議論の場所を提供してくれた。
伝説によるとコロンブスは1485年に Sevilleに移動し、1486年5月から1487年9月までは女王の援助で生活した。彼の計画に興味を持ったが、王と王妃は戦争に忙しく彼の計画にまじめに取り組んでいなかった。とうとう1487年になりコロンブスは彼の大西洋計画を聞くために召集された専門家会議に出廷発表したが、
いわゆる “Wise Men of Salamanca”達は多くの反対意見を述べ、質問をし最後に計画を却下した。拒絶の理由の中に大海は横切るには大きすぎると言うのがあった。
大変な苦痛の年月、彼が君主に請願した年月をそう呼んだように、が過ぎ1491年も希望のない年であった。彼は蓄えもなくなり全ての請願は宮廷で拒否され今や2人の子供、すなわちDiegoと1488年にBeatriz Enriquez de Aranaとの結婚で生まれたFernandoを養わなければならなかった。失意の期間中に安らいだものはBeatrizによる愛であった。小百姓娘であった彼女は親戚でコロンブスの最初の航海の乗組員になったDiego de Aranaによりコロンブスに紹介された。
1488年にコロンブスのスペインでのパトロン探しの合間に出来事が起きた。 それはポルトガル王がコロンブスに彼の計画をもう一度聞く機会を喜んで与えると言うものであった。コロンブスに書簡を出して、
King John IIは彼を宮廷の保護のもとに親愛なる友人としてポルトガルに帰るよう招聘した。 (明らかにコロンブスは2〜3年前にポルトガルからスペインへ移動した時払えない借金を残していた)ポルトガル王はアフリカを回る航海をあきらめ掛けていた。特に偉大な航海者 Bartolomeu Dias が海で行方不明になって後はそうであった。
Diasは使命により1487年の8月に アフリカの先端を発見したが1年後に帰ることに失敗した。
John 王はコロンブスのインド企業構想を再考するつもりであったが、1488年12月に
Diasが16ヵ月後に帰還しアフリカの先端を回ったことを報告した。これがポルトガルでのコロンブスの運命を閉ざし、ポルトガル人のアフリカ政策を擁護した。
彼らにはもはやアジアへの西向きの航路は必要なかった。
スペインでコロンブスは1491年の最後の数週に最後の請願をした。宮廷のキャンプに呼ばれた時、王はグラナダでイスラム人と最後の戦いをする準備をしていたが将来の発見者は最後の提案をした。.
しかし又彼の計画は拒否された。コロンブスは著名な学者や科学助言者をうまく味方にしたが今回の拒否は主に彼が要求した地位、報酬、給金などが多すぎたためであった。彼の報酬の要求は(インドからの全ての財宝の10分の一と大海の提督の地位、インドの総督で知事)君主に計画をすぐに拒絶させるものであった。
伝説によるとコロンブスがロバに乗り去ろうとした時
Ferdinand王の会計係の Luis de Santangel(改宗したユダヤ人の家族の一人)が 彼に代わり仲裁をした。可能性のある利益を考えると投資は小さいと主張し
Santangel は王と王妃に彼らの決断を翻す事に成功した。
宮廷の使いが馬に乗り彼を呼び戻しに来た。契約の交渉に数週を要した後、コロンブスは
Palos de la Fronteraを1492年8月に出航し歴史との出合がここに始まった。
最初の航海(1492-93):
Palos の人々に3艘の帆船を用意し装備するよう命令が下った。最初はCristobal
Quintero所有でPintaと呼ばれた .次は Juan Nino所有で正式には, Santa Clara と命名されたが Nina と呼ばれた。3番目の船はコロンブスの旗艦で
(小さい丸い船 で大きな牢獄を持つnaoのような), Juan de la Cosa 所有でSanta Mariaと呼ばれた。実際の製造に関しては何も解っていないが文献によると
Nina と Pinta は小さく、それぞれ60トン位で長さは約70〜80フィートであった。3艘の内
Pinta が最も速かった。 Santa Maria は約 90-100 トンで他の2つより長くはなかった。
最初外国人であったコロンブスが乗組員を募集した時は未知の場所への航海を恐れて人は集まらなかった。王宮の官吏は罪人でも応募すれば自由にすると言う事にして彼の計画を援助した。何人かの季節船乗りはこの案に反対したが結局4人の囚人が受け入れられた。何よりも良かったのは
La Rabidaの修道士達とPalosの経験のある船長Martin Alonso Pinzonが参加してくれ、地方の水夫を強制的に集めてくれた。Pinzon
の2人の兄弟も航海に参加し、皆司令官にした。
コロンブスを含めて約40人がSanta Maria.に乗り込んだ。 Pinta と Nina にはそれぞれ20〜30人が乗り込んだ。歴史上の言い伝えでは乗り込んだ男の正確な数は不明で90〜100人が三艘の船に乗り込んだと推測され87人の名前のみ解っている。
las Casas神父と Fernando は90人と言っているが真実は不明である。多くはスペイン人で大半が
Palos周辺から集まった者達であった。ポルトガル人が一人、ジェノア人がコロンブス以外に一人、ヴェネチア人が一人、カラブリアン人が一人いた。乗組員は大体経験ある水夫であり2〜3人は政府の役人であった。しかし牧師や軍人や入植者はいなかった。これは冒険と発見の航海であった。
船に乗せた生き物については不明で、もし居たら快適ではなかった。乗組員の住む部屋はなくハンモックもなく食事室もなかった。船長と操縦士が小部屋を持ちしかも狭かった。毎晩皆空いた場所に眠り寝ている間に仲間に海に落とされないように体を縛っていた。祈り、歌、物語、船の雑用、食事、待機が水夫の日課であった。新しい未知の空のもとの星が彼らの眠れない夜を照らした。
乗船準備品は次の如くで制限はなかった;道具、ロープ、板、くぎ、くじら油、硫黄、タール、皮、つむぎ糸、蝋、滑車装置、錨、ブイ、旗、銃、火薬、大弓、矢、ヘルメット、盾、剣、ビスケット、豆、エンドウ、ワイン、オリーブオイル、シロップ、水、乾燥した魚、塩ずけの肉、豚、鶏、塩、小麦粉、米、チーズ、イチジク、アーモンド、薬、料理容器、ナイフ、ひしゃく、深い半球状の器、ろうそく、ランプ、はがね、ランタン、薪、長いオール、バケツ、かご、魚釣り針、釣り糸、錘、網、銛、ノートブック、雑誌、海事暦、
はねペン、インク、詰め蝋、海図、紙、コンパス、コンパス針、磁石、30分砂時計、仕切り、定規、太鼓、タンバリン、ガラス球、真鋳のリング、編んだ帽子、金、銀、真珠、こしょう。
2週間の航海が長いこの時代に、船は一度に1年分の 装備をしていた。.
コンパス、天体観測儀、砂(水)時計、地図、海図は最も重要な航海補助具であった。天空に頼る航海は馴染みの星の下で航海している間はよく用いられたが、
船位の算出には知らない海での東西航海には頼りのつなであった。アラブ人は天体観測儀の後ろに星の図面を取り入れて早くから天空に頼る航海をしていた。天体観測儀は使用者が空の中の星を見て自分の位置を知るもので、よく知っている空のもとでは有効であた。儀の反対側に太陽と月の像があり日付を示していた。船位を知るには水平線上に同じ角度で太陽を見るように維持すればよかった。伸ばした腕の指で正午に太陽を指差し、毎日腕と体の角度が同じになる様に航行すれば真東又は真西の方向が保証される。角度の変化、即ち腕を上下すると方向が変化し水平線から離れるか向かうかする。船位の計測には操縦士は1時間又は1日に進んだ距離を、浮が船首から船尾までのわかっている船の長さを進むに要する時間を計測して、算出する。コンパスは磁石の針が北の星を指し地中海、インド洋、東の海域では有効であった。針は北の星を東半球にある時のみ指し示し、世界の中でその位置から針の示す北極は北極星と同じ線上にあった。
しかし東半球の変形が何世紀も前から言われていた。大西洋に出て何週間か後に乗組員は3艘の船のコンパス針が真の北から2〜3度西へずれ始めた事に気付いた。
コロンブスは変化は北極星の不安定さに因るとして皆の不安を払った。天空の他の星同様にこの星も動くと彼は説明した。曇り空や嵐や夜やきつい航海の時はコンパスは良い補助具であった。しかし晴天の時は航海者は道具より裸眼を信用し星や太陽や月の観測をした。コロンブスは船位を取るのに天空観測を好み、天体を計測するのに天体観測儀や他の装置を好まなかった。とりわけ自然の兆候、例えば鳥の行動、空気の匂い、空の色、海の状態、彼の関節に感ずる圧迫感、海面に浮いている物、その他など読むのに巧みであった。上手な航海者は自然を観察する事で生き延びた。コロンブスはこれが上手でハリケーンの予測もできた。
1492年8月2日の夜明けに小艦隊は未知の世界に向けPalosを出航した。乗組員達やとりわけコロンブスがどのような気持ちであったか簡単に創造出来た。41才で
Santa Maria, の船首に立ち水平線の下にすべっていく船から沿岸を見ながら、,
コロンブスは彼の人生の4分の一を費やした苦悩(王家の承認を得る事)を乾いた陸地に置きさった。
彼は今や喜びの絶頂の境地にあり、過去十年間に描いていた夢を実行していた。
Canary Islandsの南を 通過後Nina は儀装品を取り替えて Pinta ははしごを修理し、探検隊は1492年9月6日に既知の世界から出航した。航海は毎日西方に進んだ。
Canaries から出発の選択は巧みであった。 Canary
海流はいわば海の川で、彼らの航海をスピードアップした。9月中頃に乗組員は生き物の兆候を見始めた。鮮やかな色の鳥、ペリカン、海草など。9月25日に陸地が見えたと思ったが雲であった。多くの乗組員は毎日の強風が彼らをスペインに吹き戻すのではと心配し恐れていた。Columbusは時々乗組員とうまく行かない事もあった。そして
Pinzons兄弟、特にコロンブスよりもっと訓練された
Martin Alonso とうまくいかなかったが乗組員が反乱を起こしたことはなかった。更にコロンブスは距離を短くするために偽りの読みを与えて乗組員を欺いたと言う伝説がある。
10月11日の月夜に総艦長は (Columbusは陸を発見して君主との契約の義務を満たした後は総督と呼ばれた
)遠くに明かりを見たように思った。10月12日午前2時Rodrigo de Triana(時にJuan Rodriguez Bermejoと言われる)と言う Pinta の見張りが “ Tierra! Tierra!.”と叫んだ。1年に1万金貨の年金の報償は
(有能な船乗りは年間 12,000 金貨位収入があった)最初に陸地を見つけた者に与えられる事になっていた。無慈悲にも
Columbus が前の晩にいくつかの明かりを見たとの理由でお金を自分のものにした。
1492年10月12日に人類にとって新時代が始まろうとしていた。その時提督とひとにぎりの興奮し疲れていた航海者達は36日の航海の後に上陸した。コロンブスは国王旗をかかげ、2人の船長はミドリ十字で修飾された旗とFerdinand 王と Isabel王妃の手紙をを持っていた。まもなく奇妙な裸の土着民が驚きながら隠れ家から出てきて訪問者に挨拶した。この重大な出会いは比較的目立たない島で行われた。正確な着陸地点に関しては海事関係者や歴史家の間で熱のこもった問題となっている。土着民にGuanahaniと呼ばれていた島は、コロンブスにより王室のために
San Salvadorと改名した ( Savior Jesus Christにちなんで),
しかしだれも今日その島がどこか解らず、 Watling
Island かthe Semana Cayではと言われている。
10以上のBahamasの島が、コロンブスの航海誌に大きく平坦で明るい緑の木々と水が豊富とのみ書かれている島の記述に適合する。
土着民は友好的で水夫との交易にオープンで、何でも交易した。紡いだ綿の玉やオウムや銛と水夫のガラス球、赤い帽子、小さな装身具など双方の価値は同等ではなかった。立派な体と記述されているように土着民は背が高く黒人でも白人でもなく賢く体に絵を書き裸で荒い真っ直ぐな髪で眉は幅広であった。Tainos とスペイン人に呼ばれた土着の人々はコロンブスを、
Canary群島の土着民と思った。 Arawaksと呼ばれた広域言語圏に属したTainos
はスペイン人の剣を恐れず、又、知識もなく武器を調べている間に自分を切りつけたりした。
San Salvadorの土着民の鼻に小さい金のピアスが見られた。彼らはコロンブスに他の島の土着民は腕や足に金のバンドをしていると告げ、そのような島が無数にあると告げた。まもなく全ての土着民が “Indians”と名付けられスペイン人はアジアのインドに到着したと思っていた。
3日目にコロンブスは San Salvador を離れるときガイドとして6〜7人のインディアンを連れ出しバハマの他の3つの島の下検分をした。3ヶ月間小艦隊はヨーロッパ人が記述する事が出来ない程美しいと言った島々を訪れながら
カリブ海をうろうろ航海した。10月の終わりまでにコロンブスはキューバ沿岸に達した。その沿岸を北へそして南へ航海して提督はこれはまぎれもなくMarco Poloが称えた島の一つ、 Cipango(日本)であると確信した。 地方の案内人が島であると教えたにもかかわらず
コロンブスはキューバが支那(中国)大陸の突端であると確信していた。そのうち乏しい財宝に苛立ち、不安に我慢できずMartin
Alonso が11月21日に許可なくPinta で出航し土着民による情報で多くの金があると言う島へ向かった。
一方、コロンブスは風上海峡Windward Passageを横切り、彼が呼ぶ
La Isla Espanol (Hispaniola)と言う島に向かった。1ヶ月間沿岸を航海し時々止まって陸や人々を観察した。コロンブスは彼の船を歓迎してくれた Guacanagari と言う名前のTaino族の若い酋長と仲良くなった。次の会合はクリスマスの日に近くの大きな町の酋長の家で予定された。会合が行われる前に旗艦
Santa Maria, は沿岸のさんご礁に乗り上げ座礁してしまった。次の2〜3日で持ち出すものは全部2つの船の乗組員と
Guacanagariが出してくれたカヌーの原住民達により運び出した。船の材木で砦が作られ1年間の蓄えがあった。そして500年前のヴァイキングの時代以来、新世界でのヨーロッパ人の最初の定住になる39人を砦に残して本国スペインへ帰る事になる。しかし結果的に砦のあった
La Navidad は Newfoundlandに上陸したNorsemanの場合より定住はもっと難しいものであった。.
1月6日に Martin Alonso Pinzon のPintaが探検隊に又合流してきた。そしてその後まもなく2艘の船で本国に帰ることになった。Caribbeanを去る時,
Columbusは Canariesの時もそうであった様にうまい具合に海の潮流に乗った。湾岸流に乗って彼の船は十分北に航海し偏西風に乗った。しかし簡単な航海ではなかった。ヨーロッパに近ずくにつれヨーロッパ史上最悪と言われた恐ろしい嵐に遭遇した。 Pintaが再び探検隊から逸れてしまいNinaより数日前にスペインの北西沿岸のBayon港に到着した。一方コロンブスは、9年前には彼を寄せ付けなかったJohn
II世王に心配されながら、リスボンによろよろになり到着した。王が彼を許さないかもしれない恐れのため、コロンブスは彼の経験報告と国内遺留許可に関して王宮に密かに使いを出した。 3月中旬に彼はスペインに自由に帰る事をゆるされた。1493年3月15日正午、 Nina はPalos港に入港し、同港を出航して32週目の帰還であった。
Martin Alonsoは早くスペインに着いていたが
Palosにはコロンブスの後に着いた。彼は重病で王に報告をする前に死亡してしまった。
Columbus の一人舞台であった。彼の偉大な栄光はBarcelona の王宮で Ferdinand と Isabella の前に現れ一緒に座り食事をもてなされてはっきりした。奇妙な土着民と色とりどりのオウムのパレードとともに航海の物語と豊富な植物や珍しい住民の島に付いて語った。彼は胡椒、金、人食い人種、人魚などを報告し持って帰った金を示し、その一部は王冠や仮面に他は装飾品や塊あるいはごみにされた。
全ての称号と報酬が再確認され、彼は新しい称号”大海の提督”と呼ばれるようになった。彼は1,000 金貨doubloonsを得, 345,000 maravedisに相当した。コロンブスは得意で、スペイン宮廷の約束を果たした。しかしポルトガル人はイベリア半島の対岸に疑いもなく彼がアジアを発見したと思った。
時が流れるにつれコロンブスは自分の旅と発見を誇りに思い、王家に出来るだけ早く次の探検の準備をするよう急がせた。彼は金や胡椒や財宝を約束し土着民をキリスト教に改宗させる事を約束し、二回目の航海にスペイン王室を同意させるのに今回は苦労はなかった。
ポルトガルの苦情を防ぐためにコロンブスは法王Alexander
VI世 に彼がスペインに着くやいなやできるだけ詳しくしく彼の発見に付いて説明する手紙を書いた。ローマ教皇の大勅書 (又はInter coeteraと題する命令) が1493年5月に発布されコロンブスがスペインの王室のために発見した全ての島のスペイン支配を認めている。コロンブスの急ぎの催促により、境界線がCape
Verde Islandsの西100leagues の海に引かれ、この線より西の全ての未発見のキリスト教主国に属さない陸地はスペインに属し、線より東はポルトガルに属すとした。これは直ちに紛争が持ち上がった。なぜなら1481年に
Canaries群島の南と西の全ての島はポルトガル領とされていたので。
解決は次の年1494年でスペインとポルトガルの王家がTordesillas条約を交わし、境界線は
Cape Verde Islandsの西370leaguesに移動した。
第二次航海 (1493-96):
1493年9月25日 Cadiz港を出発した第二次航海は大規模な物になった。
コロンブスは17の艦船と1200人の植民者を連れていた。その使命はヒスパニオラの
La Navidadに帰って 最初の航海で残してきた男達を救出しその島に更に植民者を移住させ、発見したほかの島々も征服する事であった。今回はコロンブスはインディアンにキリスト教を布教する使命もあった。 他の国が探検者のためにしたように出航を早める為に王家はコロンブスが望む物は何でも与えた。荷物には馬、牛、ロバ、羊、やぎ、豚、犬、ねこ、にわとり、穀物、種、航海や戦闘や建設や海外事務所の開設に必要なもの全てが含まれていた。
艦隊は Cadizを出航した。そして以前の様に
Canariesに泊まり修理をし肉や木材、水を供給した。
Canary 群島の Hierroを放れて,艦隊は以前よりもっと南のコースをとり21日後の11月2日に陸地を発見した。小さい群島 ( Lesser Antillesとして知られる)はキューバとヒスパニオラ島
( Greater Antillesの一部)の南東にあった。信じられない程豊かな熱帯樹や希な景色、筆舌しがたい植物と動物の美しい島々の発見と命名に2週間を費やした後、
艦隊は Guadalupe島に上陸した。ここでスペイン人は近くの島に戦争を仕掛け捕虜を食べた
Carib (or Caniba) Indiansの残忍な行為にショックを受けた。新世界での土着民との最初の戦いは
St. Croix島のこれらの人食い人種“Cannibals”との小競り合いであった。数人の歴史家は人食いの習慣が水夫の記述のように存在したか疑わしい事を述べている。にもかかわらず、スペイン探検隊は信じて、後のスペイン植民地史では人食いとしている。
ヒスパニオラ島への途中で美しい島 Puerto Rico島を発見して、 Columbus は自分と移植民達とのもめごとの心配を考え始めた。航海者達は船から降り、金を探して植民を始めたかった。11月の終わりにHispaniolaに到達しスペイン人は到着を示す大砲を打ったが誰も迎えてくれなかった。旗をふるものはおらず何も反応がなかった。恐ろしい徴候である。恐ろしいことに彼らは
La Navidad の者は皆殺しにされ焼き払われた事を知った。残した仲間の行方を捜した所、スペイン人が葬られた大量の墓を見つけた。彼らは又、コロンブスの良き友であった
Guacanagari酋長の村を焼き払い破壊しているのも確認した。誰も
La Navidadで何があったのか解らなかった。しかし一般的には土着民が移住者の執拗などん欲さに腹を立て住居を破壊したとされている。
新都市Isabellaが La Navidadの少し東に造られた。肉体労働をさせられ定住者は乗り気でなかった。多くは病気で他の者は定住地の建設より金や財宝を探す事に興味を持っていた。
Columbusは La Navidadの崩壊について王家に報告するのを躊躇し、金を探すため奥地に探検することを決めた。大量に金がない事を知り Columbus
は土着民強制労働策をとった。土着民の奴隷化はこの探検の目的の1つでもあり、女王に対しては反逆行為であった。しかしColumbusは儲けそうな土地でのIndianの奴隷化は正当なものと思っていた。
1496年にスペインに帰る前にColumbusはキューバを更に探検しジャマイカを発見した。
Cuba への途中で小さい島をたくさん発見し、彼はまとめて
Queen's Gardenと呼んだ。提督はキューバがアジア大陸に属しモンゴルのジンギスカン帝国の一部である事を確認したかった。彼は島を一周しなかったが、乗組員達にこの陸地はアジアの突出した所とする正式の宣言を受け入れる様強要した。
スペイン人とヒスパニオラの土着民との関係は悪化し始めた。コロンブスが他の島を探検に出かけている間に食料を探す代わりに、残った男達は財宝を探すために土着民の村を襲った。貧困と不幸以外の希望もなく不機嫌な定住者は帰国を希望し始めた。多くは病気で、たくさん死亡し、又チャンスを得ず不幸であった。その上誰も作物を植える様な仕事は望まなかった。コロンブスは弟 Diego を La Isabella の知事として残し定住者との問題処理にあてた。Diego
は管理能力なく、移住者達は彼のやり方に不平を言い、その上彼がイタリア人である事に不満があった。定住者の幾人かはスペインの家族や官吏に状態の悪さや統率力のなさについて手紙を書き始めた。1495年の10月に
スペインの官吏が王宮の使命で Viceroy(副王)
Columbus と不満な定住者の告発の調査にやってきた。
1496年3月10日に Columbus は定住者の不満に対する王室の質問に機先を制する為に帰国しなければならなくなった。その年の始め頃
Columbusはヒスパニオラ島で本当の財宝を見つけ、土着民に金を集めるよう強要した。2〜3日中に彼らは貴重な金を約
10 kg集めてきた。我々は彼自身の書簡からコロンブスは
Caribbeanの美しさに魅せられ、金を探すために来たのではないという事を知っている。信じがたい単純な気持ちで提督は財宝とアジアへの道、そして Marco Poloが到達した陸地を探し、ヒスパニオラが日本でキューバが中国の一部であって欲しかったのである。 実際はだれも自分たちが世界のどこにいるか知らなかった。西半球と世界の残りとの関係は1519〜22年にかけての
Magellan-El Canoの3年間かけての世界一周まで解らなかった。王家は彼の帰還に好意的であったし興味を持って可能性の大きい新大陸の発見の話を聞いた。彼らは謝意を示し彼に援助を続けようとしたが3回目の航海は1年以上待たせた。
3回目の航海 1498-1500
悪事の嫌疑から晴れ、王室の信任も得てコロンブスは1498年5月30日6艘の艦隊で Sevilleを出航した。探検とは別に一部は Hispaniolaへの定住者援助に向かったが、コロンブスとその一行者達は以前よりさらに南を航海した。Cape
Verde 群島を離れて新しい陸地を求め南西に赤道に向かい航海した。彼の目的は Tordesillas協定で引かれた境界線の位置の確認もあり、カリブより南に陸地があると言う噂を信じていたのかもしれない。とにかく彼は金と他の宝石類を探し続けた。
Columbus の今航海は不運にも無風帯に入り込み、風も潮の流れもなく暑さのみ耐えがたいものであった。約1週間後、西に向かう南東風に救われた。北に方向を変えて南アメリカ発見を逃したが彼は3峰の山の島を発見した。コロンブスはそこを
Trinidadと名付けた。ここから Paria 湾に入り込みTierra
de Graciaと彼が名付けた南アメリカ沿岸を航海した。海に流れ込む大量の水を見て、提督はでかい陸地を発見したと信じていた。
Orinoco 河は乗組員が見た川のうちでは最も大きいものであった。コロンブスは 現世の楽園(Terrestrial
Paradise)が近いと思った。と言うのも大きな川は全部エデンの園から流れるとされていたからである。 コロンブスはこの島が Marco Polo!
の伝説の島以外である事をどこまで判っていたであろうか。彼が書いた報告の中で、陛下はもうひとつの世界にあるこの島を手に入れるでしょうと書いている。アジア以外のどこかにいると言う考えはなく、いままで知られなかった大変大きな大陸であると思うと報告している。
数週間の Trinidadや Pariaや Margarita 島の探検の後, Columbus は弟の Bartolomeo が新都市を作る命令を受け着任していたヒスパニオラに向かった。彼の目的はスペイン人が金鉱を見つけた所の近くに
Santo Domingo港を造ることであった。しかし1498年8月下旬に
着いた時、そこは仕事の町ではなくいなかの戦場になった。2派に分かれて一方はコロンブス一家に忠誠を誓う者たちと、2回目の航海の後スペインに帰る前に市長に任命された
Francisco Roldanに率いられた反逆者達の一派の争いであった。反逆者達を押さえ込み秩序を取り戻すのに2年かかった。抵抗を終わらすために副王
Viceroy(コロンブス)は反逆者達の要求に答えてそれぞれに土地とそこに住むインディアンを与えた。しかし彼は航海者ではあったが管理者ではなかった。
コロンブスは問題は植民地化の目的に対する移植民と知事との間の見解の相違によるものが主であると思った。理想主義者で夢多いコロンブスは財宝は、喜んで働き植民地建設をする者に与えられるべきと思っていた。反対に植民者は、多くはコロンブスになまけものと呼ばれていたが、すぐに財宝を欲しがった。探し当てた金の多くは王家の金庫には入らず見つけた者のポケットに入った。コロンブスの永続する植民地建設の計画はそこに長く住もうと思わない定住者には無縁の事であった。彼の書物からはっきりしている事はポルトガルがアフリカに作ったEl
Minaの様にその地の人々と貿易と商業を行う拠点や施設を植民地に作ろうと長期計画していた。植民者は土着民を労働力にのみ利用し、既に奴隷にされたインディアンの扱いに関し、彼の記述は少ないが少なくともコロンブスも王家と同じ考えで土着民は心身ともに奴隷にすべきと思っていた。宗教伝道が初めからコロンブスの主な目的のひとつであり、王家にとってインディアンの改宗は最高のことであった。法王
Alexander VI は1496年に新世界に対するスペイン王家の法的請願と土着民の改宗とに関する大勅書を出した。
一方状態は悪化の一途をたどった。島に平和をもたらす能力がない事に苦悩し、コロンブスは絶えがたい状態を取りまとめることのできる教養ある判事を送る様に王家に要請している。実際に王家は
Fransisco de Bobadillaを判事として送ってきた。到着後まもなく、Bobadilla
は自分を島々とインド洋の大陸の知事に任命しColumbus家と記録物を接収しColumbusとその兄弟を見つけ次第逮捕するよう命令を出した。コロンブス等は鎖に繋がれてスペインに送られ、
Columbus は王家のお墨付きの開放命令が出るまで鎖を取り除くことを拒否している。1500年の11月にCadizに着いた。提督の窮状を聞いた王家は直ちに鎖を取り除くよう命令し彼と兄弟は自由になった。コロンブスは受けた苦しみに対し
2,000 ducats ( 10,000 ドルに相当する) の慰謝料を受けた。1500 年2月17日にColumbus は王宮に出向き、王と女王に今回の逮捕で彼が失ったすべての物を復旧する様命令を出させた。しかし王家はコロンブスの称号の復帰はしなかった。代わりに
Bobadilla を解任し Don Nicolas de Ovandoを任命した。これはコロンブスにとって勝利ではなかった。称号を取り消されて、コロンブスは2年間は失意と侮辱のなかで過ごし、Book of Prophecies(予言書) を書き彼が神自身により選ばれておりキリスト教を地球の最後まで守ることを示したかった様である。
一方、カリブ海や大西洋やインド洋での人々の探検熱は持続していた。探検船は南ははるか
Rio de la Plata まで、又北は北アメリカの北岸に沿いはるか北まで達していた。ポルトガルの航海士
Vasco da Gamaはインド洋を渡りインドへの航海の成功から帰ってきた
(1497-99)。Gamaが発見した島々は Marco Poloの発見した世界の一部と Columbusは信じきっていたが、他の航海士達は昔の学者にも知られていなかった世界として理解していた。どうであれコロンブスが言う他の世界の殖民地活動は命がけで活発で
、コロンブスも止めそうになかった。
スペイン人には悪いニュースだが、ポルトガルの航海士は極東地域との直接貿易路を見つけ、イスラム世界を出し抜く中世の夢を満たした。ポルトガルの成功は偉大な航海士に新たな機会をうみ、王家は再び支那大陸への海峡を見つけるコロンブスの計画を受け入れた。彼は年金と動産(お城さえ)で引退するより
もう一度4回目の航海を希望した。王と王妃は今回はやっかいなコロンブスのお荷物を送り出すために、もう一回の探検に喜んで同意した。
意気盛んな航海 The “High Voyage” (1502-04):
4回目の航海に 10,000 ducatsを用意し、王と王妃はコロンブスが金銀、宝石、調味料や他の財宝を探してくる事を約束させた。しかしとりわけ植民地の状態が悪化している恐れから
、彼らはコロンブスにスペインに帰る途中で必要がなければ
Hispaniolaに寄る事を禁じた。4艘と150人のコロンブスの艦隊はインドに向けて Cadizを1502年5月9日に出航した。これは彼が法王に書いた手紙より解っているが、三位一体の神の名のもとの再航海であった。14歳の息子
Fernandoと弟の Bartolomeo も伴い4回目で最後の航海であった。病弱で視力も低下したコロンブスは艦長にならなかったがコロンブスに忠誠を誓う水夫は提督に仕えることを喜んでいた。わずか20日で最速の大西洋横断で快適であったが、ジャマイカの海岸で艦隊は全滅している。
木材と水のために Gran Canaryに寄り,5月25日に横断航海が始まった。最初の寄港は
カリブ海の島 Martinique で、食料を詰め込み衣服を洗った。Dominica, Santa Cruz , San Juan,と航海し Columbus はヒスパニオラに向かい6月29日に
Santa Domingoに停泊した。植民地にはっきりと入ることを禁じられていたがコロンブスは必要と思った。まず1艘が修理不能になりもう1艘の船を買おうとした。それよりもコロンブスはハリケーンがくるのを恐れた。入港許可を求める知事 Ovandoへの手紙のなかでコロンブスは彼にスペインに向かう船は出港させない方が良いことを勧めた。
Ovandoはコロンブスの艦隊の入港を拒否し提督の提言を無視した。コロンブスは近くの港に避難し助かったが
Ovando の出航許可を得た28艘は、嵐に会い4艘のみ助かったが、500人以上が死亡した。コロンブスは神の裁きが降りたと思った。
彼が嫌ったBobadilla や Roldanの2人を含め多くが死亡したが、財宝の提督分を運んだ船は
Castile城へなんとか辿り着いた。
嵐の後に, Columbusは南西に出航しCubaを過ぎて中央アメリカに到達した。苦難の航海条件と沿岸に沿う予期せぬ嵐で船とコロンブスは損害を蒙った。提督はリューマチ、熱、視力低下で多くの時間をベッドで過ごした。Malacca海峡発見に失敗したがインディアンから金を得て彼のいうVeragua (Panama)を去らなくてはならなくなった。インディアンとの小競り合いやすごい嵐や船の破損でヒスパニオラに向かわざるを得なくなった。1502年の12月であった。海峡の沿岸で1艘失い、もう1艘は海虫 (小さい貝類
mollusks)にやられて, 130人は残りのおんぼろ船に群がり乗った。そのような状態でのヒスパニオラへの到着はあまりに遠く、代わりに北に向かい2回目の航海で見つけたジャマイカに向かったが、船はあまりにひどくて座礁しインディアンから身を守ることのみの役目しかなかった。コロンブスは乗組員と孤立したまま1年以上ここに滞在した。半分の乗組員はコロンブスの統治にたいし反乱を起こしたが、もっとやっかいな問題があった。スペイン人との交際がいやになり、インディアンは食料供給を止めてしまった。これに反応しコロンブスは巧い策略を用いた。暦を持って彼は土着民を前にし、直ちに月から何者かが連れ去りに来ると脅した。1504年2月29日の夜、月が消え始め(月食)た時インディアンは怖くなりスペイン人との貿易を再開した。しかしヨーロッパ人は島に閉じ込められたままであった。
Diego Mendez de Salcedoと言う勇敢な水夫が、ほとんど不可能な賭けであったが、カヌーで海峡を渡りヒスパニオラへ行く事になった。島は100マイル以上あり
Santo Domingo(知事 Ovandoが居る) には 300マイルもあった。5日間で
Mendez ともう一人が2艘のカヌーを土着民とパドルでこいでヒスパニオラへ着いた。 Ovandoに会ってから男達は調査の船が送られるのに7ヶ月待った。救援の船が着いたのは7月の終わりであった。それから難破船の水夫達が Santo Domingoに着いたのは8月13日になった。市では歓迎されず、1504年9月12日、コロンブスは人の船で客として大西洋を渡る最後の航海につき、1504年11月7日に彼と息子と彼の兄弟はスペインに到着した。
最後の日々
提督がスペインに帰る頃は, 王妃 Isabella ( Castile)は重病になりまもなく1504年11月26日に死亡した。リューマチで弱り、金もなくまずい食事でコロンブスは最後の航海から重病で帰り、セヴィリアの
Las Cuevas修道院で健康の回復を計りながら数ヶ月を過ごした。1年半後に彼が死ぬ前に
Columbusは失った知事と副王の地位の回復に努めた。彼は王に誓願する手紙を書いたり他人を仲介に雇ったり、時にはFerdinand
王に会うためにスペインのあちこちに王の後を追った。1505年5月に王
Ferdinand はとうとうコロンブスに会うことを決め、そこで発見者は称号とインドからの財宝に関する苦情を述べる事をゆるされた。彼の称号は復帰しなかったが王は彼の経済面での苦情に仲裁を認めた。最後に提督の分は王家分の50分の1と定められた。結果はこれは西インドからの財宝の2%に当たり、かなりな物で、コロンブス家にとってスペインの最も裕福な貴族に匹敵する物であった。Ferdinand王は最後に土地とその収益を提供したがコロンブスは固く拒否した。彼の健康が良くないことを考えると、収益や権利に関するものは自分のためでなく息子の
Diego と Ferdinandの為であった。コロンブス家の王家との約束に対するもがきは提督の死後も続いた。1508年
Ferdinand 王は DiegoをHispaniolaの知事に任命した。
1505年の終わり頃, Columbus は痛風が相当悪くなりもはや旅行は悲観的でValladolid市に死ぬまで住んでいた。1506年5月20日、2人の息子、兄弟の
Bartolomeo と親友のDiego Mendezは、提督が”神の手のなかに私の魂を委ねます”とつぶやき息を引き取った時、傍に居た。彼の遺体は最初は Valladolidに埋められ, 1509年に遺体を息子のDiegoが Sevilleの Las Cuevas修道院に移動させた。未だに大論争となっている事はコロンブスの遺体は今日どこにあるのかと言うことである。彼の遺体は16世紀の中頃、新世界で最初のSanto Domingo,次いでHavana(1795年)に移動して、1899年にスペインに戻り, Sevilleの教会に埋葬されたと言われている。
何と言っても最大の不公正は偉大な航海者で大海の提督で知事で副王の発見した新しい陸地に対して彼の名前が付かなかった事である。フローレンス市から与えらたイタリア仲間のAmerigo Vespucciへの名誉はある人に言わせるとルネッサンスの心と魂とさえ見なされている。Sevilleのメディチ家の使いとして
Amerigoは発見の興奮に取り付かれて、2回西インド諸島に行っており、最初はここを旧世界の一部と考えていた。ブラジルや北部南アメリカ沿岸やいくつかの島々訪問の広範な航海の後
Vespucci はコロンブスとは異なった結論に達した。Amerigo
Vespucciはこれは新世界であり、昔は知られていなかった所であるとした。
Amerigoの手紙は広く出回りヨーロッパ人が西の島々を知るようになったのは彼の書物からであった。1507年に地図製作者達が地図の新版を作っていて,
“America”と言う言葉が新しく発見された陸地にまたがり記載された。彼らが間違いに気付いた頃は訂正するに遅すぎた。
コロンブスの遺産 The Columbian Legacy:
Christopher Columbusの歴史的重要性を過大視してもし過ぎる事はない。コロンブスの遺産に対する究極の表現はその衝撃性において地球規模と言う他ない。その後の交流、すなわち動植物や病気や人の移動、そして文化の交換、について多くのことが書かれているが.
歴史を学ぶ学生は新世界発見が知的な衝撃を同時に与えた事を忘れてはならない。大発見の時代に
(15と16 世紀), 西ヨーロッパ人は世界のほとんどすべての部分と情報を交換する能力を得た。その時代の知恵者で道を開いたコロンブスは知識の変革が行われる事を認識している。結果的に新時代を近代的時代の先導にし1500年以降は世界は同じでなく、又、人の生活も異なっている事を示した。 Spice Islandsや極東の財宝に対するイスラム独占を避けていく道を探して,
Columbusや他の中世の冒険家達は地球が宇宙の中心であると思われていた世界から遠く離れ航海したのである。この
geocentric(天動説) 理論は西洋キリスト教圏では妥協の余地はない物であった。人が宇宙の中心である時に、家としての地球がまさに中心であらねばならない事は筋道が通っているのだろうか?
中世に於いて固定した太陽の回りを天文学的スピードで毎日自転しながら回っている3等惑星に人が住んでいると言う考えは全く受け入れられなかった。しかし1530年に事は変わり始めた。ポーランドの天文学者Nicholas Copernicus が De Revolutionibus Orbium Coelestium (天体系の改革On the Revolutions of the Celestial
Spheres)を出版し知れ渡っていた geocentric観に挑戦した。heliocentric(地動説)理論を推し進めて Copernicus は地球やすべての他の惑星が太陽の周りを回っていると言う理論で他の多くの偉大な思考家に影響を与えた。次の世紀に入るとイタリアの天文学者Galileo Galilei (1564-1642)が望遠鏡を使った観測で Copernican 理論を著しく発展させた。しかし1633年にローマの宗教裁判所は
Galileoを異端者と非難した。次の思想家はドイツ人のJohannes Kepler (1571-1630)であった。彼もコペルニクスの理論を受け入れたが.惑星の軌道は円ではなく楕円であると更に導き出した。
これを今日と比較してみよう。この科学的革新の受益者として今の世界中の子供達は、最も学識があった古代の、中世の、また初期のルネッサンス期の学者より宇宙に関して正確な知識を持っているのである。新しい情報が今日どのように扱われているか考えてみよう。暴露から数分以内で新情報はインターネットやテレビやラジオなどの情報
super highwayに入る。 ほとんど瞬時にそれはコンピューターのモニターやテレビセットがある我々の家や事務所やあらゆる他の場所に入る。ちょっと1994年7月の宇宙からのすばらしいショウを思い起こしてみよう。科学者達と同時に世界中の何億と言う人が畏敬の念をもって彗星の
P/Shoemaker-Levy 9が木星表面ににぶつかるのを見た。この一生に一度の経験はそれ自体すばらしいものであったが、もっと驚いたことはこの新情報が科学の世界に達したと同時に地球規模の知識で茶の間に入ってきた事である。
上記の様な現象と対比して中世では新しい、無検閲の生の情報を伝える方法がなかった。公的な学校の制度や新聞や雑誌、テレビ衛星局などがない分離したヨーロッパでは新情報が知識の基礎として入ってくる手段がなかった。中世後期では学ぶ所とすべての出版を支配して、教会と他の社会で選ばれた者達が権力に留まり現状status quoを脅かす新しい考えに抵抗した。1500年頃までに新しい階級の人々が出てきた。大志ある王家と結託したブルジョアが巧く古い封建制度に挑戦してきた。中世商業で儲けたブルジョアは大発見時代を夢中で抱え込んだ。これは1453年 Byzantine 都市 Constantinople がイスラムTurksに陥落して以降は顕著で あった。初めて北イタリアの商人が中東の商売圏から締め出されたことを知った。失われた商圏を取り戻す希望はイスラムが支配した陸地を回避して回る新しい貿易の道を探すことであった。
偉大な思想家だけが世界の伝統的な見方に疑問を持った者ではなかった。何十年も航海者と無学の海の男達は昔の権威者の多くの結論を疑っていた。新大陸や海から船が港に帰った時、新しい世界の映像が現れ語られ始めた。厳しい経験による立証を基本に理論や記述や伝統や評論などではなく、これらの水夫は地球上には陸地よりもっと多くの水域があり、地球はこれまでに考えられていたより大きい事を学んだ。地球が球体である事はすでに知れ渡っていた。
過去に他の発見の時代があったが、15と16世紀はヨーロッパにかって以上に深い衝撃を与えた。やっとそれより50年前に動くタイプの印刷機がヨーロッパ中に使用され始めていた。この新しい発明は大量の早い情報の拡散をもたらしたが、しばしば教育制度の欠如がキリスト教ヨーロッパに新情報をみんなが享受する事を妨げていた。
16世紀の中頃になり読み書きの能力がないヨーロッパ人にとって世界中から来る全てのニュースや情報を吸収する事は難しい事であった。知識の基本が同化できないほどの迅速さで新情報は伝わった。
更に刺激的で感情的な頃の交流の最初の印象がヨーロッパ人の心の奥深く焼きつき後のもっと正確な情報が古い物を抹消できなかった。今日の言葉で言うと基本のシステムが情報でいっぱいであった。
新世界を探す事は大発見時代の動機のひとつではなく、古い世界の商業圏を新たなルートで見つけ回復する事であった。そこでショックであった事は偶然に今まで知られていなかった世界にぶつかった事であった。それよりも何百万と言う人を見つけた事は更に大きなショックであった。ヨーロッパ人が会った最初の土着民は偶然にも世界でも原始的な社会に属していた。世界の全ての人は Noahの子供からの子孫であると言われていたのでこれらの土着民は人間以下と見なされた。事実
法王Paul II世下のVatican が土着民も魂を持つ理性的な存在であると 教皇回勅Papal Encyclical positingを発行したのは45年後であった。 1537年の声明ではインディアンは大洪水の時山頂から落ちて木の枝に捕まり新世界へ流れ着いた罪のあるBabyloniansの末裔であると説明している。
最初の接触から1世紀以上たちスペイン人はもっと文明化したterra firma土着民、例えばマヤやアズテカやインカなどに遭遇した時、人食いと言う初期のイメージが依然として存在していた。ヨーロッパ人は真の土着民社会を理解できなかったし多分原始社会を見たくもなかったのだろう。ヨーロッパ人の植民者は土着民の固有文化を無視しインディアンは労働力とのみ見なしていた。かくして固有の文化や土着民の人口は侵入者が奥深く入るにつれて消滅していった。いつも皆殺し事件のひとつとして記述されたものの中には病気や征服や侵略に関係した活動が何百万と言う土着民を殺害している。今日、我々は人々や文化の損失の深刻さを痛感している。