木村拓哉との比較における中居正広のプライド論
(決して真剣には読まない事!)(←笑)

プライドという言葉を辞書的に規定すると、

「誇り」「自尊心」「自負心」と書いてあった。

また、それぞれについて、さらに辞書を引くと、

A.『誇り』ほこること。名誉に思う事(誇る。1.得意げなさまを示す。すぐれていると思う。名誉に思う。2.優れている。秀でている)』

B.『自尊心』1.自分を優秀な者だと思う気持ち。尊大に構える心。プライド。2.自分の品位を保とうとする心。プライド。

C.『自負心』自分の才能や仕事に自信を持ち、誇らしく思うこと。またその心。

となる。

この場合、一番相応しいと思われる言葉は、Cの『自負心』であろう。

以下、ここにおいて使われる『プライド』という言葉の中で、重要なウェイトをしめるのは、『自負心』とさせていただきたい。

およそ世の中に「プライドの低い人間」というものは存在しない。誰にでも、たった一点であっても、そこだけは譲れないというラインがあり、そういった譲れないラインが少しでもある以上、「プライドは高い」のである。

ただ、その譲れないラインに多寡がある。

100のうちたった一つさえ守れれば、後の99は譲ってもいいという人間と、100のうち、一つであっても譲れない人間。どちらもプライドは高いが、譲れるラインの数が違うというだけの違いである。

これを木村拓哉と中居正広に当てはめてみた場合、譲れないラインが多いのが木村拓哉(ただし、百のうち百では決してない)、最後のたった一つさえ守れれば後はどうでもいいのが中居正広であろう。

卑近な例で言えば、あの『笑っていいとも』の一週間でやってみようというコーナーがある。バイオリンやハープを1週間で弾けるようになって来いと言われた中居は、なんとそれを膝の上に置いて弾くという荒業を披露し、「うわー!さっすがへたれリーダー!!」「可愛いー!可愛いけど、ちゃんと弾いてる姿も見たかったよぉー!タキシードでも着てー!」と我々を喜ばせたのだった。

しかし、もしこれと同じ状況が木村拓哉に訪れたとしたら、彼は夜も寝ず、指先血だらけにしてでも、ナイナイの二人より上手く弾けるようになって来ただろう事は、想像にかたくない。しかも、指先が血だらけになっていたとしたら、その指先を決して見せる事なく、当たり前のような顔で弾いて見せるのが、木村拓哉のプライドであろう。

それでは、木村の方が中居より偉いのか。

それは決してそうではない。これは単に二人のプライドの持ち方の違いにすぎない。

『1週間でバイオリンを弾けるようになってこい』という言葉に対して、それが出来なかったら悔しいというのが木村のプライドである。バイオリンを弾ける人間は無数におり、また、比較される対象までが揃っている中で、自分がそれを出来ないという事が悔しい木村は、その有り余る(と想像される)体力、気力を十二分に活用し、努力し、与えられた課題をこなそうとし、実際こなすのである。

対して中居は、『1週間でバイオリンを弾けるようになってこい』と言われた瞬間に、『それは無理』という判断をつけるであろう。物理的に考えて、わずか一週間で今まで見た事もない楽器を、しかも他の楽器経験もない中居が弾く事は、まず無理である。他の仕事がないのならともかく、彼は芸能界の中でもトップクラスに忙しいタレントであり、残念な事に体力、気力が有り余っているとは思いにくい。ここで下手に頑張って睡眠時間を削ったとすれば、他の仕事にも悪影響を及ぼしかねない。

そうであれば、彼はコーナー、番組の趣旨に沿って、自分が何をすればいいのか考えるのである。『笑っていいとも』はお笑い番組である。であれば、笑いが取れ、コーナーが盛り上がれば、中居は自分の役割を果たした事になる。ナイナイが普通に練習をしてくるのであれば、自分は、よりおかしな方向に走った方が盛り上がるであろうと考えた、と思うのは、あまりにうがった見方であろうか。

たとえ一週間でバイオリンは弾けなくとも、膝の上で弾くという驚くべき発想の転換を我々に突きつけた中居は、あの時、ちゃんとバイオリンを弾いたナイナイの二人よりも、それは我々が、彼のファンであるためかもしれないが、より鮮明に記憶に残るのである(しかも彼は2回目のハープすら、膝の上で弾くというダメ押しをして、忘れられなくしてしまった)。

番組の趣旨を考え、自分に求められているものを考え、その責任を果たせれば、中居のプライドはかけらも傷つかないのであろう(ちなみに木村には、出来て当たり前だという責任が被せられる事が多い。木村は木村で、自らのプライドをかけ、その重圧と戦い、勝利を収めるのである)。

中居は、おそらく、100のうちのたった一つ。それさえ守れれば、後はどうであっても構わないと考えるタイプであろう。そのたった一つが『SMAP』である。

最近、ある雑誌で、ジャニーズ事務所社長、ジャニー喜多川氏は、中居を評してこう言った。

『やっぱり中居くんがね、カチーッと押えてるでしょ。彼はすごいですよ。自分のことを捨てて。そうじゃなかったら、SMAPなんて今頃ないですよ。昨日も今日も一昨日も、SMAP解散かって。それじゃ中居くんに聞いてみましょう、って。これで、いいわけですよ。』

ジャニー氏にとって、中居というのは、『自分を捨てて』SMAPを押えている人間らしい。しかし、そうであろうか。中居のたった一つ譲れないラインだと思われるのがSMAPである。SMAPである事を、あれだけ大事に思い、SMAPをあれだけ大事にしている中居が、『自分を捨てて』いるのだろうか。

『何であれ、あなたのためにという言葉は美しくない』という言葉を聞いた事がある。中居がメンバーのために、という言葉を出すのであれば、それはやはり、美しくはないのだ。中居の自己犠牲を望む者など、誰もいない。逆に中居が犠牲になっているのであれば、SMAPはなくったって構わないと思うであろう。

誰かの犠牲の上に成り立つ関係は、決して長くは続かない。

何よりもSMAPが大事で、それだけは決して譲れない中居であれば、逆に、決して自分を犠牲にしようとはしないであろう。自分を捨て、自分が我慢する事は、歪みを生じさせ、逆に、SMAPの終わりを近づける事に他ならないからである。中居の行動は、すべて『SMAPを好きだから』という根元に基づいて起こされているのではないだろうか。そこに、『自分を捨てて』という発想は、入るべきではない。

中居、木村、稲垣、森、草なぎ、香取の6人が集まってSMAPである。彼らは、SMAPという器を埋めるために集められた訳ではない。器は確かに大事だが、その器の中に閉じ込められ、窒息する事は断じて避けなければならない。SMAPという器は、柔軟であり、風通しよく、常に変化をし、より大きくなっていかなければならないものである。

そうであれば、何の役にもたたない自己犠牲などはジャマになるだけである。人数が多ければ、必ず意見の対立はあるだろう。けれど、それは、さらによりよい自分たちであるために、妥協なく話し合うべきであろうし、その結果、今回は誰かが引く、という事はあるだろうが、それは「自分を捨てて」いる事とは大きく異なる。

SMAPは決して中居一人で持っているグループではない。彼らは、それぞれ、SMAPを誇りに思い、メンバーを誇りに思い、そのメンバーに負けないように、なおも努力するのである。

かつて中居は、コンサートの構成をすべて自分で考えていた。それが数年前から、各コーナーをそれぞれのメンバーに任せるようになって来ている。完璧主義の中居が、それぞれに任せられるようになるほど、メンバーも成長したという事であろう。グループが出来たばかりの頃は、本当に有象無象のメンバーたちで、自分がしっかりしなくてはと、本来末っ子の中居が、なれない長男業を続けて来た事は想像に難くない。それが、いつの間にか、全員が何番バッターにでもなれると評される程のグループになって来たのである。

誰かが我慢するのでなく、誰かが犠牲になるのでなく、それぞれ自由に行動が出来、外で大きくなったメンバーが帰って来ても窮屈ではないだけの広さ、深さが、今まで以上に、これからのSMAPと言う器に求められている。

もちろん、器を作っていくべきメンバーたちは、それぞれのプライドをかけ、そのような事はずっと昔から自覚しているに決まっているのだが。

Waht‘sNewへ

SMAPレポートへ

SMAPメニューへ

トップへ