清兵衛の施策に学べ民政を重視行財政改革

                              講演 童門 冬二(作家)

 小説「上杉鷹山」などで知られる作家童門冬二さんがこのほど、宇和島市中央町二丁目の南予文化会館で「歴史の町宇和島の光陰」と題して講演した。初代宇和島藩主伊達秀宗に随行した家老・山家清兵衛(やんべ・せいべい)の施策を紹介し、「宇和島に残る忍びざる気持ち(困っている人をほおっておけない心)で合併後のまちづくりに取り組んでほしい」と話した。
 【講演要旨】
 伊達政宗は、徳川家康から三代目家光の時代まで生き抜いた。ある意味で生き方がうまい人だった。
 家康は、本当はそれまで世話になった政宗を宇和島に入れ、四国から九州にまで目を光らせてはしかった。しかし、政宗は利口で「そんな名誉な仕事をするには老齢。息子の秀宗を」と断った。
 実際には、秀宗は側室の子で、長男とはいえ仙台藩主にはしづらい事情もあった。「秀」は秀吉の一字で、豊臣の養子の時期もあり、家康以降続くであろう徳川の世に備えるため
にも藩主にはできない。この時三人の家来を随行させ、その一人が家老・山家清兵衛だ。
 山家は秀宗を支える総奉行の仕事をどう考えたか。民政を重視し地方自治体≠フ「CI」(コーポレート・アイデンティティー、企業の独自性)が必要と考えた。山家は最初、赴任してまず仙台を忘れようと考えた。
 山家は、仙台の本家から独立して宇和島自治を確立し、「宇和島らしさ」を逆に、中央へ発信したいと考えた。そのためには本家からの借金三万石を返済しなければならない。その捻出(ねんしゅつ)のためには重税でなく、城に勤める役人の倹約以外ないと考えた。つまり行財政改革だ。武士は民のための仕事は、何もしていないと思えた。その象徴が、桜田玄書だった。桜田から見れば、山家の施策は武士の対面、存在意義を壊すこと、過剰に民を考えていると映った。
 大坂城の改築が宇和島藩に命ぜられ、山家と桜田が担当したが、実質的には実務に優れた山家の指揮で進んだ。山家は賃上げ要求″を受け、藩に断られても商人の間を奔走し、
資金を工面。そして一足先に宇和島に戻った。ところが、それが桜田の怒りを買う。
 桜田は、「山家が商人と結託して不正の趣あり」という疑念を報告。秀宗も真に受ける。それが桜田が後に山家に夜討ちをかける際の言い分になっていたとの説もある。
 山家一家は暗殺される。その後桜田もおかしな最期を遂げ、山家が推進した農作物が取れなくなるなどさまざまな恨み伝説≠生む。誰ともなく「やんべ様のたたり」という話が流れ、幕府や政宗にも伝わった。政宗は「山家は忠臣だった」ととがめ、社の建設を命じた。和霊神社にも怨霊(おんりょう)を封じ込める意味もあったろう。
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