• 雪彦山!






          雪彦山
      
      2女紗央里が障害児であり、自閉的傾向があるといわれたのは、
     平成4年1月、3歳半のときであった。
     それまで、中学校社会科の教師であり、運動部の顧問をしていたので、
     月に1度、テスト前の日曜日しか、ふれあうことがなかった。
     放ったらかしにしていたのは、紗央里だけでなく、
     妻もその時小学1年生であった長女祐佳里も、そうだった。
     何とか埋め合わせをと思い、遊園地やデパートの屋上など、
     子どもが喜びそうな所へ連れていった。
     しかし、喜んだのは長女だけで、もともと人が多いところが苦手な紗央里は、
     泣いたり、いつも以上に妻にまとわりついたりして、
     日頃紗央里との子育てに疲れている妻を、よけいにイライラさせたりした。
     そんな状態でもあったにも関わらず、とにかく連れていってやったんだから
     父親としてのサービスはしていると自己満足していた。
     だから、行く先を変えては月に1度、無理をしながら、
     そんな過ごし方が続いていた。
      
      自閉的傾向があるということは、どんな面に配慮せねばならぬとか、
     どう関わらねばならないとか、そんなことは全く考えず、
     とにかく、ふだん何もしない埋め合わせを何とかせねばという思いばかりが
     先行した。
     自分の親からは、
      「お前たちの育て方が悪かったと違うのか。」と言われたりもした。
     
      実際、紗央里の発達は遅れており、有意味な発語はなく
     (1歳頃には、片言のマンマなどのなん語があったが、
     その時は消失していた)、オムツも取れておらず、要求を通そうとして 
     通らないときは、Tシャツを噛んではぼろぼろにした。
     また、水遊びが好きで、日に5〜6回もお風呂に入っては、遊んでいた。
     また、そのお風呂がときどきトイレになったりもしていた。
     しかし、そんな紗央里の日常は妻から話を聞くだけで、
     自分が実際目の当たりにすることはあまりなく、目の当たりにしたときは、
     力づくで押さえるとか叩くなどで対処していたように思う。
     それに、中学校の教師は忙しかった。
    
      その時の勤務先は自分の母校で、
     中学時代は徒歩で15分かけて通っていたが、車で通勤していたので、
     5分とはかからなかった。しかし、朝は部活の早朝練習があるので、
     7時前には家を出ていた。早朝練習など自分が勝手に始めたものだから、
     やらなくてもいいのに、教師になってから十数年間ずっと続けていたので、
     無理をしながらやっていた。
     それに、若い教師に熱心さの点で負けたくないという思いがあり、
     また部を強くして、他の教師に威張りたいがためにやっていたような
     面もあった。
     生徒には、時間厳守を要求し、7時半からの練習に遅れた者には、
     朝の練習に参加させなかった。また、遅れるとわかっているなら、
     事前に自分で連絡させた。
     そのために、練習の30分前に学校に来ていると話した。
     逆に、自分が遅れそうなときは、キャプテンの家に前もって連絡したりして、
     その旨を話した。とにかく、弱みを見せるようなことはやらなかった。
     朝の練習が終わり、授業が始まると、ここでも時間厳守を励行した。
     チャイムと共に始まり、チャイムと共に終わることに心がけた。
     そのために、10分の休憩は10分とることはなく、
     職員室から教室までの時を 計算して、1分30秒から2分前には、
     職員室を出ていた。廊下ですれちがう生徒は、自分の姿を見て、
     まもなく授業が始まるとあわてて教室にかけ込んでいた。
     全ての授業が終わり、放課後になると部活が始まる。
     職員会議などがあり、毎日練習に出れないので、2週間単位で
     練習メニューを渡しておき、その通り実行しているかどうか、
     会議そっちのけで遠くから見ていることもあった。
     そうしないと、部内でいじめがあったりして、後の対応に追われるからだ。
     現に、他の部ではそういったことがあったりして、事後指導追われ、
     練習どころではなくなるからだ。
     部活が終わる時間は、季節によって異なるが、夏の一番遅いときで6時半だった。
     この決まりも形だけのもので、試合前になるとなしくずし的になり、
     8時頃までする部もあった。ただ、時間厳守をモットーにしている自分は、
     そんな中で6時半の下校は守っていたが、自分の部活の生徒が他の部の生徒を
     待っているのを見て、腹立たしく思ったが、このことは生徒の問題ではなく、
     教師のモラルの問題だと思い、それほど厳しくはできなかった。
     こうして、全ての生徒が下校してから、帰宅した。
     生徒指導などで、夜遅くなる日もあったが、だいたい午後7時半頃に自宅に帰っ
     いた。冬の時など、5時過ぎには部活が終わるので、もう少し早く帰れる日も
     あったが、何となく時間を過ごし、午後6時半頃学校を出て、
     パチンコに行っては  時間をつぶしていた。
      
      早く帰ってこんな時こそ、触れ合いの時間を持ってやればいいのに、
     何となくおっくうで、パチンコに行くときは、ストレス発散だといいながら、
     ストレスがよけいに増えることが多かった。忙しさや忙しくすることで、
     紗央里のことだけでなく、妻や長女のことも放ったらかしにしていた。
     ただ、妻や長女に比べて、障害のある紗央里には、
     その与えた影響がより大きかったのは間違いないように思える。
     土・日に、部活をして自分の子ども以外の者と関わっているのに、
     自分の子は放ったらかし、しかも、障害があるのに。
     こんな思いを抱きながら、練習試合や公式戦に出かけていくとき、
     その気持ちはやるせないものがあった。
      しかし、今までこうしてきたから変えられないと思った。
     学校という環境を変えなければ、自分も変えれないと思った。
     そんな思いを強く持って、平成5年の秋、養護学校への転出希望を出した。
     障害児教育については、ほとんど本を読んだことがなく、
     知識を持ち合わせていなかったが、障害を持つ子どもがいるのに、
     親として何もしないでいいのかという思いがあった。
     
      その思いが通じたのか、平成6年春、養護学校に異動することができた。
     その養護学校は、自宅から車で1時間近くかかるところにあり、しかも、
     自分が新任の時から6年間勤めた中学校と同じ校区にあった。
     車で5分の所から1時間と、大変遠くなったが、早朝練習をしていたこともあり、    
     出勤時間はほぼ同じか遅いくらいであった。
     それに運動部の顧問をしなくてもいいので、帰宅時間は中学校にいたときより、
     1時間近く早くなった。紗央里を通して自閉的傾向を持つ子どものことは
     ある程度理解できたが、脳性まひやダウン症の子どものことなど、
     最初の頃は十分理解できないことがあった。
     だから、勉強の必要性を痛感した。教材研究にあてていた時間の多くを
     障害児教育の本を読むことにあてた。
      土・日の部活に割いていた時間を、紗央里との触れ合いの時間にかえていった。
     もちろん紗央里だけでなく、妻や長女のことも考えたが、
     言葉を通して理解できる者と違い、紗央里にはそれだけ時間をかける必要があた。  
     自閉性障害に関する本を買っては読みあさった。
     
      そのなかで、石井聖氏の『自閉を活かす』という本の中に、
     山登りの効用について書かれているところがあった。
     氏のように、高い山へ紗央里を連れていくことはできないが、自宅周辺にある 
     500〜1000メートルぐらいの山ならば、何とかなるだろうと思い取り組んで
     みることにした。そして、最初は自分一人で登り、安全を確認してから
     2女と一緒に登ることにした。登る目的は訓練であり、
     登ることで紗央里の自閉的傾向が緩やかになればという願いがあり、
     部活をしていたときと同じように、しんどい思いをさせながら、
     手をひっぱったり後ろから押して登っていった。
     親の力が勝っていたこともあるが、紗央里はイヤイヤで泣いたり服を噛んだりして
     いたが、こちらの思いが強かったので、しかたなく登っていった。
     頂上に着き記念写真を撮った。カメラに視線が向かず、
     険しい顔の表情の写真しか撮れなかった。その後で弁当を食べた。
     自分が先にコンビニで買ったものだから、娘は興味を示さず、
     おなかが減っているにも関わらずあまり食べようとはしなかった。
     それから下山にかかったが、登るのに比べて降りるのははるかに難しいと、
     その時実感した。手をひっぱったり後ろから押すなんてことは、
     即ケガになりかねない。ただ、遊歩道のようなよく整備されていた山だったので、
     そんなに怖くなかったが、これが本当の山道であったならばと思うと、
     ゾッとするものがあった。その次は、低い山だが、あまり整備されていない山を
     登った。前回の反省をいかし、弁当は2人で一緒にコンビニに行って、
     娘に好きな物を選ばせた。娘は弁当を選ばず、鶏の唐揚げやスナック菓子を買った。
     常識からすれば、弁当にはならないかも知れないが、たくさんある商品の中から、
     娘が選んだ物だからと、その思いを大切にした。それをリュックに詰め、登り始めた。  
     目的があるせいか足どりは軽やかだった。
     どれくらい歩いたら、鶏の唐揚げやスナック菓子にありつけるかわからないので、
     ときどきぐずったりした。その時は、現物を見せ、頂上を指さして
     「あそこに着いたら、食べよう。」
      と言った。
     そして、頂上に着いた。写真を撮ると、うれしそうな顔をして、カメラの方を
     見ていた。いい顔で写っていた。それから、お待ちかねの鶏の唐揚げやスナック
     菓子をおいしそうに食べた。満足しきっているような顔だった。しかし、食べ終わる
     と、まだおなかが減っていたのか、私の食べている弁当にまで、手を出してきた。
     「チョーダイ」のサインをして要求してきた。娘が自分の気持ちを表したときは、
     まず全面的に受け入れてやることが大切であると思っていたので、
     食べかけの弁当を渡してやった。白いご飯はほとんど食べず、
     ふりかけをかけないと食べなかった娘が、食べているのである。
     意外な感じがしたが、嬉しかった。
     山登りにはこんな思わぬ効果もあるのかと思った。弁当を食べ終わると、
     下山にかかった。今度は山道であり、強引なことをすると、
     2人とも怪我をするので、娘の自発性にまかせた。そうなると、
     なかなか降りてこない。はじめはつかず離れずの距離であったが、
     そのうち、こちらが我慢しきれなくなり、10メートル程先へ行った。
     娘は素知らぬ顔で、葉を取っては口に入れたり、木の枝を折ったりして遊んでいた。
     下からいくら声をかけても、いっこうに気にとめる様子はなく、
     こちらがバカを見ているような感じであった。
     別に早く降りても仕方がないので、のんびりつきあうことにした。
     いちいち声をかけていては、お互いにイライラするばかりであるからだ。
     10メートル先へ行っては娘が来るのを待ち、また先に10メートル行っては待つ、
     そのことの繰り返しだった。そのうち娘は疲れたのか、私をブレーキがわりにして、
     自分から先に降り出していった。その方が楽に降りれると考えたからに違いない。
     子どもとはいえ、山道で体重をかけられるとこちらもバランスを失う。
     私も娘に体重をかけられない程度に離れることを考えた。鬼ごっこのように、
     つかまえられそうでつかまえられない距離をたもちながら、
     2人で山道を降りていった。何かゲームをしたような感覚で、
     楽しい一時が過ごせたように思った。
       そんなふうにして休日になると、2人で山登りに出かけた。ときどきは、
     家族4人で登ることもあったが、妻と長女が2人で過ごす時間も大切と思い、
     登った回数の7割は私と紗央里の山登りであった。ただ、山登りは娘にとっては
     あまり楽しいものではなく、しんどさが先にたつこともあり、山登り用のリュックを
     見ただけで泣くこともあったので、弁当のかわりにマクドナルドのハンバーガーや
     ナゲットを弁当がわりにしたり、水筒にお湯を入れカッブラーメンを持っていって
     頂上で食べたり、いろいろと目先を変えていった。
     また、自分自身頂上で娘の写真を撮ることに興味を覚え、
     次から次へと新しい山をめざして登っていった。一度登った山は
     登る気があまりしない。そんな気持ちが出てきていた。
     また、娘の方も山登りに慣れてきたせいか、刺激を求めるようになり、
     少し崖のあるところなど、おもしろがって自分からわざと危険な方の道を登ることも  
     あった。足元を見て歩くことなどほとんどしない娘だが、
     そんなときはしっかり足元を見て、怪我をしないように歩いているのがよくわかった。 
    
      この子にこんな能力がある。気づかされたときでもあった。また、
     頂上に上がって弁当を食べるだけが目的の山登りから、途中の楽しみを覚え、
     花を摘んだり、葉をちぎったり、ススキの穂を吹いたり、
     娘なりの楽しみを見つけだしていた。
     それはまさに、植物と対話しているかのような感じさえあった。
     人がたくさん集まる遊園地やデパートの屋上では、決して癒されなかった娘の心が、
     自然の中で癒されているような感じがした。
      
      雪彦山を2人で登ろうと思ったのは、山登りにたいしてある程度、
     自信がついたからだった。それほど高くない山であるが、
     なかなか険しく大人でも登るのに苦労すると言われていたが、
     自分自身登ったことのない甘さから、これまでたくさん山を登ってきたことだし、
     娘と2人で行っても、大丈夫だろうぐらいの甘い考えで、雪彦山へ行った。
       
      平成8年9月15日の敬老の日であった。
     自宅から車で1時間半ほどかけて、登山口まで行った。
     登り始めたのは10時半頃だった。さすがに、多くの人が登るだけに標識もよく
     整備されてあり迷うことはなかった。知らないことの強みというか、
     登りやすい道でスイスイと登っていった。途中出雲大社を祭っている祠があり、
     岩が多かったがそれほどきついとは思わなかった。
     そうすると、次に、鎖を使って登らねばならないところがあり、
     少し困ったがそんなに段差はなく、娘のお尻を押して登ることができた。
     このとき、下山するときにまたこの道に来たら、降りるのは少しやっかいかなと、
     ふと頭をよぎったが、何とかなるだろうと思い直した。
     なぜなら、娘は鎖を持って降りることなどしたことがなく、
     手で体重を支えるということができなかったからだ。この鎖場を越えると、
     こぶ岩というところに出た。岩と岩の間が、人ひとり通れるくらいの狭いところで、
     リュックを背負ったままでは通れなかった。途中まで行ってみたが、岩と岩の間に
     挟まって引き返すしかなかった。このあたりから、いつもになく、娘がものすごく
     泣き始めた。不安と恐怖で一杯だったのだと思う。親である自分もどうしようかと
     困った。引き返すにもさっきの鎖場があるし、道は狭くて前に行けそうにないし、
     弱り果てた。そんなとき、娘がこぶ岩の入り口を迂回して違う道を見つけた。
     狭い間を通らなくても、先でつながっていることがわかってほっとしたが、
     何か勘のようなもので娘が道を見つけたのにはびっくりした。しかし、その後の道は、
     そんなに険しくはないが、左右の展望が良すぎるくらい開け、崖がすぐ目に飛び込んで
     くるため、冷や冷やしながらの登山だった。立ちくらむというか、
     自分の足元がふらつくなか、娘も相当怖かったようで、泣いてばかりいた。
     ただここまで来たのだから、頂上をきわめないと、という思いがあり、
     とにかく頂上をめざしていった。頂上に着いたのは午後1時をまわっていた。
     頂上では、途中で追い抜かれた人から祝福を受けたが、娘の顔はこわばっており、
     写真を撮ってもいつものようないい表情にはならなかった。
     弁当として途中で買ったロッテリアのハンバーガーもチキンもそんなには食べず、
     お茶をいつも以上にたくさん飲んだ。登りに2時間半近くかかったので、
     頂上でもゆっくりしていられず、1時20分すぎには降り始めた。
     いつもの登山なら、登った道を降りるのだが、下山道の標識があり、
     さっき登ったしんどさを思うと、下山道の方が降りやすいのではないかと思い、
     そちらの道を降り始めた。そうすると、娘はこれまでになく大きな声で泣き始めたが、  
     何かひっかかるところはあったが、下山道という標識に惹かれて降りていった。
     降りはじめてすぐに、登山家たちが、ロッククライミングの練習をする岩場の上
     にいることに気がついた。これを直線的にではなく、いろいろと迂回しながら降りて
     いく下山道だと理解したが、何せ知らない者の強み、こちらの道の方が先の登山道より  
     いいと思いこんでいたので、泣き叫ぶ娘をあやしながら、少しずつ降りていった。
     そうして降りていくうちに、娘がまた大きな声で泣き叫んだ。
     下を見おろすと、鎖を伝わって降りる下山道だった。
     それは登山道の時の3倍はあろうかという程の鎖場だった。
     降りはじめて1時間近くたっていることもあり、ここから引き返して頂上から登山道を
     降りるには気分的にしんどかった。とにかく安全に気をつけて降りることを考えた。
     鎖場全体を見渡し、2〜3メートル先で安全な場を確保し、そのポイントへこちらが
     先に降りて、娘が降りてくるのを待つ。その時、娘が足をすべらせても大丈夫なよに、  
     しっかり受けとめる。そうして、少しずつ降りて行くしかない。そう考えた。
     2人一緒に降りることは、2人とも怪我をすることになる。だから、
     そう腹をくくって、娘に、「大丈夫だから降りておいで。」と言った。
     しかし恐怖心もあり、娘はなかなか降りてこない。息をのむような感じで、
     何も言わず5分ほど待った。そうすると、娘が歩き始めたのである。
     それも鎖を使わないルートを探りながら降りてきた。「何で鎖を持たない!」
     そう言いかけたが、ヘタに声をかけると気をとられると思い、一挙手一投足に
     気を配りながら、両手を広げた。そして、娘を抱きかかえた。
     その時に、生まれてこの方初めて、この子と心が通ったような気がした。
     親を信頼して降りてきた。しかも、今まで大きな声で泣いていた娘が、
     泣き声一つ出さず真剣に足元を見て、一番安全な道を見つけながら降りてきたのでる。  
     嬉しいような泣きたいような気持ちであった。
     この一つが降りれたからといって、この鎖場はまだ1/3しか降りていないのである。
     抱きかかえた娘を足元におろし、  
     「お父さんが先に次のポイントに行くから  待っておいで。」
     と言って、次のポイントへ降りた。いつもならまつわりついてくる娘が、
     静かに待っていてくれた。そして下から声をかけ、降りてくるのを待った。
     一回できたからといって、すぐには降りてこない。
     やはり、5分は待たねばならなかった。もう一度、これを繰り返して、
     やっとこの鎖場を降りれた。鎖場はこれ以外にあと5ヶ所ほどあった。
     すべての鎖場を越えれたのは、午後4時をまわっていた。体力も気力もくたくたに
     なり、登山口に着いたのは、午後5時をまわっていた。
       
      あとで人に聞いたところによると、雪彦山は登山道よりも下山道の方がはるかに
     きついということであった。登ってみて、自分もそのことを実感したが、
     無謀なことをしたおかげで、紗央里と本当の親子になれたような気がした。
     そして、親として子に何ができるかということを、改めて考えさせられた。
     鎖場で自分があのとき、娘が自分から降りてくることを待ったように、
     安全を確保して、後は待ってやることだったのである。
      障害を持っている子ども達の歩みは確かに遅い。
     言葉で言っても通じないこともある。また、その言葉の刺激が情緒不安を
     引き起こすこともある。障害があるが故にできないことは、
     健常児と言われる子どもよりもはるかに多いかもしれない。
     だからといって、何もかもその子の自発性を奪っては、その子本来の能力は
     発揮されない。
      雪彦の鎖場で、両手を広げ待っていた自分の姿と安心して自ら動き出した娘の情景
     が、今もときどき目に浮かんでくる。
    
    お便りをおまちしています!
    saoriyuk@d1.dion.ne.jp



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