自閉症児への関わり方!



  • 自閉症児への関わり方!






      
    
    
      自閉症児への関わり方
    
     自閉症との出会い
    
      昭和63年5月7日、2女が誕生した。出産予定日が4月中旬といわれていたのに、
     3週間近く遅れていたにもかかわらず、体重は2800グラムと標準よりやや小さめの 
     子どもであった。その3年前に長女がやはりそれくらいの体重で生まれていたので、
     予定日の数え間違いぐらいだろうとしか思わなかった。
     長女に比べて、あまり泣かない手のかからない子どもであったため、
     それに熱を出したりすることもなく、いたって丈夫な子どもであったので、
     育てやすい子どもであるというのが、1歳ぐらいまでの印象であった。
     1歳の誕生日を迎える前に歩き始め、長女が1歳3ヶ月頃に歩き始めたのに比べると、 
     成長が早いと思ったぐらいだ。そのころ、「まんま」という言葉もでており、
     何ら心配することもなかった。長女がそのころ、マンガの「どらえもん」をみることが
     好きであったので、ビデオを見せることが多く、その場に2女も一緒にいた。
     1歳から2歳の誕生日を迎えるまでは、「どらえもん」を見せていれば
     機嫌がよかったので、2女に対してはあまり注意を向けることなく過ぎていった。
     キャサリン・モーリス著「わが子よ、声を聞かせて」を読めば、この時期に2女の中
     で自閉症状が進んでいたことが明らかなのだが、手がかからないことを幸いに見逃し
     ていたように思う。
      
      2歳になっても言葉が増えず、逆に出ていた「まんま」と言った言葉も、あまり聞
     かれなくなったことに気づいた。そして、この頃から、睡眠が不安定になり始めてた。 
     夜中の1時・2時を過ぎても寝ず、遅く寝たにもかかわらず、朝の5時前には起
     きているといった日が何日も続いた。昼寝もあまりせず、大人でも7〜8時間は睡眠
     をとっているのに、2歳児が合計でも6時間しか寝ていないことが多かった。
     それに、よく寝ていた日でも、10時間も寝ればいい方で、5歳の長女が、
     12〜3時間は寝ているのに比べると異常であった。よく、寝る子は育つと言われが、
     あまり寝ない子どもであった。
       しかし、そのうちよくなるだろうという楽観があり、保健所の検診でも個人差があ
     るのではっきりしたことは言われなかった。3歳になっても言葉が出なかったら、
     何らかの手を打たねばならないと思っていた。3歳児検診の時に、市立加西病院の精神
     科を紹介された。そのときに、自閉的傾向があると言われたが、はっきりしたもので
     はなかった。とにかく母子関係を作っていくことが大切であると言われた。
      週に一度、遊戯室で遊んでもらって、後で様子がどうだったとか、
     困っていることなど聞いてもらったりして、母親へのカウンセリング的要素が強かった。
     そんな中で、保育園に入園させた方がいいかどうか相談した。
     長女が3歳4ヶ月で入園していたので、2女も入園して友達と一緒に遊ぶほうが伸び、
     その中で言葉も出るのではないかと考えた。
      今思えば、遊びを通して自然に学んでいくことをこちらが教えるには、いかに難
     しいかということがわかるが、この当時は、そんなことは教えなくても、環境の中で
     自然に身に付くものだと思っていた。保育園の入園というと簡単なことのように思うが、
     言葉のない、排泄の自立もできていない子どもを同年齢の集団に入れるには、
     受け入れ側の体制を整えてもらうことが必要であると思った。そのためには、
     児童相談所の判定を受けねばならない。気持ちは複雑であったが、
     保育園に入園するにはその方がよいと言うことで、判定を受けた。
       判定に備えて、家でパズルをさせたり、絵本を見せたりもした。これはその前から
     もしていたが、こちらの思うとおりにはなかなかできなかった。絵本をみるのはパラ
     パラとめくって、その風の感触を楽しむとか、縦横に規則正しく十数冊並べて、
     近くからピョンピョン飛び跳ねてみて喜ぶとかしなかった。その絵本を今では、
     特に「ヘレン・ケラー」のを持ってきて、寝る前に読んでくれと要求したりしているが・・
     ・。判定を受けて、障害児の烙印を押されるのを排除しようとした。
     自分で取り組ませながら、判定を受けて障害児でないとの言葉がほしかった。
     判定には、妻が同行した。一回きりの判定でわかるのかということと、
     それで決められてしまうことの恐ろしさを思いながら、判定の結果は、B(1)であった。 
     重度のAではなく、中度のB(1)であるというということで、なにかしらほっとしたもの 
     があった。障害児の親というショックもあったが、ランク付けで逃げ込んでいる自分があっ
     た。
       その結果、中度の障害ということで、2女は3歳11ヶ月であったが、1歳児のクラスに
     入園することになった。そして、加配の保母さんが一人ついてくれることになった。
     保育園に行くようになってからも、様子は変わらなかった。そして、園にいくのに、
     とても嫌がった。そのころ、園でも家でもそうだが、探索行動が始まり多動的になった。
     一瞬でも目を離すといなくなり、どこへ行くかわからぬような状態が続いた。
     2女が寝ている時間しか安心できるときがなかった。知育玩具と呼ばれるおもちゃを
     2週間に一回の割で買って与えたが、ほとんど効果をもたらさなかった。
     遊園地や動物園といったところへも連れていったが、ほとんど興味を示さず、
     こちらが疲れるだけで終わってしまった。とにかく水が好きで、一日に何回もお風呂に
     入って遊んだり、外へ連れていっても水があるところに飛び込んだりした。
     これも、今から考えればわかるのだが、4歳から5歳にかけてのこの時期に、
     2女の自閉傾向が進行したように思う。人とのつきあいかたが苦手な子どもに、
     その子の心理面を考えて接するよりも、こちらが何かしてかかわってやることで、
     あがいていたような日々だった。
      河合隼雄の「こころの処方箋」という本の中に、「何の努力もしないでただそこ
     にいるということが恐ろしいばかりに、努力の中に逃げ込んでいるのではないかと、
     感じられるのである」という一節があるが、まさにそんな気持ちであった。自分でも
     はっきりしたことはわからないが、何かをしなければおられない。そんな感じであった。
      保育園には3年間お世話になった。
      2女は卒業前の1ヶ月間だけ、同年齢の子どもたちと一緒に過ごした。卒業式に迷
     惑をかけるかもしれないが、4月からは小学1年生になるのだから、その同じ子ども
     たちと一緒に卒業させてやってほしいと園に申し入れた。卒業年に当たっていた4月
     の時点で申し入れてもよかったのだが、かつて2年間同じクラスにいた3歳児の子ど
     もたちとのつながりもできており、決断できなかった。
     園での3年間は、家族や保母さんの努力もむなしく、2女の自閉の進行を止めることが
     できず、卒業前に受けた2回目の判定では、Aの重度になっていた。
     このときも判定の方法に疑問はあったが、あれほどいろんなことをやったのに、
     悪くなっていることが受け入れれなかった。こんなようなことから、
     自分自身今までの行き当たりばったりのやり方を見直すようになった。
     前置きが長くなったが、いかに回り道をしながら、自分が一つの見通しをも
     てるようになったかの足跡をたどらずにはおられない気持ちがあった。2女との出会い、
     そのことによって、自分の人生観そのものも大きく変わった。
    
      認知・障害説との出会い
    
       2女が自閉症であると知ってから、自分なりに自閉症のことを勉強した。そのとき、
     自分の中に受け入れれた考えは、認知・障害説であった。カナーの「冷たい親が
     原因で生じたひきこもりが自閉症の障害の中心」という心因論は、とても受け入れれ
     るものでなく、脳の器質障害から起こる認知・障害説が、納得のできる考え方だった。
     なぜなら、娘は言葉を一言も発していなく、いくら模倣させようと思ってもでき
     なかったからだ。そのため、この子はバカな子であると思った。脳に障害があるのなら、
     仕方がないとあきらめることで、こちらの側に責任はないと思いこむことができた。
      今思えば、子どもに対してバカな子であるという考えを持つことが、ますますその子を
     ひきこもらせることになったと思うが、親としては認知・障害説を採る方が、
     そんなに思い悩まなくてすんだことは確かなことだ。そのとき、石井聖の「自閉を活
     かす」・「自閉を越えて」の本をよりどころにした。
     自閉症児の持ついろんなアンバランスな行動をわかりやすく説明してあり、
     「自閉症児のつま先歩きや、ピョンピョン跳びは足蹴り反射の組み替えそこね」といった
     考えは、十分納得のいくものであった。そして、子どもを指導していくには、
     感応現象を利用することにより、良いパターンにはめていくことが大切であり、
     パターンにはめていくことを考えて、プログラムを組んだりした。保育園から帰ってくる 
     と、靴を脱ぎ、手を洗うとお菓子がもらえるといった形で取り組んだ。
     次には、お菓子をもらうときにカードを取り、「ちょうだい」のサインを出すことなどを
     増やしていった。少しずつではあるが、子どもの中に確実に行動できることが多くなった
     が、パニックがみられることもあり、そんなときは、「叩きタイミング法」を取り入れた。
     子どもをたたくわけで、タイミングを見計らってたたかないと逆効果になると書いてあった
     が、即効性はあった。しかし、長くは持続しなかった。しばらくすると、
     またパニックが起こり、根本的には解決していかないように思えた。
     そうこうしているうち、2女の情緒不安が高まり、目を離すと屋根の上にあがって
     遊んだり、うんこを手で触ったり、風呂の中でうんこをしたり、服をかんだりすることが
     増えていった。険しい顔で、こちらをみることも多く、車に乗せて遠出をしているとき以外
     は、いい表情をしていることがなかった。常にイライラしている。
     何かそんな表情で落ち着きがなく、目線も一秒たりともあわなかった。
     知識や技術を教えることで、何か大切なことがなおざりにされている。そんな感じを
     持つにいたったが、それは本のせいで、2女の障害を治してくれるものでないと思った。
     今思えば、それは自分が2女をバカな子であると思っていたことからきている、
     子どもの側からの拒否であることがわかるが、当時は本のせいにして自分のせいにはしな
     かった。人との関係を作るのに苦手な子どもに対して、相手が受け入れてくれる考えがな
     く、尊厳を大切にして関わってくれないなら、心を開こうとしないのは当たり前のことで
     あるが、そんな当たり前のことすら気がつかなかった。
      障害児の中の「障害」にとらわれて、「こども」を見ないでいた。
     片倉信夫・英子の「自閉を砕く」という本の中に、「自閉症児の精神活動として、
     満足な設計図がない上に、釘はあっても、ハンマーがなく、ノコギリはあるのに板不足、
     という状態で家を建築するようなものである」という一節があるが、
     この足りない分を補完するということに注意を払って注いでいたら良かったのに、
     ないものを身につけさせることばかりを考え、持っているものをあまり使わせないように
     していた。
      また、そのころ、認知・障害説そのものに疑問を抱くことも増えてきた。
     2女は一言も言葉を発しないが、ホットケーキを作ってほしいときに、
     妻が「冷蔵庫にある卵持ってきて」というと、返事もなしに、持ってくるのである。
     認知に障害があるのなら、なぜ「冷蔵庫」や「卵」がわかるのか、説明がつかない。
     こういった行動は、自分がしてほしいときだけ、相手の言うことを受け入れるが、
     こちらが何かの用事を頼んでも、ほとんど動こうとしないというアンバランスな面も
     あった。態度から見て、聞こうとしない、そんな感じであった。
      自閉症にもタイプがいろいろあり、2女の場合は認知・障害説だけでは、
     かたづけられないタイプであると思うようになった。
     映画の「レインマン」のように、ひょっとしたら特別な能力があるのではないかと思っ
     たりもした。とにかく、勘が鋭いというか、どこにお菓子を隠しても見つけることが
     できた。そして、「自閉を活かす」というタイトルだけが、印象に残るようになった。
     自閉という殻から抜けられないのであるならば、それを活かす方法を自分なりに模索して
     いかねばならない。著者が永年にわたって、実践してこられたことの真髄を読みとることが
     できず、我流に対処したことの間違いであった。ただ、子どもをバカな子、
     脳に障害のある子とは思わなくなっていた。
    
      行動療法との出会い
    
      行動療法との出会いは、兵庫教育大学の障害児相談を受けるようになってからである。
     認知・障害説にのっとってのアプローチと、最初は同じであると思いこんでいた。
     療育手帳をもらったことで、相談に行くようになったので、親が不十分な分、大学の先生に
     やっていただけると思い、申し込んだものである。自分が考えていた認知・障害説と
     根本的に違うとわかったのは最近のことで、それまでは兵庫教育大学にお世話になって
     いながら、嫌悪感を持っていた。動物を訓練するときに、餌を与えて言うことを聞かせる
     というイメージが先行し、芸をさせるためのものであるという考えが支配していた。
     実際に、兵庫教育大学に参観に行って指導の様子を見せてもらったが、
     望ましい行動をするとお菓子をもらったり、先生が一緒に遊んだり、ほめたりしている
     様子を見て、親にはなかなかできないし、子どもも喜んでいたことからありがたいことだと
     は思っても、自分にはできないことだなあと思った。
      キャサリン・モーリスの
     「わが子よ、声を聞かせて」の中に、「ブリジット(行動セラピスト)は、アン・マリーが
     ゴールドフィッシュクラッカーやM&Mのチョコレートでなく、ブリジットのほめ言葉
     ほしさにドリルをやるようにしようとがんばった。」という一節があるが、
     子どもに対して人格を認める気持ちがないと、形だけで終わるのではないかと思った。
     兵庫教育大学での指導は、回数が重ねられていったが、2女は少しずつしか進歩しなかっ
     た。それは、スモール・ステップであるのであたりまえのことなのだが、
     やはり親の欲目というか、エゴというか、こういうやり方であると頭では理解していても、
     気持ちの面では納得できなかった。それに、兵庫教育大学での指導は、夏休みや年度末に
     なると、大学の都合があり、もともとがボランティアでやっていただいているので、
     こちらの希望もそんなにも言えず、指導が抜けることが多く、あまり
     あてにできないものになっていった。それと並行して、大学に行って子どもが指導を
     受けることより、課題をもらい、といっても、娘の短期目標(時間割をあわせる)と
     して妻があげたものを、プログラム(絵カードを見て教科書を取る)を組んでくだ
     さったものであるが、こちらが要望を出していながら、それを実行するためのプログ
     ラムをもらいながら、家庭でするとなると、何となく気が重く、2週間に一度大学に
     出す報告も、提出日の前日にまとめて書いたりして過ごすことが多かった。
     後で、大学で指導する段階が終わり、家庭でやっていく段階にきていたと説明を聞いたが、 
     こちらには理解できていず、大学の都合ぐらいしか考えていなかった。
     それに、娘の担当の先生もこの時期に変わっていたからだ。そういった不満もあり、
     行動療法にはあまり期待していなかった。
      キャサリン・モーリスは、ブリジットという優れた行動セラピストを雇い、
     アン・マリー、ミシェルの2人の自閉症児を回復させるにいたったが、
     親がセラピストの役割を果たすことは、少し無理があるように思う。それに、行動療法
     そのものがわかったのが最近のことで、単なるスキル・ノウハウの一種のようなもので、
     指導技術に過ぎないと思っていた。
      兵庫教育大学の井上先生から直接、行動療法の話を聞き、
     もっと深いものであることがわかった。講義の中で、「子どもの問題行動といわれるものの
     中から学んでいく。問題行動をいろいろ分析して、子どもが何を要求しているのか学ばせて
     もらう中で、どのように対処していけばよいかが見えてくる。言い換えれば、
     子どもからこちらが学ぶと言うことである。」と、話された。これまでは、
      
      何か問題があれば、それを困ったものと考え、消去させることのみに目を奪われていた 
     が、なぜ、子どもがそんなことをするのか、子どもの立場に立って理解することがなかっ
     た。子どもに身につけさせる望ましい行動も、子どものニーズを無視し、こちらの都合で
     考えていたことが多かった。娘をバカな子といった目で見ることはなくなっていたが、
     一人の人間として見ず、自分の都合しか考えないわがままな子だと思っていた。
     こちらに主体があり、子どもをそれに従わせようとするのなら、何をやっても効果が
     ないのは当たり前だが、それは行動療法の持つ欠陥であると考えていた。
      キャサリン・モーリスは「わが子よ、声を聞かせて」の中で、「アン・マリーは非常に
     幼かったので、4歳や5歳の子のように自閉症が進んでいなかったのかもしれないし、
     障害もまだそれほど深く刻み込まれていなかったのかもしれない。
     だが、ロヴァース博士自身、私に言われたことがあるのだが、絶対的なものはな
     いのである。どんな治療プログラムも常に修正が必要であり、セラピストや両親も頻繁に
     新たな発想を出し合わなければいけない。」と言っているが、一つの療法を絶対
     的なものと考え、それに子どもをはめるのであれば、子どものニーズに合わないのは
     当たり前のことである。
     まず、子どもの実態をつかむこと、これが一番大切なことである。そして、
     子どもが自分を見せてくれるのは、その人との間に安心した関係があって初めて
     可能なことであり、親であるとか教師であると言った肩書きではなく、
     その人本来の人間性に関わっていることが大きいのである。
     その上で、サリバンがヘレン・ケラーを指導したような行動療法が必要であり、
     効果があると思う。それは、
     ヘレン・ケラーの視力や聴力を治すものではなく、環境に適応させるための必要な技
     能を身につけさせるものだった。娘の自閉症を治すのではなく、自閉症を受け入れ、
     娘が生きていくのに必要な技能を身につけさせることが、行動療法なのである。
     行動療法をしながら、自閉症を治す、そんなとんでもないことを考えていた。
    
      抱っこ法との出会い
    
      抱っこ法の存在は、石井聖著「自閉を活かす」・「自閉を越えて」の中に、反対の
     立場にある方法として出ていたので、こんな甘やかしは役に立たないと頭から決めて
     いた。そのため、この方法を学ぶのが一番後になってしまった。抱っこ法の内容を知
     り、実際に娘にやっていく中で、こんなしんどいことはなく、子どもとまさに格闘す
     るようなものであった。サリバンがヘレン・ケラーを教えたときに、よく知られてい
     る話は、「人形」とか「水」と言った言葉をどのように指導したかであるが、それに
     先だって、実は、抱っこ法のようなことが行われていたのである。一週間にわたって、
     ヘレンと二人きりの生活をし、その中でヘレンと格闘し、屈服させていったのである。
     これはまさに、抱っこ法そのものであった。
        抱っこ法の考えは、ティンバーゲンの
    「自閉症治癒への道」の中で、「自閉症児は一義的には情緒的に傷つけれられている
     子どもであり、特に不安過剰、引きこもり、自発性のなさが目立ち、従ってそ
     の不安を減らして安心感を与えることさえできれば、各種の技能面の能力が急速に進
     歩するものであり、時にはまさにとんとん拍子に伸びていくものだ。」と述べている
     が、その根本は、1943年のカナーの報告でなされた「冷たい親が原因で生じたひ
     きこもりが自閉症の障害の中心」という考え方と近く、この考えを受け入れるには、
     今までの自分の存在を否定することになり、つらい面があった。ティンバーゲンは、
     親の養育態度に原因があるのではなく、引きこもりやすい傷つきやすい子どもであっ
     たと補足しているが、子どもがひきこもりを見せる時点で対処していたならばと思う
     ことで、自閉症を深めたのは親の責任であるということはまぬかれない。ただ、脳の
     器質的異常と考える認知・障害説とは違い、「自閉症が私たちの起こした病気であれば、
     私たちが治すこともできるはずだという信念があった。」というように、こう解
     釈することで、取り組む勇気がわいてきたこともあった。
       抱っこを始めると、娘との格闘が始まった。阿部秀雄著「抱っこ法入門」などを参考に
     始めたが、娘の抵抗が強く、7歳の子どもにこんな力があるのかと思うほど、
     ものすごい力を出した。膝の上にのせて、抱っこを続けることも不可能となり、
     畳の上に寝かせて押さえ込むような形でやっていくようになっていった。
     もがき泣き叫ぶ娘を相手に、本当にこんなことをしていて効果があるのかと思ったが、
     J・アラン著「抱っこで育つ」に書いてある
    「子どもは抱かれる前よりも、もっと強く緊張し、泣き騒ぎ、もがくようになる。
     最終的な弛緩の状態に持っていくために、まず子どもの活動水準を高めることが
     抱っこ法の目標の一つであるのだから、これは必要なことである。
     我々の経験では抵抗が大きければ大きいほど、次に起こる弛緩の時間は長くなるようで
     ある。」という一節を思い出した。とにかく、娘が弛緩するまで、『怒って
     いるんだね。もっと泣いて怒っていいよ。』と声をかけながら、約一時間ほど続けた。
       娘と抱っこをしているうちに、人間と人間が関わっているという意識が出てきた。
     そして、自分が今までこの子に対し、いかに尊厳を傷つけていたかを考えた。
      J・アランは「抱っこ法と情緒発達」の中で、子どもへの関わり方として、
     「子どもに愛情と敬意を持ち、子どもの自発的な表現を尊重し、子どもの内面に耳を傾け、
     子どもの感情を共感的に受け入れようと努める。こうした態度は、
     子どもとつきあう上での基本的な礼儀技法と言うべきものであろう。」と書いているが、
     自閉症に限らず、すべての対人関係の上で考慮されねばならぬことである。
     抱っこ法をやっていくことで、娘との交流が生まれ、言葉はなくても目線で語り合えること
     ができ、親子の関係が少し修復できたように思った。
      
      マーサ・G・ウェルチは、ティンバーゲンの理論にたち、抱っこ法を実践しているが、
     「抱っこは、母親がするのが一番」と述べている。それで、自分がやりある程度見通しが
     もてた時点で、妻にも勧めてみた。娘の力が強いので、自分が足を押さえ、妻が手を押さえ 
     て、子どもと向き合う形を取った。泣き叫びものすごく嫌がる子どもを長い間抱いている
     ことは、妻にとって相当の苦痛であったが、娘が弛緩し、笑い顔を見せると、
     何かしら親としての自信が持てたと語ってくれた。
      J・アランは「抱っこを通じて子どもの生き生きした感情が呼び起こされ、
     生きる喜びが回復してくる。
     母親もまた、わが子への愛情を再認識し、子育ての喜びと意欲と自信を、ひいては母親と
     して生きる喜びを取り戻していく。」と述べているが、まさにそのことが実感された。
     その抱っこを境に、服をかんだり、イライラしたりしていた娘が、少しずつ落ち着きを
     取り戻した。そして、抱っこが必要だと思ったときに、抱っこを繰り返しているうちに、
     自分が興味のあることしか取り組まなかった娘が、こちらの頼み事も聞いてくれたり、
     『今できないけれど、時計の針があそこにきたら、やってあげる。』
     と言ったときに、待ってくれるようになった。
      キャサリン・モーリスは「抱擁療法が少なくとも自閉症の子の注意を引くーどんな学習に 
     もこれが一番大切であるーのに効果的な方法であるという点で同意した。」と書いている
     が、目を醒まさせる、このことが大切であると思う。
      そして、「自閉症児が自閉症児のままで、なにがしかの学習を行うことは可能であるかも 
     知れないが、根本的な解決は、両親への愛着を深め、自ら学び話そうとする意欲を育てる
     ことである。それにはまず、傷つきやすい自閉症児が接近行動を弱め、
     回避行動を強めてしまうような深い刺激や緊張場面にさらすことをなるべく控えなくては
     ならない。」と述べている。そして、このような考え方は、
     行動療法を行う場合の留意点と言えるものだと思う。とにかく、抱っこ法を始めるよ
     うになってから、娘の情緒不安が少なくなり、笑顔が見られるようになってきた。
     そして、自分自身、子どもを一人の人間としてみれるようになったことが、
     一番大きな収穫であった。
    
      まとめと今後の課題
    
       2女が自閉症であるとわかってから、自分なりに3つの方法を学んできた中で、一
     番気づいたことは、子どもをどうとらえるかということであった。一個の人格ある人
     間としてとらえるということがないままに、いくら子どもに関わってもそれは何の効
     果ももたらさない。障害児教育だけでなく、他のすべての教育においても、そのこと
     が抜け落ちているならば、間違ったものになる。そして、子どもと向き合っていく中で、
     自分自身がどうなのかといったことにも、当然ながら考えざるを得なくなってくる。
     2女とのふれあいの中で、自分が変わったということは、まさに、そこに行き着いた
     からである。
      そして、自閉症という障害そのものが、現代病的な要素を帯びているということも
     わかった。ティンバーゲンは、「われわれは、子どもの精神の全体的な成長に対して
     は不十分な注意しか払われず、一方、産業の中での将来の適所に子どもをはめるとい
     う意味での〔社会へ向けての準備〕に対してはあまりにも注意が向けられすぎてきた
     と思う。」と述べているが、現代社会にあっては、子どもは危険な状況に置かれてい
     るのである。そして、この危険な状況は女子よりも男子に一般的に厳しい。ティン
     バーゲンは続けて言う。「自閉症を真の文明病と考えるのには十分な理由がある。そ
     してこのことによって我々は、変わりつつある我々の社会の変化の様相、とくに人類
     が今向かっている方向についてとらわれのないより広い目で見る必要性を痛感させら
     れた。」物が豊かにあふれ、満ち足りているはずなのに、心の中には空洞感があり、
     人との結びつきが極度に薄れ、安住できない社会に陥っている。
      また、高松鶴吉は「もう一つのカルテ」の中で、
    「今からの病の大半は人間自身の生活の構え、社会の仕組みから生まれてくる。
     現代病はいわば人類おのれとの戦い、いきざまの悪しき表現と言える。」と述べているが、
     自閉症児は、まさに傷つきやすいが故に、
     現代社会の持ついろんな矛盾を背負い込んでいる。
     自閉症児が自分の内面をうまく処理できず、時々引き起こすパニックと呼ばれる行動は、
     問題行動ではなく、やむにやまれぬところから起こる適応行動であるととらえることが
     できる。
      J・アランは、自閉症児の引きこもり現象を「大人であっても、けがをして苦痛を
     感じるとき、歯を食いしばって痛い部分に力を入れてその苦痛に耐えようとする。
     何らかの不安に圧倒されたとき、肩をあげ身体を丸く縮めて固くなる傾向にある。
     特に身体を固く丸める姿勢は、新生児の日常的な屈曲優位な姿勢と似ている。
     これらの固くなる行動は、外に向かって何らかの働きかけを示す行動ではなく、
     もっぱら身体内部の緊張を高めて苦痛に耐える行動である。」と分析しているが、
     引きこもらざるを得ないから引きこもっているのであり、そのつらさを受容できなければ、
     ひきこもりを防ぐことはできない。  そして、そのように傷ついている自閉症児
     を治すのではなく、自らが治って行く道を援助していくことが我々にできることでは
     ないかと思う。
      ビル=モイヤーズは、「こころと治癒力」のなかで「技術と同じくらい重要なことに
     母親と乳児の情緒的な結びつきを強めることがある。科学的な調査でも、
     人間的なふれあいがないと、赤ちゃんは衰弱し、正常な成長が妨げられることが明らかに
     されている。赤ちゃんには触れられることが必要なのだ。」と述べているが、
     抱っこをすることによって、母親もまた自分のこころの傷を感じ、子どもの苦しみを
     分かち合うことができるのです。
      そして、「人間が警戒心を解いて互いに信頼するようになるのは、傷のなせる業なので 
     す。私が他人を信頼するのは、他人もまた同じような傷を持ち、痛みを持ち、恐怖感を
     抱いていることが分かったときに限ります。そして、いったん信頼感が生まれれば、
     そこから他人の傷への配慮が始まり、癒し、癒される関係が生まれるのです。」と述べて
     いるが、このような状況ができてこそ、互いに治っていくのである。
       また、河合隼雄は、「ユング心理学と仏教」のなかで、「心理療法でもっとも大切なこと
     は、二人の人間が共にそこに[いる]ことであります。その二人の間は[治す人]と
     [治される人]として区別されるべきではありません。二人がそこに[いる]
     間に、一般に[治る]と言われている現象が副次的に生じることが多いと言うべきな
     のでしょう。」と書いているが、子どもと共にあることで、互いに傷つけられた者同
     士が治っていくと思う。そして、精神的な外傷が治ったならば、子ども自身が自立し
     ていくのである。
       そして、このあとは、行動療法のようなきめ細やかな対応が必要であると思う。
     ヘレン・ケラーが、サリバンに教育されたように。キャサリン・モーリスは、
     ブリジットという優れたセラピストを雇い、自分の子どもの教育に取り組んだが、
     「来る日も来る日もブリジットを見ていた私は、彼女が泣く子に対して岩のように
     一歩もゆずらない態度をとりながら、それでいて少しも怒らないことに、また怒った
     振りをして子どもを動かそうとはしないことにきずいた。」と述べているが、
     このような態度こそ要求されるものである。ただ、何がその子にとって、
     必要なスキルかは十分吟味されなくてはいけない。
       
      抱っこ法を初めて、2女が獲得したことばは『イヤー』だけであるが、このことば
     によって、ずいぶん自分の感情を処理することができた。行動療法によって身につけ
     たサインは、『ちょうだい』と『おねがいします』の2つだけで、まだまだ取り組ま
     ねばならないことがあるが、逆に、2女から教えられることも多かった。特に、自分
     の生き方を見直された。
       常に競争のなかにあり、あくせくしてがんばってきたことが何になると言うことで、
     人と競争することなく、自分のペースで歩んでいる姿を見て、大いに考えさせられた。
     糸賀一雄は「福祉の思想」のなかで、「ちょっと見れば生けるしかばねのようだとも思える
     重症心身障害のこの子が、ただ無為に生きているのではなく、生き抜こうとする必死の意欲
     を持ち、自分なりの精一杯の努力を注いで生活しているという事実を知るに及んで、
     私たちは、今までその子の生活の奥底を見ることのできなかった自分たちを恥ずかしく
     思うのであった。重症な心身障害はこの子たちばかりでなく、
     この事実を見ることのできなかった私たちの眼が重症であったのである。」娘から学
     んでいくことが、これからもどんどん増えていくのではないかと思う。
       最後に、かつてケネディ大統領が演説したことばを、今後の課題として取り上げ、
     娘のことだけでなく、自分自身の生き方をも見直していきたい。「身体障害者、知的
     障害者その他の病気に対する治療や対策は長足の進歩を示したにも関わらず、我々は
     知的障害問題のために国家的な集中的調査研究を行うことをあまりにも後回しにしてきた。 
     この誤りも是正しなければならない。心身障害者に深い関心を持つように、叡知と人間性は
     命令する。われわれがこれら薄倖の人々に関心を寄せるのは、単なる政治の指標のためでは
     ないし、また国家の利益や人的資源の保護のためでもない。
     それはアメリカの未来を開く鍵でもある。」と言っているが、アメリカの未来を開く鍵だ
     けでなく、今後の世界を開く鍵でもある。今一度、この至言をかみしめたい。
    
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