■ 資格
     

先日車の運転をしているときに感じた出来事を書かせて頂きます。

私はその日休みで、お弁当のおかずを買いに隣町に出かけ、
『今日も半額で買えたな』と、一人悦に浸って家路を急いでました。

そうこうしているうちに交差点が見えてきました。
私の走ってる通りは赤信号で、私は前から2番目で止まりました。
その交差点は比較的見通しがよく、反対側の車ももちろん止まってました。
平日の昼間ということもあり、交通量は少なく、それでも青信号側の車は、
忙しそうに行き来してました。

天気も良く、なかなかいい気分で、いつも何げに見ている吉野川を
しばし車窓から眺めてました。
赤信号で止まってから20秒くらい経った頃でした。
向こうから救急車のサイレンが聞こえてきました。
救急車はすぐに私のいる交差点に入ってきました。
行き交う車は止まり、救急車はすぐに通り過ぎていきました。
そして私が止まっていた信号も青になり、私もその場を立ち去りました。

べつによくある光景で、どうってことはなかったかもしれないのですが、
私は帰りの道中、その光景がなかなか頭から離れませんでした。

そのとき私が感じたことは『あの時みんなは一つになってた』
って事でした。
心が一つになってた、とまでは思いません。
あの救急車を見て『救急車かよ。早く通り過ぎろよ』
と思ってた人もいたでしょうし、『救急車!?どれ、どれ、どれ!!』
という野次馬もいたと思います。
それをどうこういうつもりはないんですが、あの時、良い悪いは別にして、
みんなが一つになって、救急車を通してあげる、という目的を達成しようと
してたのは間違いないと思います。

それは自動車の運転免許を取る時に、交通法規で習って、みんなが
知ってることだからだと思います。

つまり、みんなが知ってたからできたことだと思います。
知ってたのは、その資格を得るために、その教育を受けたから。
そういう教育をすればみんなが知ってる。知らないなら、その資格はない、と言うことに
なるんじゃないかと思います。

健常者と言われる人と接する時、相手に対してだいたいの事を想定しながら
誰もが接すると思います。
それは知ってるから。
でも障害者と言われる方と接するとき、何となく構えてしまう。
それは知らないからじゃないんでしょうか。

じゃあなんで知らないか。
そういう教育がなされてないからじゃないかと思います。
教育があれば誰しもが誰とでも当たり前に接することができるんじゃないかと思います。

だから、構えてしまう私は、障害の事に対して、ああだのこうだの、言う資格はないのかもしれません。
その資格を取れるように、これから色んな教育を受けたいと、また、みんなが受ければいいと思います。

教育ですか?

愛と、根性と、げんこつ、ですかね。

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